白々と夜が明けてきた。今は沢村が眠り宮脇が起きている。車は当然エンジンを切っているので蒸し暑い。

 エンジンを掛けて冷房を入れたいところだが、近隣から苦情が来ると張り込みがバレる恐れがある。

 窓を開ければ蚊が入ってくるし、辛い所だ。


 扇子を使っている宮脇の耳元に、沢村のワイシャツのポケットから、「ブーン、ブーン」とまた携帯の振動音が響いてきた。

 沢村は、目も開けずにポケットに手を突っ込んで、まさぐっている。そのうちに振動が止まった。


 「さっき、セットしておいたんだ。交代の時間にな」

 沢村は手の平で顔を覆ったかと思うと、「バシッバシッ!」と叩き始めた。

 「よし、目が覚めた」沢村は、胸ポケットを指差しながら「知ってるか?」と子供っぽく笑った。

 いきなり訊かれたって、何のことかわからない。宮脇は、首を傾げて応対するしかなかった。


 「携帯のバイブ機能を考えたのは、俺たちデカなんだぜ。といっても、作ったのはもちろん企業だけどな」

 タバコを吸わない沢村は、ガムを取り出して宮脇にも手渡した。宮脇はペコリと頭を下げて、話の続きを待っている。


 「せっかくトオバリ(遠くからの監視)していても、携帯が鳴っちまったら元も子もないだろ。ガサの時など、鳴ったら困る時は結構あるからな。それで、何とかならないかって、神奈川にある小さな会社に頼んだらしい。そしてこいつができたんだ」

 沢村は、ストラップを摘んで、携帯を引っ張り出した。


 今初めて気がついたが、ストラップには少し汚れの目立つイルカの人形がついている。

 結構可愛いところがあるんだな、と宮脇は少し心が温かくなった感じがした。


 「こんな携帯を、米粒ほどのモーターがバイブさせているんだから。大したもんだ」

 「『必要は発明の母』とは、よく言ったものですね」

 宮脇は、自分の携帯を引っ張り出して感心している。と、二人のお腹がグ~ッとなった。


 「腹のバイブが鳴り出した!大した収穫がなくても、腹だけは正直だな。今度は、俺が買って来よう」

 しかし、宮脇は自分が行くと言い張った。もし何かあった時に、わたしではまだ対処できません、と言うのだ。沢村は、苦笑しながら車から降りた。


 窓越しに「またサンドイッチでいいですか?」と訊かれ、沢村は軽く頷いた。

 「すぐ、戻りますから」そう言い残して宮脇の運転するクラウンが小さくなっていく。

 電信柱の陰に隠れて、沢村はじっと真弓の家を見つめた。

 (何も起こらないか。いや、別に起こらなければ起こらないほうがいい)


 そろそろ、アスファルトを蹴る靴やヒールの音が響いてくる時間帯になる。

 ここから都心まで一時間半近く掛かるため、この辺りの人は早くも出勤時間なのだ。

 それとは別に、犬の散歩をするお年寄りも多い。沢村をうさん臭そうに見つめる人もいる。

 こんなのは慣れっこだと言っても、あまりイイ気分ではない。


 (今は変な事件が多いから仕方がない)

 逆に、怪しんでくれる人々が多く住む町は、治安上安心なのだ。沢村はそう思うことにしていた。

 仕方なく真弓の家が死角にならないように、ブラブラと歩き出した。


 それにしても半袖のワイシャツ姿の男が、こんな朝早くからのんびりと散歩もおかしいかな、と思えてくる。

 暑いのでネクタイを外しているため、もしかするとリストラされたのを家族に言い出せずに、時間を潰している男に見えるかもしれない。そんなことが頭に浮かんだ。

 (無精髭も生やしているしな)


 今日も暑くなりそうだ。蝉が「ジージー、ミンミン」と騒がしくなってきた。

 (夜は蛙の大合唱で、朝は蝉の大演奏会か)自然が生きていていい町だ、と沢村は青く澄んだ空を仰いだ。


 (杏子も自然が大好きだったな)

