今のやんごとなき人々は、ほとんど偽者らしい
かなり長いので時間がある時にどうぞ
↑より抜粋
私は維新の志士たちとは何者なのか
という疑問を持つ。
京都を中心に、全国いたる所に発生した若者たち
(かなりの年齢の者もいた)の群れを
どのように理解すべきなのか。
尊王思想が本当に正しくて至高なるものなのか。
私は尊王攘夷思想とは一種の熱病であったと思っている。
彼ら志士たちは生活の糧を得るために
金を巻き上げては遊飲を繰り返す
悪党たちではなかったのかと思っている。
藩主、家老などの指示を受けて動いた
西郷隆盛や大久保利通は志士ではなく
薩摩藩の“役人”なのである。
学者たちは、ほとんどすべて、幕末から明治にかけての
キリスト教の日本の悪影響について触れることはない。
『仏教徒坂本龍馬』を引用する。
『閑愁録(かんしゅうろく)』という題名
「土佐 海援隊蔵板」と大書されている。
その内容は、人心荒廃を嘆き
開国後に浸潤してきたキリスト教に
狐惑されてはならぬ、そうならないために
日本人の心に深く根ざしている仏教によって
国と人を安んじるべきであるという主張であった。
現在、『閑愁録』は図書館に数点が所蔵されている。
実は、この『閑愁録』だけが
龍馬生存中に唯一出版された書物である。
この『閑愁録』は
版木ごと京都行政府によって召し上げられる。
「願済二ナラズ」と明治初年の出版規制を指している。
坂本龍馬は危険人物であった証しが見える。
私は、イギリス公使のパークス
そして外交官アーネスト・サトウが
この『閑愁録』を読み、坂本龍馬を危険人物と見なし
島津久光に「殺害命令」を出し、西郷隆盛と大久保利通が
この命令に応じ、吉井幸輔が動いたとみる。
そして吉井は『閑愁録』を手にし、高知の土佐藩に入り
後藤象二郎と山内容堂に坂本龍馬なる人物の危険性を説いたと思う。
一説に、容堂侯は非常に熱心なる
切支丹(キリシタン)宗徒であったと云う説がある。
勿論当時といえどもそれは邪教と称して国禁されておったのではあるから
公然とその信者であることを発表することは出来なかったのであるけれども
ひそかに殿堂を営み、股肱(ここう)の老女にのみ
その殿堂を世話させて、そこに十字架上の耶蘇
(やそ:イエス・キリストの通称)を安置して
毎朝礼拝を怠らなかったと伝えられている。
サトウの「容堂侯の好意にいささか報いるために」
という言葉が、私にはいささか気になる。
2人は、龍馬暗殺について語っている。
その直後に容堂侯のことが出てくる。
『閑愁録』
まさに今、西洋のキリスト教が開港された
長崎や箱館や浦賀の三港において盛んに信仰されており
キリスト教の神父は絶対神の堂(天主堂)を建て
多くの愚かな民衆を惑わしている。
特に、長崎においてはそれが最も盛んである。
最近、長崎の浦上や大浦の村民が競ってキリスト教の信徒になり
合計すれば3千人に及んでいる。
そのキリスト教の説く教えとは
神の教えを信じれば、貧しきものは富めるようになり
愚かな者は智慧を身につけることが出来
卑しい身分の者は尊い存在になり
病気の者は神のご加護で病気が治り
その人は永遠に福を自在に手に出来ると言う。
これをただ一心に信じて自分の生死を顧みなくなり
ひたすら信じて礼拝するようになった者は
日本に在留している神父らが貨幣や宝物を用いて誘導し
ついには貧しき人々はおのれの欲望をほしいままにして
相互扶助という名目で人々を煽っている。
どうしてこのことを恐れないでいられるだろうか。
また、イエス・キリストは
自ら十字架で磔刑(たっけい)して人々の罪を償い
イエスが代わって主たる神に許しを請うことが
出来たという説を主張する。
このことから、キリスト教の信徒となった者は
極刑になることを至上の喜びとしている。
