#今晩のお酒とおつまみ【沖縄の焼酎・泡盛】 | 座って半畳、寝て一畳

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【沖縄の焼酎・泡盛】

 沖縄には、「泡盛」という焼酎が存在し、沖縄県民が愛するお酒として人気があります。

 今回は、焼酎のルーツでもあり、国内最古の蒸留酒とも言われる「泡盛」のお話をしたいと思いますので、しばしお時間を拝借させていただきます。

 

 「泡盛」は、タイ米(インディカ米)を麹にし、水と酵母を加えて発酵させ、単式蒸留をして造ったもので、この製法は500年も前からほとんど変わっておりません。

 

 500年変わっていないとされている「泡盛」の蒸留技術は、14世紀後半から15世紀頃にかけて現在のタイにあたるシャム国という国から琉球に伝えられたとされています。

 

 このとき蒸留技術とともに、蒸留器やタイ米、貯蔵用のかめなども一緒にもたらされました。

 それらの道具や蒸留技術、また琉球の気候に最適な黒麹菌の導入などによって、沖縄独自の焼酎「泡盛」が誕生したと考えられています。

 

 「泡盛」は15世紀から19世紀まで、献上品として中国と日本の権力者に献上されていたという記録があります。(当時の琉球は、中国に従属しておりました)

 また、中国皇帝からの使者である冊封使をもてなすお酒としても使われていたそうです。

 

 18世紀から19世紀には首里王朝の命により、泡盛造りは首里の赤田、崎山、鳥堀の三箇所でのみ製造が許さるようになり、厳重に管理されるようになりました。

 

 明治時代になり、琉球王朝の解体とともに、泡盛の自由化が始まりますが、第二次世界大戦で生産が一時的に中断し、沖縄では多くの酒造場が被害を受け、終戦後には原料の米も食料用すら不足する状態で、泡盛の製造ができないという事態にもなりました。

 

 米軍の統治下では酒造りは禁止されていましたが、その反動によって密造酒が造られるようになり、米軍は酒造所の必要性を認めて官営の酒造工場を設置しました。

 

 ただ、戦争の影響で各酒蔵の黒麹が消失しましたが、ある酒造場が焼け残った「かめ」から黒麹の培養に成功し、これを各酒造場に供給したため、泡盛造りも徐々に復興していき、今に至ります。

 

 泡盛の名前の由来は、蒸留の際、導管から垂れてくる泡盛が「かめ」に落ちる時、泡が盛り上がる状態を見て「泡盛る」から「泡盛」となったという説やタイ米が使われるようになる前は米と粟(アワ)とを原料としたことから、「粟もり」から「泡盛」になったという説、サンスクリット語の酒を意味する「アワムリ」からきている説など多くあります。

 

 日本での最古の蒸留酒は、一時期に無くなりかけましたが、泡盛を愛する人々の努力によって復興を遂げ、現在では沖縄だけでなく、日本国内でも愛されるお酒になりました。

 

 琉球の時代から沖縄県民に愛されてきた「泡盛」の歴史に思いを馳せつつ、南国の風を感じながら今宵は、沖縄料理をもつまみ、「カチャーシー」など踊りながら、沖縄気分を満喫してください。

今晩のお酒とおつまみ

 

 

 

 

 

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