後谷遺跡の勉強メモ
 
2024/5/04、桶川市歴史民俗資料館で観た後谷遺跡の遺物に大いに刺激を受けた(お目当ての中空ミミズク土偶の展示なしだったけど(T◇T))。  2024/5/12、後谷遺跡訪問。
 
 
 
1.発掘の歴史
  • 昭和45年(1970)、加藤貴一氏が採取した土偶、土笛などの資料を、吉川國男氏が『考古学雑誌』誌上で紹介し、広く注目されるようになった。
第4次調査で出土したミミズク土偶。
 
  • 第1次調査;昭和41年(1966)、進行する土取り工事に対応して、加藤氏の協力の下、埼玉考古学会が実施。土偶脚部、土器、石器を伴う小ピットと多数の安行3c式土器が出土した。
  • 第2次調査;昭和51年(1976)に実施。窪地の確認、そこに堆積した黒色土層より安行3c式を中心に後・晩期縄文土器、多量の動物焼骨(大部分がシカ、イノシシ)が出土。
  • 第3次調査;昭和55年(1980)。窪地が南方に伸びることを確認、黒色土層より安行3c~3d式土器、動物焼骨が出土。
  • 第4次;平成4年(1992)、後谷縄文人の住居址を台地縁辺に確認。縄文のタイムカプセルと呼ばれる所以となっている低湿地堆積物から木組遺構、杭列、編組製品、木製品、トチ殻濃集層、土偶、土版、漆製品などの生業に密接した大量の遺物を検出。
 
 
 
 
2. 後谷遺跡の位置
  • 埼玉県桶川市赤堀2丁目。大宮台地北部の東縁で標高は13m、元荒川が南流する低地に面している。

 

 

  • 低平な大宮台地は、遺跡周辺からさらに北上するにつれ、県北東部の加須低地に緩やかに沈降してゆく。一帯には低台地と自然堤防が混在して発達している。
  • 遺跡は、北本市朝日の台地東縁から半島状に突出した舌状低位台地上とその縁辺の低地にかけて立地。
  • 遺跡東側一帯の低地は、かつて篠津沼と呼ばれた沼沢地だったが、大正6・7年(1916-1917)に耕地整理が実施され、排水と台地の削平、その土砂による埋め立てが行われた。また、昭和30年代には宅地造成用の土砂採取によって台地の削平はさらに進行する。このため舌状台地と低湿地からなる景観は長期間にわたって改変を受け、遺跡東半にあたる台地先端部はおおむね削平されて水田下に埋没した。さらに現在では工業団地が開設されており遺跡本来の立地が分かりにくい状況にある。

 

南東から北西に向かって撮影。左(西)側の高台が大宮台地の中心側。後谷公園(遺跡)は大宮台地の東縁に位置した低台地上にあることが分かる。遺跡西縁に地図では判別し難い小川が確認できた。第4次Ⅲ区の木組遺構を設置した小川であろう。こういう気づきは遺跡に直接赴いてみてはじめて分かることだ。

 
後谷公園として整備されている。マレットゴルフを楽しむシニアの皆さんで賑わっていた。休日の正しい公園の風景(^-^)
 
 
遺跡西隣りの高台上に上水の水源地あり。後谷縄文人もこの水源をあてにしてこの地に生活の拠点を持ったのであろう。
 
 
 
 
 
3. 後谷遺跡;1992年第4次調査
 
 
 
3-1. 第4次調査 Ⅱ区 =台地縁辺の居住区域=
  • 台地上の居住域;住居跡12軒(堀之内1式~安行2式)、土坑26基(加曽利E式~安行式)、炉跡45基(加曽利B式~安行1式)、ピット307基(中期後半~後期末葉)。
  • 後晩期を主体とする長期継続型の集落にもかかわらず、検出された住居跡数は極めて少ない。45基の炉跡のいくつかは住居に付随したものと考えても少ない住居数の印象は変わらない。
  • 窪地区域と台地縁辺の住居跡区域の間にピット郡が存在している。この地点は昭和30年代以前の耕地整理や造成により削平を受けており、調査開始前にすでにローム層が露出していたようだ。 実際のセクション(Jトレンチ)を見てもピットが所在する地点に向かって地山が高くなる様子が確認できる。これらのことから実際の住居総数は、かなりの住居跡が削平されて消滅してしまっていたと推察される。
 
 
 

3-1-①. 住居址(第1号住居); 

  • プランは不整形ではあるが本来は径5.4m前後であったと考えられる。ローム層からの掘り込みは30cm程度。壁の立上りは比較的明瞭。
  • 土層は7層に区分可能。床面は3層上面と3層(部分的にアンペラが観察される)。
  • 炉跡は住居中央から重複して3基確認された。2面ある床面との対応は不明。覆土中には骨片を含むものもある。
 
 
 
3-1-②. 住居区域からの出土土器
  • 出土の口縁部数は357点(加曽利E式3点、称名寺式1点、堀之内1式20点、堀之内2式13点、加曽利B1式21点、加曽利B2式48点、加曽利B3式25点、曽谷・高井東式69点安行1式64点、不明93点)。
  • 曽谷・高井東式と安行1式が多く、安行1式は覆土上層にのみ包含され床面からは検出されていないのみ対して、曽谷・高井東式は覆土下面から床面にかけて多く検出されている。したがって、曽谷・高井東式と安行1式の2時期の住居跡が重複している可能性がある。