非常に信望している者の中には
自ら進んで磔(はりつけ)になろうとする者もいる。
その教えは、詭弁を弄(ろう)して
巧みに心に染み入るようになっている。
その説教を聞くと、因果応報を説く仏教において
悪しきことをすれば地獄に堕ちると説く教えに似ているようで
全くもって違うものである。
ただ、人間の欲望に応じて説かれており
凡庸(ぼんよう)な人々はキツネに騙されたようになる。
そのような教えであるから
民法や刑法で取り締まり
刑罰を与えるとして禁止しても効果はない。
坂本龍馬は心に思うことを隠せない男だった。
数多くの手紙がそれを証明している。
彼は長崎で毎日、禁断のキリスト教の信者が増えていくのを目撃した。
長崎にいたフルベッキが、その中心にいた。
坂本龍馬は純粋な魂を持つ志士だった。
攘夷(じょうい)運動は
西洋のキリスト教を排撃するという所から生まれた。
藤田東湖(とうこ)、吉田松陰は
キリスト教による日本の危機を問うた。
しかし、開国派が増えて、精神の危機を説く者たちは消えていった。
フルベッキたちは、『閑愁録』を読んで
坂本龍馬暗殺を計画したに違いないと私は確信する。
山内容堂は
「坂本龍馬のみならず中岡慎太郎も消せ」
と言ったに違いない。
こうして慶応3年11月15日、龍馬と慎太郎は暗殺された。
サトウは後藤象二郎について書いている。
後藤は、それまでに会った日本人の中で
最も物分かりのよい人物の一人であったので
大いにハリー卿(パークス)の気に入った。
そして、私の見るところでは、ただ西郷だけが
人物の点で一枚後藤にまさっていたと思う。
容堂は維新後、東京で隠棲(いんせい)する。
「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」の号を名乗って
酒と女と風流の日々を送り
明治5(1872)年6月21日に永眠する。
47歳であった。
容堂の葬儀は仏式ではなく神式であった。
私は容堂はキリシタン大名であったと思っている。
彼が死んだ翌年、明治6(1873)年2月に
キリスト教禁制の高札(こうさつ)は撤去され
各県で禁獄されていた浦上キリシタンは釈放され
帰国が許された。
同時に、神道国教化政策が進行する。
容堂は明治維新後
水戸、長州、薩州の藩主たちと
廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)を実行する。
土佐の寺は壊され、僧侶は追放されると同時に
国家神道とキリスト広布が進行する。
大室寅之祐(おおむろとらのすけ)
のスキャンダルを隠蔽するために
キリスト教禁制の高札が撤去されたのである。
明治の重臣たちのほとんどはキリシタン
ないし隠れキリシタンとなった。
アーネスト・サトウの作戦は見事に成功した。
坂本龍馬につながる親族からも多くのキリシタンが出た。
勝海舟は龍馬同様反キリシタンであったが
子供たちはキリシタンになった。
廃仏毀釈 、国家神道、キリシタン禁制の高札撤去は
日本がヨーロッパの奴隷国家となっていく道程なのである。
実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。
後醍醐天皇第11番目の皇子満良(みつなが)
親王の御子孫で毛利家の御先祖
すなわち大江氏がこれをかくまって
大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて
大江氏の子孫毛利氏が長州を領し
代々長州の萩において、この御王孫を御守護申し上げて来た。
これがすなわち吉田松陰以下
長州の王政復古維新を志した勤王の運動である。
大室寅之祐が
「後醍醐天皇第11番目の皇子満良親王の御子孫」
というのは全くのデタラメである。
