真弓はびっくりして振り返った。しかし鹿間はいない。いるのは安良岡ただ一人だ。

 すると、安良岡が口を開いた。

 「そんなびっくりした顔しないでよ。体は安良岡だけど、声は鹿間だろ」




 氷のように冷たいものが、体中の神経に走り始める。いや、血管にもその冷たさは混じっている。

 真弓はあまりの恐怖に、身動き一つできなくなってしまった。


 (『闇鬼』!)

 心だけがかろうじて、機能しているようだった。


 「そうだよ。君が知りたがっていた『闇鬼』さ。どうだい?正体がわかって嬉しいだろ?なんだよ、その顔は。もっと嬉しそうな顔をして欲しいなぁ」

 安良岡は太った体を揺すりながら、ニヤニヤと笑みを浮かべて真弓に近づいてきた。


 「『闇鬼』!……わたしを騙したのね。鹿間君の声で、わたしをおびき寄せたのね!」

 真弓は硬直した体ではあったが、何とか踏ん張って言葉を発した。


 「鹿間の声であろうと、誰の声であろうと『闇鬼』の正体が知りたかったのだろう?」

 安良岡、いや『闇鬼』は、エヘラエヘラと笑っている。すでに、安良岡の声に戻って

いた。


 「安良岡君はどうしたの?鹿間君はどこにいるの?」真弓は、両拳をギュッと握って精一杯の声を出した。


 「鹿間は今頃イギリスだ。こんなデブの体じゃなくて、本当は鹿間の体に入りたかったんだけどなぁ。いくら俺でもイギリスにいる鹿間を、瞬間移動はできないんでね。こいつの体を借りたわけさ」

 『闇鬼』はそう言いながら、Tシャツの上から、安良岡のお腹の肉を引っ張っていた。


 「さてと、俺が何でおまえに会いたかったか教えてやろう」『闇鬼』は、まだ憑依した安良岡の体を触っている。

 「おまえに俺様の子供を生んで欲しくてね」

 『闇鬼』はそう言うが早いか、着ているTシャツを脱いでしまった。安良岡の弛んだ胸と腹が、外灯に白く照らし出された。


 (わたしが、あなたの子供を?冗談じゃないわ!そもそも何でわたしなのよ……!)

 真弓は唇を噛み締めて『闇鬼』を睨みつけた。


 「焦るなよ!ゆっくり教えてやるから。……俺がこの世界に来たのはな。最高の『闇鬼』としての称号を得るためだった。それには、条件があった。最初に犯した人間の女に子供を生ませ、その子供に憑依する。生まれたばかりの人間の血と俺の血が混合して、最高位の『闇鬼』の誕生になる筈だった。しかし、甘かった。俺の『闇の精子』と『人間の処女の卵子』ただ一度だけの結合でなければ、その望みは叶わない。あっさりとその計画は潰えた。それを打ち砕いたのが、貴様の母親だ!」


 「えっ、お母さんが?」

 真弓は『闇鬼』が一体何を言っているのか分からなかったが、そんなことにはお構いなしに『闇鬼』は喋り続けた。


 「この失敗で俺は『闇鬼界』の掟により、宇宙を二十八年間も漂い続けなくてはならなかったのさ。そして、俺は今この世界にやっとで舞い戻ってきた。わかるか、この辛さが!」

 その途端、口から青白い炎なのか煙なのかわからないものが吐き出された。


 「俺が、おまえたちの世界に君臨するには別の方法しかなくなった。つまり、俺の子供をたくさん作り、その子供たちによってこの世界を支配するのさ!おかげ様で、この世界で、俺の子供は一年で四歳に成長する。五年経てば、二十歳だ。そして、俺の計画を砕きやがった清恵の体に入る。そう、驚くことはない。お前の母親を、この日本という国で、初めての女の総理大臣にしてやろう。なぁに、俺の『闇の力』を遣えば、簡単なことだ。そして核兵器を大量に保有する国家に作り変えてやろう!戦争も興してやろう!クックク……


 『闇鬼』がそう言った途端、安良岡の唇から見るからにネバネバとした緑色のヨダレが垂れてきた。


 「おまえにそんなことをする資格なんてないわ!」

 真弓の言葉に『闇鬼』は緑色のヨダレを垂らしながら口角を上げて笑った。

 「資格〜?笑わせるなよ。だったらおまえら人間がこの国で繰り返してる殺戮はなんだ〜?」


 「……????」

 「なんだ、わからないのかぁ?ならば死ぬ前に教えてやろう!おまえの住んでいる隣町で6万羽のニワトリが殺処分されたなぁ」


 (ん?)