第1号住居覆土層中から出土した安行1式土器

 
 
住居区域から出土した異形台付土器(曽谷式)
 
 
3-1-③. 住居区域から出土の土偶
 
 
 
 
3-1-④. 台地縁辺の遺物包含層
  • 台地縁辺部に広がる遺物包含層は、一様に分布するわけではなく、遺物が集中する地点とそうでない地点があり、遺物量に濃淡が認められる。M16は、遺物出土量が極めて高く他のグリッドの3倍近く検出されている。一方、南西縁辺部は遺物量が少ない傾向が看取できる。これは、後晩期の住居選地傾向が同一地点で重複する
 
 
 

3-2. 窪地

  • 第2次調査で安行3c式土器を包含する窪地の北端を、第4次調査でその南縁をそれぞれ確認し、南北方向に95mに達することが明らかになった。調査開始時点では、本窪地上は湿地となっており、一部沼地であった。土層は3層に区分され酸化鉄起源の茶褐色土がみられる。堆積状態はほぼ水平で、各層の境は漸移的であり人為的な埋め戻しの痕跡は確認されていない。本窪地が人為的に掘削されたものであるか事前地形であるかの断定は難しい。第4次調査で出土した土器の大半は、晩期中葉、安行3c~d式。層間接合する土器も多く、晩期中葉の比較的短い間に連続して堆積したと考えられる。
 
 
 
4. 第4次調査 Ⅲ区 =低湿地 水場遺構=
4-1. 木組遺構と木道状遺構
 
 
  • ダゴエ層(砂混じりトチ・クルミ殻の層);「ダゴエ」とは金肥の対義語である「駄肥」のことで、調査当時この堆積物が堆肥に似ることから現場内で通称化したもの。
 
 
 
  • 木組遺構;4つの木組遺構をIV層上部で確認。第1~第3号木組遺構は中心軸をほぼ共有し、方向はN32°Eで緩斜面の等高線とほぼ直交する。本遺構の南隣りにヤナギ属の立木がある。遺構との時間差を考慮する必要はあるが、これらが景観的に個々無関係とは思えない。  樹種;1号/クリ・トネリコ属、2号/ヤマウルシ・クリ、3号/ハンノキ・ヤマウルシ・クリ、4号/クリ。  遺物関連土器;1号/安行1式・2式、3号/安行1~2式、4号/曽谷式

 

 
 
  • 木道状遺構; 木組遺構よりも斜面部の低位から出土。根や枝がない幹を使用。中心部材は径60cmで上面は摩滅している。樹種はクリ・オニグルミ・コナラ節・ムクロジ・ヤマグワ・イヌガヤ。  遺物関連土器;安行1式・高井東式の波状口縁・曽谷式~安行1式
 
 
 
4-2. 飾り櫛
  • X線画像からわかるように14本の歯材はそれぞれ独立しており、それらをうまく連結結束することが政策の基本。歯材は平行ではなく外開きになっていること、装飾性が極めて高いことなど縄文時代を象徴する飾り櫛と言える。

 

 
 
 
5. 第4次調査 IA区 =北東の台地区域=
  • 比較的高位部で中期後半の加曽利EⅡ式土器を多数出土。
  • 斜面部では早・前期縄文土器が出土。
 
やはり水回りが良好な場所には太古より人は集まるようだ。
 
 
 
 
 
6. 第4次IB区 =旧河道区域から遺構、大量の遺物の出土=
 
 
 
6-1. 旧河道状窪地に掘られた2号土坑(SK2)

堀之内2式深鉢; 

  • 口径29.8cm、高さ49.4cm。ほぼ完形に近い深鉢で、口唇部に4単位の突起が施され、その1つが把手状に大型化している。把手には内側に貫通しない孔があり、その周囲に沈線が巡る。口縁部には無文帯が巡り、その下位に橋状把手が4単位施される。橋状把手の間には8の字貼付文が付けられている。胴部は膨らみ、縄文地文の上に装飾が展開される。胴部上半の文様は、周囲に微隆起を伴うJ字状のモチーフと、それを連結する斜位のモチーフによって構成される。この斜位のモチーフは、沈線で囲われ、その一部が湾曲する。  他地域からの土器の影響が考えられる(1突起のみの大型化=大木8a、突起に沈線で施されたC字状モチーフ=綱取式、橋状把手=大木8a式)。 土坑掘り込み面が斜位になっていることから、晩期の河川侵食による侵食が考えられ、後期前葉以降の河川の地形改変が想定される。
 
 
 
 
6-2. 旧河床の木杭遺構と編組製品
 
  • 河道状窪地に複数の杭列・杭群が検出。機能・用途の推定は難しい。
 
 
 
編組製品; 
  • 河道状窪地の平坦部に2基の編組製品を検出。北東ー南西に接するように設置。材質は不明。
  • 1つの編組製品の中から安行1式期の土器が出土。
 