大室寅之祐は山口県熊毛郡田布施という朝鮮系の部落民である。
そして、近くの部落民の伊藤博文が
奇兵隊の力士隊を組織したときに参加した一兵卒であった。
この奇兵隊に土佐脱藩の志士の
土方久元と田中光顕(みつあき)がいた。
明治時代になって、宮内(くない)大臣を伊藤博文
そして土方久元、それから田中光顕が勤めるのは
明治天皇こと大室寅之祐の自由を奪い
人形のように操るためであった。
西郷、大久保、樺山資紀(かばやますけのり)
大山巌(いわお)たちは
鹿児島の鍛冶屋町という部落で、汚物の処理や清掃
葬式を生業としていた、武士とは名ばかりの
最下層に近い人々であった。
薩長連合は、そういう彼らが
長州、薩摩、土佐の大名とは別行動をとった
クーデター計画であった。
大室寅之祐は藩主毛利敬親(もうりたかちか)
の知らぬままに天皇になっている。
いわゆる事後承諾というやつである。
薩長連合を決めた木戸孝允(たかよし)は
天皇を作り上げたことを「玉遊びをした」
と言っている。
玉とは、王と同じである。
明治の新政府ができてまもなく
16歳の少年天皇がわがままをして
元勲(げんくん)たちの言う事を聞かないと
西郷隆盛は
「そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ」
と言って叱りつけた。
すると天皇はたちまちおとなしくなった
という話が伝えられている。
明治新政府が出来た後
大室寅之祐が明治天皇になったという事実が
一般の人々に洩れることを新政府は非常に恐れた。
そこで万が一の場合を考えて
南朝天皇の系統であるという説をでっち上げて
種々に工作した。
慶応2(1866)年12月25日
孝明天皇が死去する。
英国外交官アーネスト・サトウは次のように書いている。
噂によれば
ミカドは天然痘にかかって死んだということだが
数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に
確言したところによると毒殺されたのだという。
このミカドは
外国人に対していかなる譲歩をなすことにも
断固として反対してきた。
そのために、きたるべき幕府の崩壊によって
否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に
当面しなければならなくなるのを予見した
一部の人々に殺されたというのだ。
この保守的なミカドをもってしては
戦争をもたらす紛議以外の何ものも
おそらく期待できなかったであろう。
重要な人物の死因を毒殺にもとめるのは
東洋諸国ではごくあふれたことである。
前将軍(家茂)の死去の場合も
一橋のために毒殺されたという説が流れた。
しかし当時は
ミカドについてそんな噂のあることを
何も聞かなかった。
ミカドが、ようやく15、6歳になったばかりの
少年を後継者に残して
政治の舞台から姿を消したということが
こういう噂の発生に
きわめて役立ったことは否定し得ないだろう。
私はこの文章を読んだ時
サトウは間違いなく
孝明天皇殺しに参加した重要メンバー
否、指揮した人物に違いないと思った。
公家と天皇家の間にあっては暗殺もまれには存在した。
しかし、大室寅之祐を天皇にしようという
発想そのものは生まれてこないと思っていた。
「きたるべき幕府の崩壊」を確実にするために
サトウが長州の伊藤博文らに働きかけた可能性がある。
明治42(1909)年10月26日
伊藤博文は満州のハルビン駅頭で暗殺された。
犯人安重根(あんじゅうこん)が裁判において
15項目の「伊藤博文の罪状」を発表した。
この14番目に「伊藤が孝明天皇を暗殺した」
と記していた。
私はこの事件を調べ、田中光顕が関与し
それだけでなく、間接的に安重根に
