温泉が湧き出している。

湯が
次から次へと湧いている。

そこでは
いいかんじの造りの
風呂場にて

温泉に浸かりまくることができる。

鼻歌だって
出てしまうかも。

まあ
そんなに長く入ってられないし
すぐのぼせちゃうのかもね。

宿は
どんなかんじだろう?

風情があるかんじ?

上品な佇まい?


でも
そんな最先端の設備とかいらないよねぇ
なんか
シンプルで、

あと
ごはんはおいしいほうが
いいよね?

豪華なショーとか
どう?

ショー いらなくね?

ラスベガスに来てるんじゃないんだからさ

温泉だよ、ここ。


そうです。

温泉です。

言ってみれば
温泉はタイムレスだ。
時間なんていう容れものからじゃばじゃば
こぼれまくっていくのだ。


そういうお湯に浸かって
気持ち良くなって

おいしいごはんも食べて

とくになにをするわけでもないのだ。

(する人もいるかもしれないけどさ)

うむ。

音楽のね、『サイケデリアな感覚』は
わたしにとっては
温泉だ。

気持ち良さももちろんある。

もしかするとさ
その気持ち良さには
現代的社会生活の
タイム感から
離脱する感覚も
すごく重要なんだなあ
と思ったんです。


そう。

『猫との特別な時間』も
言ってみれば
現代社会の時計を無視してるでしょう?

音楽を作るときの

『小瓶に詰める手紙で構わないや』
っていう
姿勢も

時間軸を歪ませる行為も含んでるんだよね。

そして

そういう文脈で考えてみれば


『ライブ』の話も

(かつてはライブを観るとき、自分のバンド活動の栄養や刺激の意味合いも大きかったけれども)

最近、わたしが音楽を聴くときには
その世界に温泉のように浸かりたい気持ちで行く感覚が強まっているわけで、

そうすると

やはり

電車に乗って

温泉(ライブ)始まるまで1時間手持ち無沙汰で立ち尽くして

念願の温泉(ライブ演奏)に浸かって

で、
また電車乗って帰宅のラッシュやら明日の仕事を考えてしまったりするのって

そりゃあ

「全然、温泉じゃないじゃん!」

って感じたとしても
うむ

それなら

わかる。


うんうん。

そうか

「お祭り」じゃないんだね



「お祭り」がわるいんじゃなくてね


(そっかー、でも
ライブが「お祭り」の人ってむしろ多いんじゃないかな?)

そうだよねぇ。


でも

そーね

わたし
温泉みたいなライブを聴きたいです。










そう
あのねぇ。

わたしは
小5の頃から
猫にとても
圧倒的にお世話になって

(こんなことを読ませてしまってなんかちょっとかたじけないけども、まあいまさらそんなこと言うことないのか)

あの、

その猫

クロっていうんだけどね、

わたしが
いままでで
一番やさしくされた記憶が
猫と一緒にいるときの時間にあるんだよね。

(どうしたもんだろうね?記憶、ほら、恋人とは全員別れているわけでなんかそういうので印象を自分で書き換えちゃってるのかな)

んーまあ

小学生んときから一緒だった猫だからね。
思春期丸々だしね。

(あれ?家族での楽しい思い出がいっこも浮かんでこないのも自分で封印とかしてるのかしら)

あのー

でもね

猫との記憶ってのは
特別なんですよ。

そこには
数字がないのよ。

文字もない。


基本的に

猫と遊ぶとき
猫に遊んでもらってるとき
眠る猫を見てるとき
寝てるふとんに潜り込んでくる猫に気付いてそのあとまたすぐ眠るとき


わたしの
目に映るものは
猫の姿なわけで。

クロは体中、黒い毛(あと白い毛)でおおわれてて、人間ほどには年齢とかも感じさせないせいもあると思うけどさ?


