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先月のブログでお伝えしたとおり

伊達判決を生かす会7.1「伊達判決64周年記念集会」 | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

「伊達判決を生かす会」による「伊達判決64周年記念集会」が、2023年7月1日㈯に、東京都北区の「北とぴあ」ドームホールで開催されました。

 

      

施設案内 | 北とぴあ (hokutopia.jp)    ドームホール | 北とぴあ (hokutopia.jp)

 

 

集会は午後1時30分から、開会のあいさつや「伊達判決を生かす会」の活動報告などで始まりました。

 

続いて、砂川事件裁判国家賠償請求訴訟について、弁護団からこれまでの経過と今後の方針についてお話がありました。原告の一人・坂田和子さんからは、今年の初体験として、砂川現地を訪れ砂川平和ひろばで講演したこと、第12回口頭弁論(2023年5月22日)で尋問に答えたこと、などが報告されました。

 

(川島進様提供)

 

 

当初から被告(国)側の弁護団が疑義を露わにしていた米国公文書館の文書については、『日米安保と砂川判決の黒い霧』の著者・吉田敏浩さんが、アメリカ国立公文書館に情報開示を求め全面開示された、という実体験を語りました。

吉田さん個人がe-mailで請求した文書は全て、2022年8月に同公文書館の保管係からpdfファイルで送られてきたのです。文書が確かに存在し全面開示されている事実は、疑いようがありません(5月22日の口頭弁論で、原告側証人として発言した孫崎享さんも、それら文書の信憑性・真正性が極めて高いことを明言しています)。

 

(以下の写真は、本ブログ筆者が撮影したもの)

 

     

 

 

10分の休憩の後、「伊達判決を生かす会」の共同代表であり、砂川事件裁判国賠請求訴訟の原告である土屋源太郎さんが、90分近い記念講演を行いました。

以下、土屋さんの記念公演の核心的な部分と、弁護士からの補足説明などをもとに、今回の集会の今日的な意義を考えてみたいと思います。『日米安保と砂川判決の黒い霧』の関連個所も適宜参照することにします。

 

 

 

  戦時体験から砂川闘争、伊達判決、最高裁判決、そして国家賠償裁判へ

 

土屋源太郎さんは、1934(昭和9)年、「北とぴあ」近くの東十条で生まれました。王子の国民学校に入学した年の12月8日、「太平洋戦争」が始まりました。軍国主義、皇国史観、神話教育をたたき込まれ、国家総動員令が発せられて、個人の自由も人権もない時代でした。

学童疎開中に、東十条の家は空襲で焼失し、戦中も戦後も食糧不足に苦しめられましたが、敗戦を知った日の夜、灯火管制が解かれて家々に明かりがついた時の感激と、もうB29 に怯えることもないのだという喜びは、戦争と平和とはこれほど違うものか、という実感となりました。

 

戦後の新体制のもとで中学・高校に入学し、1953(昭和28)年に明治大学に入りました。同年の7月から始まった学園民主化闘争をきっかけに、土屋さんも学生運動に加わり、自治会活動を始めました。原水禁運動や警職法・教育基本法改正に反対するデモとストライキにも参加しました。

 

「砂川闘争」との関わりは、1956年から拡張予定地の本測量が始まり、総評や全学連・都学連が基地拡張反対闘争の支援に参加するようになってからでした。

基地内に土地をもつ地主がその土地の賃貸契約の解約と土地返還を求めたのに対して基地内測量が強行されると、強制収用反対の闘いが激しくなりました。土屋さんも1957年7月8日の抗議行動中に、フェンスを押し倒して基地内に侵入しました。すぐ機動隊に押し戻されたものの、ライフルをもった米兵も軍用ジープで出動しており、緊迫した対峙が続きました。

やがて抗議する側と警備する側の代表が話し合い、双方同時に引き上げることで、その日は大事に至りませんでした。

 

ところが、2ヶ月以上も過ぎた9月22日の朝5時過ぎ、土屋さんは阿佐ヶ谷の下宿で、突然のノックに起こされました。5~6人の男と制服警官10人以上が令状をもって現われ、土屋さんは逮捕されたのです。