「孝明天皇殺しの犯人は伊藤博文だ」
と告げたと思うようになった。
岩倉具視(ともみ)が、孝明天皇を暗殺した。
この暗殺は、噂としては当時からすでに
多くの日本人に知られていたものであり
私なども、子どものころから
いくども聞かされていたことである。
岩倉は自分の妹を宮中に入れ、女官にしておいて
天皇を風呂場で殺したといわれる。
こうして岩倉は、わずか16歳の
すこぶる気の弱い明治天皇を立てて
思うままにあやつり、薩長の策士らと連絡して
この「討幕の密勅(みっちょく)」と称する
偽勅(ぎちよく)を出したのである。
それは、形式からいっても
用字法からいっても明らかに偽勅である。
それは岩倉の子分の玉松操(みさお)
という男が書いたものである。
後年になって
明治天皇の16歳の時の下手な字で書いてある
「明治天皇の親書」が出てきたので分かった。
睦仁(むつひと)親王は6歳の時
300メートル先の孝明天皇の御所に
歩いていけないほどの虚弱児であった。
また、12歳の時には大砲の砲声に気絶する子どもであった。
それがわずか数年後、天皇になった時には5尺8寸
20数貫という大男になって江戸城に登場する。
慶応3(1867)年7月8日
何時までも幼稚な睦仁親王は
御学問所で人形遊びの最中
忍者の使う猿に手を引っかけられ
その傷に御典医(岩倉に命じられた伊良光順?)が
毒薬入りの膏薬を貼ったため、翌日あえなく亡くなった。
7月10日、睦仁の遺体は早朝
「鬼子母神の菩薩像」に仕立てられ
これを中山慶子(よしこ)が修理に出すと称して
5日間の宿下がりを貰い
実家の中山忠能(ただやす)邸で
桜木の根元に埋めて始末したという。
薩摩屋敷で待機していた「玉」は
厚化粧して変身すると直ちに宮中に入り
「身代わり天皇」となって御所侍や
女官たちを納得させていった。
松重楊江は長州の資料に基づいて書いている。
たぶん、上の文章は正確なものである。
田中光顕は伊藤博文の力添えを得て
成功という名の階段を昇っていくのである。
しかし、2人は喧嘩を売る、買うの関係となる。
そして、伊藤博文暗殺事件へと展開する。
「忍者の使う猿」に注目したい。
大室寅之祐の住んでいた田布施は猿回しの本場である。
テレビに登場する猿の使い手がいるが、田布施出身である。
殺人は長州が行ない、後処理は薩摩がした。
特に西郷隆盛と大久保利通が岩倉具視と組んだ。
慶応3(1867)年12月9日の小御所会議で
「王政復古の大号令」を突然に発したときに
表舞台に突然に登場した岩倉具視を見て
多くの公家たちは恐怖に震えたのである。
岩倉具視の「蟄居(ちっきょ)解除」の日でもあった。
大久保利通が仕組んだ芝居のはじまりだった。
アーネスト・サトウ日記から引用する。
ロッシュ(フランス公使)は
日本の天皇は15か16歳くらいの、ごく若い青年である。
歯は黒く染めており、眉は剃りおちしている。
我々が古代の日本人について描くイメージのごとく
額の中央に、目の線に対して斜めに人工の眉をかいている。
それに付け加えると、天皇の容貌には
知性の片鱗すらうかがえなかった。
彼の神聖な口から
何か意味明瞭な言葉が洩れてくることは
ほとんどなかった。
私はこの文章を読んで
ロッシュは天皇が偽物であることを
承知の上で観察し続けていたと見る。
すでに、イギリスとフランスの公使たちは
明治維新の最初から
大室寅之祐のことを知っていた、と。
蜷川新(にながわあらた)『明治天皇』から引用する。
天皇はまた数十人の女官と肉体的に関係していた。
天皇と女色は、離れることのできないものであった。
その女官を馬に乗せて馬を走らせるのが
また大好きであった。
一種のサディズムに聞こえる。
天皇と関係した女官のうち
数人の女は皇子、皇女を生んだ。