 早くも額に浮かんできた汗を、ハンカチを押し当てて拭いながら、遠い過去を振り返っていた。

 向こうに、白のクラウンが見えた。宮脇が朝食を買ってきてくれたのだ。

 何も悪いことをしていないのにホッとする自分に、沢村はつい苦笑してしまった。


昼になった。別に動きはない。

 昨日と同じ場所に、美香の自転車は停めてある。おかしいといえば、清恵の亭主の勝彦に出社した気配がないことだ。

 「何かあったんですかね。まあ、早めの夏休みをとったということも考えられますが……」そう宮脇が口を開いた時だ。


 運転席の窓を叩く人間がいる。沢村と宮脇が同時に見ると、それは警官だ。

 (しまった!誰かに通報された)ほんの二日間と思い、地元の交番に連絡を怠っていたのだ。


 「昨日の夕方から、こちらにずっと停まっているそうですね。どうかしましたか?身分を証明するものがあれば、ご呈示を……

 警官がすべてを言う前に、宮脇が警察手帳をそっと翳した。


 「あっ、これは失礼しました」警官が慌てて敬礼をするものだから、沢村が急いでそれを止めようとしたが遅かった。

 この車に警官が敬礼などしているところを誰かに見られたら、自分たちがデカだということがばれてしまう。

 どこかの家を張り込んでいると知られてはまずい。しかし、もう遅かった。


 丁度、帰宅しようとする美香が、自転車に乗るため真弓と一緒に玄関に出てきたのだ。  

 ジッとこちらを見ている二人の視線が、やけに眩しく感じた。

 真弓と美香はコソコソと耳打ちしながら、そのまま美香は自転車に乗って行ってしまった。

 手を振り続けている真弓だったが、その手を下ろすとずっと沢村たちの方を凝視している。


 (あれが清恵の娘、真弓だな)

 沢村は、目を細めて窓越しに見た。あの位置からでは、車内の様子はわからない筈だ。

 (しかし、変な推測をされてはマズイな)


 警官は宮脇に任せ、沢村は助手席から急いで出ると真弓に向かってお辞儀をして歩き始めた。

 真弓は真弓で、警官に何か聞かれている車がいるので「きっと職務質問されているのよ」「ドラマで見たことある」などと美香と話していたのだ。


 (ヤクザかな)なんて思っていたら、その車から男が自分にお辞儀をしながら出てきたではないか。

 それもこっちに向かってやってくる。真弓は動揺した。

(まさか『闇鬼』では!)と思ってしまったのだ。

 ヤクザに憑依した『闇鬼』が、こっちに歩いてくる!


 家に逃げ込めば、マコやまだ具合の悪いお母さんが危ない!何とかここで食い止めなくては!

 真弓は咄嗟にそう考えた。

 何か戦うものは……

 そうだ!確か素振りの稽古用にお父さんが買ってくれた木刀がある筈だ。

(しまった!玄関の中だ)

 真弓は、眉間に皺を寄せた。

 そして沢村から視線を逸らさないようにして、ジリジリッと後退りした。

 もう沢村と真弓の距離は五メートルもない。


 沢村は笑みを浮かべて近づくが、真弓は冷や汗タラタラだ。

 その途端、沢村が羽織ったジャケットの内ポケットに手を入れた。

 真弓は相手がピストルでも出すのではないか、もうだめだ!と目を瞑った瞬間、目の前に現れたのは、真っ黒な手帳だった。


 「おくつろぎの所、すみません。私、北八王子警察署の沢村と申します。お聞きしたいことがあって伺ったのですが、少しお時間いただけますか?」

 沢村はなるべく真弓を動揺させないように、笑みを浮かべた。何やら、さっきからの真弓の不審な動きが気になっていた。


 (この子は、何をビクビクしているのだ?俺を怪しい人間と勘違いしているのだろうか?もしかすると、宮崎の仲間に狙われているのを知っているのか?俺がその仲間と思っているのか?)


 真弓は、相手が刑事とわかりキョトンとした。でも……、と思うのだ。

 (そう簡単に心を許せないわ!)

 もしかすると、刑事に憑依した『闇鬼』の可能性だってある。

 (よし!油断していると思わせて、やっつけてやる)


 真弓がそんなことを考えているとは、露ほども知らない沢村は、早速質問を始めた。

 「お嬢さんは、こちらの娘さんですか?」

 沢村はとりあえず、真弓を確認した。もしかすると、立花美香の可能性だってある。

 お互いが疑心暗鬼だ。


 真弓は可愛い声で「はい」と返事をした。

 「一昨日、近くのスーパーで女性を人質にした事件が発生したのは、ご存知だと思いますが。その時、ご在宅でしたか?」

 真弓は来たな、と思った。

 あの場面をテレビで見ていたか、再確認する気なのだ。

 「はい、家にいました」真弓は、しおらしく答えた。


 「その時ですが、誰かから電話が掛かってきませんでしたか?」

 それって美香の携帯のこと?真弓の顔色が変わった。

 しかし、何を言っているのかわからない振りをして、首を傾げた。

 何で刑事が私に掛かってきた美香の電話のことがわかるのよ!

 (やっぱり『闇鬼』だわ!)真弓は、剣道の足さばきで後退りした。


 (この娘、電話のことを聞いた途端、動揺したぞ。やはり、何かあったな。それにしても、なぜ携帯が掛かってきたことを素直に認めないんだ?もしかすると、脅迫されているのかもしれない)

 沢村は、家の前で話をしていた立花美香について話を聞こうと思った。そこからじっくり、携帯について問い詰めてみよう、と作戦を練っていた。


闇鬼・第9話「沢村刑事 VS 天宮真弓」②つづく



(闇鬼は毎週火曜日0時2分に更新予定です)