このブログでは、これまで仲井富(なかい・あつし)さんの書いた「砂川闘争」回想記事を、連載してきました。
仲井さんは、若き社会党員として1955年秋から砂川に通い始め、「測量中止」決定を機に他の政治・社会運動へと移っていきましたが、社会党を離れた後も近年に至るまで、折にふれて砂川の記憶を語り続けてきたライターであり運動家です。
その仲井さんが、今年(2024)2月15日、91歳の生涯を閉じました。
砂川平和ひろばのこともいつも気にかけて下さり、1年前の5月には、宮岡政雄さんのお墓まいりがしたいと、杖をつきながら砂川を訪れていました。
(2023年5月2日 宮岡家の墓前にて)
仲井さんから提供された資料も少なくありません。
これからも、その一端を紹介し続けたいと思いますが、今回は、仲井さんから託された一文に注目したいと思います。
それは、「砂川闘争65年 宮岡政雄さんとの再会で知った裁判闘争」と題する文章で、ワープロ仕上げのA4サイズ5ページにわたる横書きの資料です。仲井さんが書き下ろした私文なのか、どこかに掲載予定(あるいは掲載済み)の原稿だったのか、今となっては確認しようがありません。
そこに記された内容自体は、本ブログで連載した宮岡政雄インタビュー記事とほぼ同じです。
戦後の反基地運動再訪――宮岡政雄インタビュー(前半) | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)
戦後の反基地運動再訪――宮岡政雄インタビュー(後半) | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)
これは、『月刊総評』1981年1月号(通号 277) に掲載された記事で、仲井さんの質問に宮岡さんが答える一問一答形式の記述でした。
それに対して「砂川闘争65年 宮岡政雄さんとの再会で知った裁判闘争」は、後年の仲井さんが、自身の感慨をこめて宮岡政雄の人となりを思い起こし、あらためて彼の生涯と闘争を意味づけて書き綴ったと思われる、エッセイ風の文章です。
長文なので前・後2回に分けて、明らかな誤字脱字は修正した上で、原文のまま掲載することにします。
適宜読点を加え改行を追加し、必要に応じて〔 〕内に補足または注記を挿入します。
また、宮岡さんの語りがそのまま引用されている箇所には下線を付けて、仲井さんの本文や間接話法の部分と区別できるようにします。
砂川闘争65年 宮岡政雄さんとの再会で知った裁判闘争(前半)
仲井 富
◆はしがき
私が宮岡政雄さんと再会したのは1980年の秋である。激突の1955年から57年の3年間は砂川に専念したが、以降は社会党青年部長として全学連や総評青年対策部、社青同などの青年学生共闘会議を中心に、和歌山の勤務評定反対闘争、警職法反対闘争、安保闘争と全国的な闘争の中にいたからだ。そして1970年からは社会党本部を辞めて公害問題研究会を発足させ、これまた全国の主な住民運動の現場に足を運んだ。
1980年、その中間総括の意味を込めて取り組んだのが月刊総評の「わが戦後史と住民運動」という連載企画だった。当時は編集部に、社青同のかつての書記局にいた中林美恵子さんがいた。そこへ持ち込んで北海道から沖縄までの交通費、宿泊費をすべてまかなって〔もらい〕、12人の住民運動のリーダーたちの戦前、戦後から今日までの個人史を語ってもらった。その一環として、私の原点である砂川闘争の生き証人として宮岡さんを訪ねた。そして私は打ちのめされた。砂川現地の3年間を砂川闘争と思い込んでいた無知に気づいたのである。
◆12年ぶりに砂川を訪ねて宮岡夫妻と再会
1980年の秋ごろ、それこそ十数年ぶりの再会だった。しかし宮岡さん夫妻はちゃんと覚えていて下さった。秋日和の縁側で宮岡さん夫妻を撮った写真が残っている。楽しく懐かしい時間だったが、宮岡さんはすでに2年前脳出血で倒れ不自由な体だった。今でも覚えているが別れ際に「仲井さん、リハビリのために畑の土を踏んで歩いている。病院の廊下よりよっぽど気持ちいいですよ」と言われた。嗚呼、この方はほんとの百姓だと感嘆した。
そして2年後の1982年8月8日、69歳の生涯を閉じた。砂川闘争開始の1955年小学校一年生だった娘の京子さんはいまや父親の年を超えて70歳だ〔娘の京子さんは1950年生まれ〕。かつて1950年代は、砂川闘争や百里原闘争で宮岡さんとご一緒したことはしばしばある。だがそういう時は、当面の事で一杯で、お互いの個人史を話し合うなど不可能だった。
この月刊総評のインタビューで幸いにして砂川米軍基地反対闘争の歴史的背景を含めて、宮岡さんの個人史まで聞くことができた。そして私の砂川米軍基地闘争の3年間は、その一部にすぎないこと、56年秋の大激突と強行測量の中止と言う劇的な出来事だけで、思考停止していたことを思い知らされたのである。
◆宮岡さんの出自は16代続く地主 近衛歩兵第一連隊へ
インタビューの冒頭、宮岡さんは自らの出自を語った。1922年(大正2年)生まれで、大正デモクラシーは身に受けている。学問としてではなく、自分の肌で感じた自由・民権というものだ。砂川は政争の多い町だった。
私はここでの生活は旧い方で、私で16代目です。だから私の親戚には町の相当有力者が多くて、砂川で運動が起こった時でも、神社の境内を借りに行く時に、私が言ったらすぐ貸してくれるが、町長や議長が言っても貸さない。神社を支えているのは皆私の親戚だから・・・。