が、中でも柳原愛子(やなぎわらなるこ)は
大正天皇を生み、その他4名の女官が世上に知られている。
色好みは、天皇の身として
習慣上からはありがちのことではあるが
それを、侍講(じこう)の元田永孚(もとだながざね)
やまた井上毅(こわし)などが
「天皇は声色を近づけず」と特に公表し
色を好まぬ聖人であると書いたりしているのは
世人を欺瞞(ぎまん)するも甚だしいと言わねばならぬ。
岩井忠熊(ただくま)の『明治天皇「大帝伝説」』
から引用する。
皇后たりうるのは皇族(まれであった)
五摂(せっ)家、九清華(せいが)家の女子だけであり
それ以下の家格(かかく)の女子は
典侍(ないしのすけ)どまりというのが慣行であった。
もっと身分の低い女子も宮中(きゅうちゅう)で働いており
時には天皇がそれらの女子と関係を持つ事もあったのである。
私は上の文章を読んで、ある一つの事実を確認した。
それは宮中に、千代田遊郭 (ゆうかく) なる遊び場があり
西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)
土方久元(ひさもと)、田中光顕らが遊んでいたのである。
明治天皇も彼らの仲間うちだった。
ここに一人の稚児(ちご)が登場する。
後の大正天皇の皇后となる節子(さだこ)である。
この正体不明の女性を大正天皇の皇后にするのは
明治大帝と言われた男と
今や宮内大臣となった田中光顕である。
なぜ、伊藤博文は睦仁親王と似ても似つかぬ大男を
睦仁親王に仕立てあげたのであろうか。
私はこの男を見初め、明治天皇に仕立てたのは
アーネスト・サトウではなかったかと思っている。
サトウは九州や山口県などの部落を訪ねて報告書を残している。
彼は部落民を最大限に利用する方法を発見したのである。
写真を撮影されると正体が暴かれてしまうような大男を
明治天皇に仕立て、日本国最大の
スキャンダルを掌中(しょうちゅう)に入れれば
イギリスが日本を実質的に支配できることを
知っていたのである。
そして、この陰気な男を明治大帝とすることにより
イギリスは日本の運命を左右することになる。
日清戦争、日露戦争も
イギリスが背後で日本を動かしていた。
大室寅之祐の明治天皇は仏教を捨てた。
そして、古神道とは似ても似つかない国家神道なる
キリスト教を模したものを創造した。
それから仏教抑圧は排斥(はいせき)へと進み
寺院や仏像が破壊された。
特に薩摩藩では、一寺も残すことなく破壊された。
明治維新とは何であったのか?
日本の精神が破壊されたことである。
強いて表現するなら
薩長の権力指向の強い志士たちが
強欲のために国家を盗んだからだ。
彼らは鍛冶屋町の出身者が多い。
薩長藩では、藩の門閥(もんばつ)の子
及び薩摩藩のエリート養成機関である
開成所の学生から留学生を選抜し20名を
元治(げんじ )2(1865)年にグラバーが
準備したオースタライエン号で密航させた。
先に引用した、鍛冶屋町、上之園町(うえのそのちょう)
そして高麗町(こうらいちょう)の出身者がほぼ全員
維新後に政府の高官となって、出世したのに対し
藩のエリート、それも留学組の中で出世したのは
森有礼(ありのり)初代文部大臣)や
五代友厚(実業家)ぐらいである。
しかし、成功者たちは維新後、その出自を隠し
薩州藩士のエリートたちを遠ざけるのである。
そして、部落ならびに
部落にごく近い者たちによる差別政治が始まる。
だから、明治以降も部落の解放はなされなかった。
西洋人はほとんどキリスト教徒である。
彼らは悪心を隠し
キリストという神らしからぬ神を信じるふりをし
人々を騙し、そして殺し続け、富を奪い続けてきた。
これが西洋人の側から見た歴史である。
明治以降、無条件で西洋崇拝の嵐が日本国中に吹き荒れていった。