同日ほぼ同時刻に逮捕され、最終的に起訴された7人は、労働運動・学生運動のリーダー的存在でした。

安保条約・行政協定に基づく刑事特別法違反で裁かれることになりましたが、土屋さんは反米・反帝国主義の立場から司法は信用できないと考えていました。

 

しかし、1959年3月30日に東京地裁で伊達秋雄裁判長が下した判決は、「被告人全員無罪」でした。

土屋さんの理解によれば、その理由は、指揮権・管理権の有無にかかわらず米軍基地は戦力であり、いったん事があれば戦争に巻き込まれるのだから、憲法9条違反である、ということでした。

思ってもいなかった無罪判決とその明快な論理にびっくりし、感動したことを、土屋さんは今でも忘れられません。

 

検察は東京高裁を飛び越えて最高裁に跳躍上告する、という手段に出ました。そして最高裁の田中耕太郎裁判長は「原判決を破棄し差し戻す」「安保条約のような高度に政治性を有するものに対し、違憲か否かの法的判断をすることは司法裁判所の審査に原則としてなじまない」と退けたのでした。土屋源太郎さんたち被告は、差し戻し審により有罪判決確定となり、それぞれ罰金2000円を払いました。

 

それから47年後の2008年、土屋さんの後世を変える出来事が起こりました。同年4月29日、職探しに苦労した末、静岡に移り住んでいた土屋さんのもとへ、毎日新聞の記者から電話がかかってきたのです。国際ジャーナリストの新原昭治さんが、アメリカの国立公文書館で偶然にも砂川事件裁判をめぐって日米間に密談があったことを裏付ける文書(電文)を見つけたとのことで、土屋さんに感想を求める電話でした。

 

伊達判決が出た1959年当時、駐日大使であったダグラス・マッカーサー2世(連合国最高司令官だったダグラス・マッカーサーの甥)が、伊達判決の翌日早朝に、藤山外相と会い最高裁への跳躍上告を促したことや、最高裁の田中耕太郎裁判長がマッカーサー大使と密談して、裁判に関する情報をもらしていたことなど、日米関係や司法のあり方に疑惑をもたらす電文等が、秘密文書としてアメリカの国立公文書館に保管されていました。それらの秘密指定が解除されたのです。

翌2009年、土屋さんたちは「伊達判決を生かす会」を設立しました。そしてまずは日本側にも同様の文書があるのではないかと、情報公開を求めましたが、「文書は存在しない」と棄却されました。

その後、関連する秘密解除文書が、他の日本人研究者・ジャーナリストによっても次々発見されました。日本とアメリカ、政治と司法との間で、伊達判決を破棄するための共謀行為があったことは明白でした。土屋さんら元被告たちは、それが憲法37条で保障されている「公平な裁判を受ける権利の侵害であり、憲法違反である」と訴えて、再審請求を起こしました。砂川事件の元被告が、国を訴える原告となったのです。

 

その訴えが、2018年に最高裁への特別抗告まで棄却され続けると、土屋さんたちは翌2019年、最高裁の田中耕太郎裁判長によって公平な裁判を受ける権利を侵害された結果有罪になったとして、賠償と名誉回復を求める国家賠償請求訴訟を新たに開始しました。

それ以前の請求や訴えがことごとく門前払いされてきたのに対して、今も続くこの砂川事件国賠訴訟においては、ついに東京地裁での弁論が可能となり、2023年5月までに計12回の口頭弁論が実現しました。

 

砂川事件国賠訴訟第12回口頭弁論(2023.5.22) 傍聴レポート | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

この機会に、武内更一弁護士ら原告側弁護団は、「除籍期間」や「時効」を理由に今となっては損害賠償請求が不可能だ、などとみなされ得ることに対しても、抗弁の備えをしていました。類似の裁判例などをもとに、「不法行為」による「損害が顕在化したとき」や、請求権を「行使し得るとき」を、起算点とするという論述を展開しました。国側の不法性や隠蔽などによって生じた不利をそのままにした法的・手続き的排除に、対抗したのです。

 

 

   

 

 

 

また今回の集会では、「砂川闘争」とその後の裁判闘争の当事者たちが、「台湾有事」を煽る今の政治・社会状況に対して、どれほど危機感を抱いているかが、強く感じられました。最後に、その点に注目しておきたいと思います。