なるほどと合点した。小学校の校舎をまるごと全学連の宿舎にしたのも教育委員会を押さえていたからだ。今日では考えられないことである。
宮岡さんは小学校一年の時に父親を亡くした。その後本当に苦労したと言う。
比較的大きい経営面積を持ちながら金がないから叔父さん――父の弟ですが、私が二十歳になるまで世話をしてくれた。金の苦労はしたけれど、経営面積が広いから自分の力が出てくると復活も早かった。子どものころからたゆまぬ努力をしたから周囲の人達も認めてくれた
と語っている。
もう一つ宮岡さんの出自に関連して、あまり多くを語っていないが、二十歳の時の徴兵検査で、近衛歩兵第一連隊に抜擢されている。当時は全国の優秀な壮丁を選抜して入隊させた。やはり宮岡さんは体力頭脳ともに優れた人材だったことを証明するものだ。
◆農地改革への取り組み 農地改革の補助員としての実務担当
昭和二十年の12月に復員してきて、農地改革の補助員と言うのをやった。職員がいるわけではないので、下手をするとみんなボスに取られてしまう。その辺のところは、私は正直だから、2000町歩もある農民の構図を写してきて、それぞれ小作が自分で構図の中に書き込むようにした。それで買収計画を立てるという方針を出した。構図は書き込んだら、もう誰も動かせない。そこを誰が作っているかということがはっきりした。
こういう地道な世話役活動が、宮岡さんに対する絶対的な信頼となったといえよう。
◆田中せん親子の死守した土地が基地拡張阻止の切り札だった
何故、砂川米軍基地拡張が阻止できたのか。それは当初は百数十戸の反対同盟が次々と切り崩された中で、最後まで土地買収を拒否した田中せんさん親子の闘いだった。私は1956年の全学連が参加した1千人を超える負傷者を出す闘争で強制測量中止に追い込んだところまでしか知らなかった。
しかし革新政党や労組・学生が去った後も、闘争は延々と1969年まで続いたわけである。そのなかで宮岡さんが特筆大書したのが、田中せん親子の闘いだった。もし田中せんさんが土地を売っていたら、米軍基地拡張は成功していた。
宮岡さんは1980年に再会した時、『砂川闘争の記録』初版本・三一書房を下さった。そのなかに田中せん親子のことを以下のように記述している。
何といっても、滑走路延長線上の土地を守って最後まで踏みとどまった人といえば、78歳の田中せんさんである。この人は滑走路の北端から僅か280メートルのところに住んでいて、基地の端に隣接して約1300坪の土地を所有している。この人が移転しなければ滑走路の延長は絶対できない。この人がもし移転してしまえば、飛行場の改善は最低保障され、実質的に基地拡張はできたことになる。
田中さんに対する防衛施設庁のあくどい攻撃はすさまじいものだった。親戚・知己に手を回し、説得を頼み、一時は身を隠すようなことまでして、田中さんは闘い続けた。
◆砂川の非暴力闘争の象徴と日本山西本敦上人との出会い
その一つが、宮岡さんが砂川の非暴力闘争の信念を貫くもととなった、日本山妙法寺の西本敦上人との出会いである。〔ドキュメンタリー映画〕「流血の記録 砂川」に登場する西本上人は、1956年10月の機動隊による暴行で重傷を負い入院した。その西本上人たちが警官隊の警棒に無抵抗のまま乱打されている姿を基地内から目撃していた米軍の若い兵士がいた。それが後年、日本山に帰依することになる、デニス・バンクスだった。
日本山妙法寺の藤井日達上人との親交のあったガンジーの非暴力不服従の戦いに共鳴。1967年以降、三派全学連などが参加してきたが、一貫して非暴力闘争を訴え、砂川の集会では一度も内ゲバなどは起きなかった。
沖縄の非暴力闘争の象徴だった伊江島米軍基地と非暴力闘争が、1955年前後に相呼応して起きていたことや、砂川の宮岡政雄行動隊副隊長らと、沖縄のガンジー阿波根昌功鴻との交流と連帯が当時から続いていたことを知った。
宮岡さんは別れ際に、仲井さんこれを読んでくださいと、一冊の本をとり出した。それはガンジーの「非暴力不服従」を説いた日本山妙法寺の方が訳した本だった。
◆百年後を見据えた戦略家 米軍基地返還後 住居建て 音楽大学誘致
凡俗の及ばないことを痛感したのは、米軍基地返還後、常人ならそれで万歳だが、宮岡さん、青木さんは国立(くにたち)音楽大学を砂川町に誘致した。もし万一、将来米軍にせよ、自衛隊にせよ、国家権力が基地拡張計画を立てた場合に備えて、音楽大学の頭上を飛ぶような計画は立て難いということを念頭においたものだ。
また宮岡さんは、米軍基地拡張中止後、直ちに、滑走路計画のコースの土地に建物を建設した〔原文は「借家を建てた」〕。現在それは京子さんが引き継いで砂川資料館〔砂川平和ひろば〕となっている場所だ。
〔砂川は〕単に米軍基地だけでなく、戦前の大正時代から、日本軍の飛行場として、太平洋戦争時代、前後9回、面積にして約51万坪の土地を接収された。また太平洋戦争末期、米軍の空襲によって砂川町民の受けた物的・人的被害は、全焼家屋149戸、半焼壊111戸、死者25人、負傷者13人に達した。戦前から日本軍の基地として、強制収用された歴史を抜きに語れない。
いわば戦前、戦後の軍事基地として翻弄された砂川町の歴史があるからこそ、返還後も百年の計で、念には念を入れた基地拡張阻止のための戦略が立てられた、ということである。
【後半に続く】