 
 
6-3. 旧河道充填堆積層から出土した遺物(縄文のタイムカプセル)
  • 大きく6層に区分可能;
  1. I層;耕作土
  2. Ⅱ層;黒色泥炭 (最下位付近に榛名山二ツ岳火山灰(FA)@AD497年=中期古墳時代)
  3. Ⅲ層;青灰色粘土(縄文晩期以降)
  4. Ⅳ層;暗灰色粘土(縄文時代後期中葉)
  5. V層;黒褐色土(縄文後期以前)
  6. VI層;ローム層
 
  • Ⅲ層(晩期以降)堆積層を3細分した。包含する土器から、3細分層は下位より安行1式期、安行3a~3b式期、安行3c~3b式期に堆積したと推定される。 河道の中心部の東から西への側方移動が認められ、それらを下位より古期窪地、新規窪地とした。
 
 
 
6-3-①. 木製品
  • 石斧柄;イヌガヤ(柔軟性、折れにくい、緻密)を使用。 
  • 櫂状木製品 & 弓; クヌギ(硬い、耐久性あり、強度あり)で作られている。 晩期縄文人は、木の特性を熟知し用途に応じて使い分けていた。 櫂状木製品は加工途中のもの(未成品)も多く出土している。これらを観察すると、1本の木材をみかんの房のように放射状に分割する『みかん割り』という技法で木材を割り出していることが分かる。この櫂状木製品の用途は不明ではあるが出土数の多さから後谷遺跡の生業活動に重要な役割を担う道具であることが予想される。
 
 
 
6-3-②. 出土土器
  • 安行3a~3b式の注口土器ないし壺。頸部に入組三又文。
 
 
  • 安行2式深鉢;胴部の屈曲しない5単位波状縁深鉢。口縁縄文施文分は肥厚しない。豚鼻状の瘤は、文様を描いた後に貼付している。胴下半は板状工具によるケズリで底部を小さくする。胴部下半は赤化するが、底部付近は赤化していない。小さな底部であることから、底部付近は炉の中に埋めて使用したため赤化していないと推測される。
 
 
 
  • 安行3a式深鉢;隆起した3角内帯文は縄文を施文せず無文。
 
 
 
  • 左;安行2式鉢形土器、右;安行3a式鉢形土器
 
 
 
  • Ⅲ-6層準より出土した安行3a式の人面付深鉢型土器。縄文施文分は隆起せず、胴下半は赤化する。胴部に沈線による入組み文や蛇行垂線を刻んだ後、豚鼻状瘤を貼付する。

 
 
 
 
6-3-③. 土偶と土版
  • 計100点の土偶が出土。
  • ミミズク土器;

朱塗りのミミズク土偶(国指定重要文化財)

 
 
  • 遮光器系土偶(@出土層不明 H17グリッド 第4次IB区 旧河道内)。 1965/3/26、遮光器土偶として県内初の出土。
 
 
  • ミミズク土偶と山形土偶
 
 
 
  • 中空のミミズク土偶; ネットより拝借。何故これを展示しないのか、1年半もかけて資料館改修リニューアルOpenしているのに・・・理解に苦しむ(*゚Д゚*)
 
 
 
  • 土版;31点がIB区より出土。
 
 
 
6-3-④. 耳飾り
  • 295点の出土。赤彩や漆の塗布も多い。良好な遺存状態と出土量の多さから大宮台地を代表する資料。
 
 
 
6-3-⑤. 赤漆塗りの飾り櫛(結歯式堅櫛)
  • 4点の出土のうち3点は赤漆が塗布されている。歯材が先端に至るまでほぼ完存、櫛の全姿が窺える点でも重要。歯材が整った先行出土例としては、小樽市忍路土場遺跡のものがよく知られているが、本遺跡出土のものはこれらに比して大型。
  • 樹種は不明。
 
忍路土場遺跡@北海道小樽市から出土した黒塗飾り櫛
 
 
 
  • ↓は、主な出土品の出土層準をスケマティックにまとめた図。産出層準のみを当てはめたものでピンポイントの出土箇所ではない。双口土器は、FAより上位のⅡ層から出土しており再堆積したもの。
 
 
 
 
6-4. 大量獣骨の出土
  • 19,000点もの獣骨が出土。そのうち約半数が焼骨。
  • 出土層準はⅢ層(安行3a/b/c/d式期)
  • ↓図が示すように、住居跡があった台地の縁辺部に獣骨は集中しており、近傍の低地をゴミ捨て場として利用した結果と推測。
  • 動物遺体の大部分は、シカとイノシシで、関東地方の晩期遺跡に多く観察されるようにシカが圧倒的に多い。
  • シカの下顎第2後臼歯の測定から、縄文晩期の後谷遺跡近辺に棲息していたシカは、ホンシュウ・キュウシュウジカよりも大きく、エゾシカ程度の大きさであったことが判明。
  • 石鏃が刺さった獣骨は認められなかったが、解体痕は多く認められた。
 
  • 他少数ながらサメ類、ウグイ類、コイ科、鳥類、サル、タヌキなども確認。