そして、同じアジアの人々を馬鹿にするようになった。
日清戦争も日露戦争もアジア軽視の中から勃発した。
明治時代とは、心なきおごれる連中の時代だった。
長州藩に奇兵隊の人々を救う金がなかったのであろうか。
私は長州は大金を持っていたと見る。
関ケ原の戦いで豊臣方について敗れ
100万石(ごく)から27万石になった。
しかし、萩を舞台に朝鮮半島や中国との密貿易で荒稼ぎし
実際は100万石以上の藩となっていた。
坂本龍馬の海援隊の斡旋で様式銃4千300挺を
長崎グラバー邸から薩摩藩の胡蝶丸によって
三田尻港に届けた時も金(きん)で支払っている。
そして、洋式艦艇3隻、鋼鉄製大砲20門
1万挺の洋式銃などを追加注文したが、すべて金で支払っている。
大大名で金を持ちながら、美術品がそうなかったのは毛利家でしょう。
それは明治維新の時まで、いつかは徳川を倒そうというので
現金を持っていたからなのです。
ある物といえば、以前にいた大名のものを召し上げたのと
お寺が金に困って毛利家に借りに来た時
持ってきたのとが残っているくらいです。
だから雪舟(せっしゅう)なども、その種類です。
「いつかは徳川を倒そう」という目的のために
毛利藩は蓄財していたのである。
だから坂本龍馬から、グラバーから
武器や艦船を即金で買った。
これを機会に薩長同盟が生まれる。
奇兵隊も毛利藩にとっては武器の一つであった。
用済みの武器である奇兵隊は捨てられた。
奇兵隊士たちを殺し
牢獄に入れて弾圧の限りを尽くした木戸孝允が
副使の一員として遊蕩(ゆうとう)三昧の旅に出る。
私は、甘い生活に慣れた挙げ句に
ついに海外でも遊びまくらんとして喜々として旅立ったと思っている。
明治10(1877)年5月26日
木戸は、神葬祭の多い中、仏式での葬儀を遺言し
死んでいった。奇兵隊追討が終らぬ中での死となった。
木戸は最後に仏にすがり
奇兵隊の死者と地獄で対峙しているに違いない。
反乱する奇兵隊は
彼らがかつて使用していた武器で殺され続けたのである。
勝利者たる奇兵隊の悲劇が
明治維新が何であったのか貴重な証しとなる。
その奇兵隊の悲劇の中から大室寅之祐という
偉大なるヒーローが誕生してくるのである。
「まんじゅうを作りに行く」
と言って田布施村を出た大室寅之祐は
そこで行方不明者となった。
当時、「まんじゅう作り」は部落民の仕事とされた。
明治天皇の写真がただの1枚しか本物がないのは
大室寅之祐を明治天皇に仕立てた連中が
偽りがバレるのを恐れたからであった。
岩崎弥太郎の先祖は
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)
に仕えた岩崎家だといわれるが
田中光顕と同様はっきりしない。
この2人は貧しい家庭に育ったのである。
岩崎は吉田東洋の弟子
後藤象二郎の下で勉学にはげみ頭角を現わす。
吉田東洋暗殺の後に上京して犯人捜しをするが
途中で職務を投げ出して土佐に帰る。
たぶん、打算的な青年であったに違いない。
慶応3(1867)年1月
岩崎が勤務することになる
開成館長崎出張所が開設される。
この開成館の館長が後藤象二郎で
土佐にとっては軍備の増強が急務だった。
そのためにも資金を稼ぎ出さねばならない。
開成館は武器購入、県の物産の統制及び販売
そして藩札発行の権限を持つにいたった。
すべては山内容堂の監督下、後藤象二郎が動き出した。
岩崎弥太郎は後藤象二郎の配下となった。
この1月、坂本龍馬と長崎で会談している。
坂本龍馬は亀山社中を解散し、海援隊を組織し
その商船隊をつくり、土佐藩に帰属させることを約束した。
後藤象二郎は権謀術数(けんぼうじゅっすう)の人である。
坂本龍馬を利用し、用無しとなったら捨てる