 

 

かつての「台湾海峡危機」と今の「台湾有事」論

 

土屋源太郎さんは講演の後半で、近年の日本の現状にふれ、PAC3が配備され、沖縄の宮古島では攻撃用のミサイル購入計画もあることを指摘しました。

現に、2007年3月30日に埼玉県の航空自衛隊入間基地に、迎撃用(地対空)ミサイル・パトリオットの改良型PAC3ミサイルが、初配備されています。他国から発射された弾道ミサイルを迎撃するもので、前年に米空軍が嘉手納基地に配備したものと同型ミサイルです。
日米両国は弾道ミサイル防衛(MD)を共同で進めており、PAC3も16セットが日本各地に配備され続けました。

 

土屋さんは、台湾問題についても補足を加えました。

伊達判決が出る前年1958年の8月に、蒋介石の国民党政権が実効支配する金門島に中国軍が砲撃を加え、台湾側も応戦するという緊急事態が発生していたのです。日本が敗戦によって中国大陸から撤退した後、共産党との内戦に敗れた国民党は台湾に逃れ、「大陸反攻」をめざしました。台湾を含めた「ひとつの中国」を主張する中華人民共和国は、軍事力の行使も辞しませんでした。台湾を支持するアメリカは、1958年の第二次台湾海峡危機にあたって第七艦隊を出動させました。それは、横須賀基地を使用して横須賀から出港したのです。

 

伊達判決において、在日米軍基地から日本国外に米軍が出動することで日本が戦争に巻き込まれる危険性がある、としたのには現実的な根拠があったのです。吉田敏浩さんも『日米安保と砂川判決の黒い霧』のなかで書いているとおりです。そのような危険をもたらす米軍の駐留を許す日本政府の行為は、指揮権の有無にかかわらず、憲法9条第2項で禁じられている戦力保持にあたるといえます。

しかもその問題は、1959年の最高裁の口頭弁論でもとりあげられていました。検察側は、「台湾海峡危機」に際して米軍が横須賀の在日米軍基地を使用した事実を覆い隠すしかありません。日本の外務省-マッカーサー大使-アメリカ本国の国務省の間の共謀が、またしてもアメリカで発見された解禁文書によって明らかになりました。それによると、アメリカの太平洋艦隊は、時に応じて日本の海洋施設を使うかもしれないが、それは日本の国内とその付近に配置された米軍とはみなされないし日本を基地とするものではないなどと、横須賀の名前を出さない言い逃れ方が提案されていたのです。

 

それから64年後の集会で、土屋源太郎さんは生々しい戦争の記憶と、砂川事件の法廷闘争経験にもとづいて、「抑止力」を軍備拡大の名目とすることの詭弁と違憲性を指摘しました。確かに、政治や司法の最高責任者が憲法を空洞化させ、「有事」を煽って、自衛隊の強化と軍備の増強、そして日米間の一層の軍事同盟化を進めている今、日本が戦争に巻き込まれるリスクは64年前よりも大きいといえるでしょう。

台湾はもはや「大陸反攻」を掲げておらず、その台湾が「独立」を強行しない限り、中国も台湾を武力攻撃する可能性は低いのです。しかも台湾の世論調査は、圧倒的多数の市民が「現状維持」を望んでいることを示し続けています。中国や中・台関係の専門家は、「台湾有事」の根拠の乏しさを、くりかえし説いています。

 

「有事」の危険性を増す方向へと大きく変わったのは、むしろ日本の方ではないでしょうか。日本の市民にとっては、これほどまでに多くなってしまった軍事基地と原発の存在が、最も身近なリスク源となります。民主国家を標榜する日本で、平和に生きる権利を主張し、戦争につながるあらゆる道を食い止めるために、私たちにできることやるべきことは多いはずです。

その認識を共有しながら、土屋さんは何よりも、今回の国賠訴訟で弁護団や支援者とともに闘える喜びを伝え、心からの感謝を表明して、結審に向けた決意を新たにしました。

 

 

※この日の模様は、川島進さん撮影の動画でご覧いただけます。

https://www.youtube.com/watch?v=GFnnOzLgrLs