私は歴史好きではありますが、江戸か明治かと問われると江戸派?です。今回は徳川幕府の終焉と沼津について書きます。
250年余続いた江戸幕府(徳川幕府)は戊申戦争を経て終焉します。慶応3年10月には大政奉還が為されましたが、徳川慶喜は次の時代を任されることなく官軍に敗れ去りました。年号は明治に変わりましたが戦乱は収まらず、明治2年の函館戦争で大勢は決します。
多くの混乱が起こりました。徳川家は総石高700万石の将軍の地位から70万石の大名として静岡藩に移封されます。数多の幕臣も生活の基盤を失いますが、徳川慶喜と16代家達(いえさと)に従い駿府へ移る者も多数となります。その後も函館戦争を含む戊申戦争を戦い抜いた者も数多く現静岡県に移りますが、これには徳川幕府を支えた優秀な者が多数含まれました(幕臣勝海舟は、この人材の活用に奔走します)。移封当初は勿論「兵力」として陣容(慶応4年作成の名簿「駿河表召連候家来姓名」では5400人)ですが、静岡藩(徳川家)は家臣をスリム化することに努めつつ、この優秀な人材を新たな日本の為に活躍させる手立てを考えます。
それが「徳川家兵学校」。通称「沼津兵学校」です。敗れたとは言え徳川幕府は近代化を目指して軍制改革を進め(幕臣の江原素六も尽力します)、明治新政府が為し得ていない部分を静岡藩が担いました。西周(にしあまね)を初代学長に迎え(JR線路を潜る「あまねガード」に名を残しています)、兵学校は徳川家臣14歳から18歳の精鋭に対して、明治元年(1868年)譜代大名の城であった沼津城内(現在の沼津駅南側の一体)にて開校されます。しかし廃藩置県に拠り僅か3年余で名を消し、後の陸軍士官学校へと変貌します。
徳川静岡藩がユニークだったのは、単に士官養成学校に留まらず兵学校付属の小学校を作ったことです。沼津市添地に「代戯館」という名の学校を整備し、7歳8歳以上の士族および庶民の子を問わず生徒として、高度な教育を授けました。兵学校も付属の小学校も、徳川幕府時代の洋学教育機関である「開成所(蕃書調所、後の洋書調所が拡充された学問所)・・最終的に東京大学の源流」の教授を招聘し教育します。英仏等5カ国語と天文・地理・自然科学・数学・物理等を科目とし、能力別クラスの導入や試験制度等を設けた最新の教育です。結果、近代数学を積極的に教えたことから、当時の日本で「数学の沼津」の名を得ることにもなりました。近代的士官養成と伴に、官僚・実業家・技術者・学者・教員等を担う人材養成を、明治政府(国)に先立ち行っていた徳川の先見の明に感嘆します。後に代戯館は「集成舎」「沼津黌」と名を変えますが、「集成舎」の一部は分立し「集成舎変則科」となります。これは後に「第二大学区第十四番中学校」となり、更には県立「沼津中学校」と為ります(県内最初の中学校、初代校長は江原素六)。その後、沼津中学校は明治19年の中学校令(1県1校令)にて廃校されてしまいますが、沼津を中心とした静岡県東部住民の沼津中学校再興の熱意に拠り、明治34年(1901年)沼津市楊原(現御幸町)に改めて開校するのが旧制沼津中学校、現在の県立沼津東高等学校です。
現在、進学校で名立たる高校は私立の中高一貫校が占めていますが、特に地方では現在も藩校(江戸時代の藩が作ったエリート養成学校)にルーツに持つ高校が残ります。沼津東高校は藩校ではありませんが、明治維新の最中に徳川家が近代日本の為の人材を育成しようと、国に先駆けて作った兵学校や集成舎変則科に「根がある」ものであり、沼津市は徳川将軍家と優れた幕臣の「日本の将来を想う意思」に拠った「教育の町」であったことは記憶したいものです。
如何でしたか?。最近低迷気味な沼津ですが、嘗ては「先端の教育都市」だったんです。
それにつけても・・やはり、私は江戸派です。
(雀)