という策を練ったとしても不思議ではない。
アーネスト・サトウが、西郷隆盛に次いで
大きな人物であると評しているのは
人間のスケールの大きさを表現している。
やがて、岩崎弥太郎が
後藤象二郎の仕事を引き継ぐべき長崎にやってくる。
岩崎の一族が郷土株を失った
地下(じげ)浪人の出であるのに対し
坂本龍馬の祖父は郷土株を買っている。
龍馬が自身の未来を楽観視していたのは
彼の生家が
「200万石に近い土地に寄生する商人地主であった」
からでもある。
私は後に、坂本龍馬の『閑愁録』が出版された時
フルベッキがこれを読み
アーネスト・サトウと後藤象二郎に知らせたと思っている。
フルベッキは、あの大室寅之祐が登場するという
「フルベッキ写真」で有名なアメリカ人宣教師である。
あの写真の大室寅之祐は後の明治天皇とはまるで似ていない人物であった。
アーネスト・サトウは
パークス英大使にこの本の危険性を語り
龍馬暗殺を大久保利通と密談し
吉井幸輔という情報部員を通して
田中光顕経由で後藤象二郎に達したと見ている。
オランダ系ユダヤ人のフルベッキは
米国に移民したキリスト教徒ではあるが
ロスチャイルドの一味でもあったからだ。
長崎で武器販売をしているグラバーとも通じていた。
「いろは丸」は土佐藩の所有ではない。
後藤象二郎が五代友厚(薩摩藩)の仲介で
伊予大洲藩の藩船を
一航海のためだけに賃借したものであった。
一航海500両という約束だった。
坂本龍馬が外国商人から買い集めた銃砲弾薬らの兵器を
大坂にある諸藩の蔵屋敷に売りさばこうというものであった。
後藤象二郎と坂本龍馬らは密貿易で一儲けしようと企んだのであった。
坂本龍馬が亀山社中と海援隊を通して兵器の密貿易をしていた
“商人”であることを知る必要がある。
決して真っ当な人間でなかったということも知る必要がある。
この「いろは丸」が慶応3(1867)年4月23日に
紀伊藩の明光丸(めいこうまる)と
衝突するという海難事故が起きた。
「明光丸」は150馬力
887トンの性能をもつ新造船であった。
「いろは丸」はトン数で半分しかない。
この船は瀬戸内海の宇治島付近で沈没した。
やがて後藤と龍馬らが紀伊藩と賠償交渉を行なう。
最終的に賠償金は、明治維新前に
すなわち龍馬暗殺後に土佐商会の手に渡った。
後藤と岩崎があぶく銭を手にする。
この金が三菱財閥の基礎をつくったのである。
この本はあくまで田中光顕が主人公である。
しかし、田中は生涯において岩崎一族と深く結びつく。
田中がその生涯において光り輝いていたのも
三菱という会社が巨大化していくのも
相い携えて(あいたずさえ)
時代の激流を乗り越えていったからである。
後藤象二郎は政治と商売に手を出し
ことごとく失敗していく。
それを支え続けたのは岩崎弥太郎であった。
後藤の愛人、お雪を頼まれて弥太郎が「妹」にした。
京都の芸妓だったお雪を、戸籍上の養妹として
後藤の婚姻の便をはかったのだった。
弥太郎の弟弥之助が2代目を継ぐが
この弥之助の妻が後藤象二郎の娘であった。
さて、推理小説では
一番儲かった者が殺人の犯人であるという設定をよくする。
龍馬暗殺で一番儲けた男は誰であったのか。
答えはいたって簡単であろう。
後藤象二郎と岩崎弥太郎となる。
坂本龍馬よ、お前は裏切られ
そうして英雄となったのである。
明治2年6月、アメリカのウォルシュ商会より
5万円を借り入れたのが弥太郎の商売の始めであった。
9月には、後藤象二郎と板垣退助の命により
外国商より小銃2千挺を購入し
土佐藩に納入している。
この年、後藤、板垣の2人は
中央政府の参事として岩崎弥太郎を助けている。
弥太郎は銃器の購入以外に汽船の購入も行なっている
廃藩置県となり、彼は土佐藩の役人の地位を失う。
