こんにちは、たまこです。


暑さで回らない頭ではありますが、今回は実家から(借りて)持ち帰ってきた古い戸籍謄本をもとにして家系図書いてみた!というお話をしてみようと思います。



(よろしければ、こちら↑の記事もご覧くださいませ)


それで、かなり古い戸籍謄本のクセ強い手書きの字とか、旧字体の漢数字とかに苦戦しつつ読んでいるうちに、家系図書いてみようかな?と思い付いた訳ですが。


なんとなく検索してみたら、やっぱり「家系図アプリ」ってあるんですね!

しかも、結構いっぱいあった(笑)

それだけ需要があるって事かなーと思ったんですが、とりあえずたまこはフリーハンドで書いてみる事に。


まあアレですよね、トーナメント戦の図みたいにたまこの代から遡(さかのぼ)って書いていけば良いんだよね?って軽い気持ちで、たまこが普段メモ帳がわりにしている100均の子供用スケッチブックに適当に書き込んでいきました。


そしたらまあ、1枚じゃ全然足りなくて紙を継ぎ足しながら書くハメに(笑)。

でも縦に長いんじゃなくて、横が足りないんですよ。

つまり、親や祖父母世代の兄弟姉妹が多すぎるんです。


例えばたまこの父親の兄弟姉妹は5人と聞いていましたが、戸籍謄本を辿ったら実は6人で、第一子の長女の人は生まれて間もなく亡くなったようだ、、というのがわかりました。

これは当時は珍しい事ではなくて、兄弟姉妹は5人以上が当たり前で、その中には病気や不慮の事故で早くに亡くなる子どももいるって感じ。


更に父親の母親、つまりたまこからすれば祖母にあたる人はなんと10人兄弟姉妹だったようで、祖母はその中の第6子で3女だったみたい。

一方、祖父は長男だったけど曽祖父が4男だったから分家したみたいで、曽祖父の兄弟姉妹とその子供についてはやたら詳しく辿れるのに(本家だから)、祖父の兄弟については何人だったかもわからず、少なくとも2人?みたいな(笑)。


まあこれも、昔の戸籍が「家単位」だったからという事なんでしょうね。

それで一応、辿れる名前は全部家系図に書き込んでいって、続柄と生まれた年もわかる分は記入してみたんですが。


曽祖父の兄弟の代で長男(曽祖父の1番上のお兄さんですね)が生まれた年が「文久3年」で、その妻にあたる人の生まれた年が「慶應元年」って書かれてるのを見た時には、「え?」ってなりました(笑)。


ちなみに文久3年は西暦1863年で、慶應元年は1865年だそうです。

同世代の有名人だと文久2年生まれに新渡戸稲造とか森鴎外がいたみたいで、そういう風に聞くとなんだか偉い人みたいな気分になっちゃいますけど、、単にその時代に生まれたよってだけの話(笑)。


でも戸籍謄本でそれくらいまで遡れるもんなんだなー、みたいな不思議な気持ちにはなりますね。

そして生まれた年の記載は無かったですが、戸主の親とその前の戸主という記載は更に2代前まで書かれていたので、、これはガチで江戸時代かも(笑)。


まあ、当時の戸主だったご先祖様も5代目辺りの分家の相続で揉めまくってて、6代目のたまこ姉妹は子孫ゼロになってるなんて思ってもいなかったでしょうけどねっ。

(本家の事はよくわかりません、、)


そして今回は父方の戸籍謄本を辿った訳ですが、たまこの母方の戸籍も相当人数が多いし複雑そうです。

たまこ母は第一子の長女で下に4人兄弟姉妹がいますけど、たまこ母だけ父親が違うと聞いていますし、、。

まあそこら辺の話は、今までも母親の主観で何度も聞かされてはいるんですけど、戸籍謄本を取り寄せて事実関係だけを辿ってみたらまた違う景色が見えるのかもしれないなーと思ったり。

(記憶違い、という事もいろいろあるでしょうし、、)


他にも少し気になった事とか、たまこなりの考察もありましたが、暑くてしんどくなる前に今日の記事はここまでにしたいと思います(笑)。


おまけ。

クッションカバーを洗ったので、中身は強烈な日差しに当てちゃおう!とウッドデッキに並べたんですけど、、すぐ日かげになっちゃった(笑)。

でも、短時間でふっくらです。


ではまた!