猫といるときは
自分が何歳とか関係なくなるんです。
学校のことも人間関係も家のことも
消えるんです。
猫といるときは猫にとって意味がないことは消える。

猫と仲良くして嬉しかったり楽しく過ごした記憶、
そこには時計はないし年代ごとに区切られていたりしないし別の記憶(たとえば学校でのつらかった事やら)とも結びついてないのです、
もう、たぶん
10年ぶんが溶けて混ざってて、もう濃厚に幸福な気配に満ちてるんですね。

それがあることで
支えられてる部分がすごくあると思う。

だから
もう
猫には頭が上がらない。

敬意を表するほかないんです。


どうなんだろう?


わたしにとってのの
『猫との記憶』

幸福感のかわりに

たとえば
『家族との楽しい思い出』とかが
あったりする人も
たくさんいるのだろうか?


(そうそう、この、わたしの『家族感のなさ』が落とす影、この先に落とす影
ってのもこわいですよ。)

ふー

どうしたらいいんだろうね。

そうだ。

でもさ

少なくとも

わたしには
猫がいてくれたのだものな。


立派な生き物になるには
それで足りるのかもしれない。


猫の名に恥じないように生きるってこと。


冗談ってわけでもないんだよね。


さて。









去年の11月に

ここに引っ越してきて。

その時点では
基本的に
方針というかどうやって生きていくか
ってことも
(もともと曖昧ではありましたが)
全く思考停止というか
わりとバーンアウト状態になっていて。
かろうじて仕事だけは
引き続き同じところでヘルパーをしている形で。

その新しい部屋は
とにかく居心地のよい部屋にしたかったので、それをとりあえず目指して、
あとはわりと当初からある程度部屋で
楽器の音出せるようにしたくって

吸音(防音)ボードみたいなものや発砲スチロールのボードも
買ってきてね、

それにカラフルな布や、エスニックなやつをあてがって
壁に立てかけて。

そんなふうにして
まず部屋を整えて。

そのあとは

けっこう
とめどなく
CD買ってしまう状態があって。

無軌道ってわけじゃないんですたぶん。
今聴きたい気持ちに任せて
昔聴いたことある買のを買い戻すような面もあったし
開拓していく面もあったし
かつて好きだった音楽があいかわらず素晴らしいのを確認して驚愕してさらに掘り下げたりつながりをたどったりして
それも良いのがどんどん出てきたりしてねぇ(90年代ってすごいです)。

DVDでもそういう辿る作業をすこしだけして(こちらはエロも含む)

それから
初めて
本気で自分の
ギターを選ぶことをして
(今でもすごく気にいっています)

それから
容量でかいMTRや
エフェクターもいくつか入手して。


あとは
軒下に
猫のための小皿を
置いて
カリカリやちくわを入れて

そう

それをただ
続けることを今も
しております。


この部屋に来てから
いままでさんざん聴いてきた音楽のなかに
サイケデリアの要素がやけに目立ち始めて
ぐっと気になるようになってきて

それは今現在の心境の反映であるのだろうけど

そもそもの自分の趣向の


サイケデリアの要素が
あるんだなあと
打ちのめされるみたいに
痛感させられていて、
はい。

そのかんじは
形にしたいなあと

この部屋で
形にしたいなあと
思ってますよ。


で、

形にするものも

なにかの具体的に役に立つような?
実用的で
現実的な

用途は

(人から見れば)

ないと思う。


うーん。


心意気としては
それでいいと
思っているんだよなあ。

数年前のバンド組んでた頃とは違って

良い音楽作ることで自分の生活を変えたりつまりバイト生活から抜け出すとか
音楽が広い世界へ連れ出してくれるとか
そういう面は
今はものすごーく小さくなっていて
たぶんそのおかげでそこはラクでいられる。


(センチメンタルな
たとえで申し訳ないけれども)

ほれ、

いまは

小瓶に手紙を詰めて海に流すみたいに

むしろ
まるっきり効率も確率も低くて的外れで切実な
そういうものでありたいです。

なんだろう

格好つけて言ってるだけかしら?


や、
でも

そういう気持ちとか
作りたい音楽が
あるのは

断然

救いなんだよね。


出口じゃなくても
救いに
なるんだよ。