 どうやら『闇鬼』は、隣町で鳥インフルエンザに罹ったニワトリのことを言っているらしい。


 「たった十数羽が未知の菌に感染しただけで一緒に住んでるニワトリ皆殺しだ!クックック……。おまえら人間は牛や豚にもおんなじことをしているなぁ!」


 『闇鬼』に憑依された安良岡の白目が赤く輝き出すと同時にますます饒舌になってきた。

 「もしこの町で同じ菌に罹った人間が数十人出たらどうする?他の町の人間を助ける為に、この町に住む1万人の人間を殺処分するかぁ?しないだろう?人間は?……野良犬、野良猫というだけで平気で殺してるくせに!……人間はなぁ、いつでも自分たちに都合良く生きている!いつでも自分たちが中心なんだよ。自分たち中心で世界が回っているんだよ。クックック……


 この『闇鬼』の言葉に真弓は去年の文化祭が走馬灯のように甦ってきた。

 剣道部、柔道部、弓道部の女子だけのチームで動物愛護のブースを作った。

 「私たちの街のイヌやネコの殺処分ゼロの達成にご署名をお願いしまーす!」と訴えていた自分たちが脳裏を過った。


 するとどうしたことだろう。真弓が立っている図書館の踊り場全体が360度、大自然と化している。まるでここはアフリカのサバンナだ!

 真弓の前には悠々と歩く象の群れ、一斉に駆け出しているシマウマたち、お母さんライオンの尻尾に戯れついているライオンの子供たち

 右も左も前も後ろも大自然のパノラマのようだ。


 すると突然、今度は美しい海の中に真弓は放り込まれた。

 驚いたことに海底に溺れずに浮いたまま立っている。息も出来る。

 キョロキョロと周りを眺めると、前方には水面から太陽に照らされてキラキラと輝く珊瑚礁が広がっていた。


 真弓のすぐ左にのんびりとウミガメが泳ぎ、右からイルカの群れがやって来た。

 ぶつかりそうになって「ワッ!」と目を瞑った途端、真っ暗な世界にいる自分に気がついた。 

 そこは図書館の踊り場だ。


 「死ぬ前にいいものを見せてやった。俺って優しいなぁ。……どうだ、わかったろぅ?あの美しい自然を!あの綺麗な世界を。この星を汚しているのは人間だけなんだよ〜。クックク……。そして目に見えない菌が襲ってくると、恐れ慄いて菌に侵された動物たちを何万も殺していく恐ろしい生き物……それが人間だ。もしこの先、……鳥インフルエンザって言うのかぁ?」


 『闇鬼』はどうやら真弓の思考に入り込み言葉をチョイス出来るらしい。


 「……鳥インフルエンザが人間界で発生したら、人間はどうするかなぁ?ニワトリは殺処分する癖に自分たちは殺処分しないだろう?だったら、俺たちが殺してやるよ!クックック……


 楽しそうに笑う『闇鬼』に真弓は歯を食いしばるだけだった。


 「おっといけない!無駄口が過ぎた。鳥インフルエンザで人間が全滅しないうちに、早く殺してあげなくちゃな!この星から人間がいなくなれば、他の動物たちが喜んで俺たちに感謝するぜぇ!」


 『闇鬼』は実に愉快そうだった。

 「俺たちが人間を殺すのは簡単だ。人間は争いごとが好きだろう?時間稼ぎに人間同士の殺し合いに持っていってやるよ。この人間界を『闇の世界』に変えてやる!この星が大爆発を起こすくらい暴れまくってやるよ!!」


 『闇鬼』は、大きな胸をまるでゴリラのようにバンバンと叩いた。するとブヨブヨとした上半身すべての毛穴から、今度は真っ赤な、やはり炎なのか煙なのかわからないものが噴き出した。


 「クックク、今度は二十八年前のような失敗はしない。おまえに子供を宿した後、おまえは暫く冬眠状態に入る。受精を確認したら、おまえの腹を割いて、すぐに子宮を取り出して大事に育ててやる。安心しろ!」


 真弓は、もう何も言葉を発することができなかった。(わたしが殺され、お母さんの体が憑依されてしまう。お父さんは……?マコはどうなるの?)

 『闇鬼』は真弓の心を見透かすように、ふてぶてしい笑いを見せて、真弓に歩み寄りながらこう呟いた。


 「そうだな、勝彦はとりあえず生かしておこう。妻の出世に亭主は必要だ。時が来たら、殺せばいい。……真琴は邪魔だ!どうせ長生きしないだろう?俺は、早く成長しないガキは嫌いでな。おまえの後をすぐに追わせてやるさ」


 真弓にあと、数歩という所まで迫ってきた。それなのに、体が動かない。声も出せない。初めてラウラと会った時と同じ状態になってしまったのだ。

 (どうしよぅ、このままやられてしまうなんて!絶対、イヤ!)

 しかし、真弓はその場に立っているだけで精一杯なのだ。

 ついに『闇鬼』の息づかいが聞こえるほど、近づかれてしまった。


 「その恐怖に引き攣った顔が……、ク~ッ、カワイイねぇ!今たっぷり犯してやるからな!」

 『闇鬼』が軽く真弓の肩を押した。すると、真弓の体はまるでスローモーション映像のように、ゆっくりとコンクリートの床に倒れていった。


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          つづく


(闇鬼は毎週火曜日0時2分の更新予定です)