そして私商会の代表となった。
土佐藩の支配から逃れた弥太郎は
蒸気船を使った近代的な商売に進出することになる。
明治7年1月、田中光顕が陸軍省会計監督になる前の
明治6年10月24日、西郷隆盛は
世にいう征韓論(せいかんろん)に破れて参議を辞任した。
これを見た板垣退助、後藤象二郎、江藤新平
副島種臣(そえじまたねおみ)の四参議も辞任した。
征韓論になぜ、彼らは破れたのか。
岩倉具視、大久保利通、伊藤博文が
大室寅之祐を明治天皇に仕立てたことが
大きくものを言った。
大室寅之祐は学問をしない男だった。
天皇になってからの勅語は
公家の徳大寺実則(とくだいじさねつね)が
明治時代を通じてすべて書いた。
この徳大寺実則が岩倉具視の配下にあった。
三条実美(さねとみ)と
岩倉具視が天皇の代行者であり
その代行者を動かしたのが
大久保利通、木戸孝允であった。
明治天皇は、宮廷に仕えたドイツの医者
ベルツが日記に書いているように
操られた人形であった。
明治10(1877)年頃の
明治政府は彼らの完全な支配下にあった。
太政(だいじょう)大臣に三条実実
右大臣は岩倉具視、左大臣は島津久光。
では山内容堂はなぜ、重要な地位に就かなかったのか。
山内は大室寅之祐を見た瞬間、激怒した。
慶応3年12月9日の小御所における御前会議で
明治天皇に謁見(えっけん)した後であった。
山内はその後、一切の政治活動から去り
酒と女に生涯溺れた。
一方、島津久光は大室寅之祐を見た瞬間
斬りつけかけたが、西郷と大久保から説得され納得した。
しかし、明治天皇に意見を言おうとしても
岩倉具視に妨害され政治の舞台から去っていく。
大名の中で政治の舞台に留まった者は一人もいなかった。
彼らは爵位(しゃくい)と年金を与えられて沈黙の人々となった。
明治維新とは下級武士と部落民による革命であった。
それだけでは別に問題はない。
一番の悪状は、イギリスという国家と裏で結んで
革命を起こした明治の重臣どもの行状にある。
日本は西洋諸国に大いなるスキャンダルを握られた。
山県有朋は山城屋和助を陸軍省の一室に招じ入れ
一切の借用書を焼き捨て、陸軍省で切腹させた。
正しくは、山県に殺されたのである。
山県が、投機相場で80万の大穴をあけた
山城和助の借金を救うべく明治6年
翌年納入予定の代金として60万9千円を
受け取らせた事件であった。
60万といえば、当時の年間軍事費
総額の約1割にあたった。
そこで、山県は陸軍省会計監査長に責任を負わせ
免職とした後に、田中光顕を後任として迎え入れた。
田中は伊藤博文シンパから山県有朋へと態度を変えた。
これ以後、山県の後援を得て、出世街道をひた走っていく。
この2人は権力にしがみつくという一点で共通の精神を持つ。
決して己の真情を発露しないという点でも性格が似ている。
田中と弥太郎が結びつくのは
明治10年(1877)年の西南戦争である。
田中は佐川藩の藩主の娘を妻とすることになった。
岩崎弥太郎もまたこの戦争で巨万の富を獲得し
三菱財閥の基礎を築くのである。
明治10年2月、西南戦争が勃発。
弥太郎は政府の用命を受け
兵士や食糧、武器弾薬の輸送という
重要な役割を受け持つことになる。
戦争のさなか、政府軍有利の展開がはっきりするにつれ
全社を挙げて迅速確実な輸送に奮闘する弥太郎への評価がぐんと上がる。
この戦争で三井、大倉、浅野、藤田など各財閥は戦乱に乗じて
大なり、小なり財をなすが、突出した儲け頭は
軍需輸送を一手に引き受けた弥太郎であった。
莫大な軍事支出に伴うインフレで弥太郎の儲けは増幅された。
三菱に政府は2年据え置きで14年賦(ぷ)
年率5%で70万ドルという大金を貸し付けた。
戦争が終わると、すべての船は三菱に払い下げられた。
半年後の9月24日、この戦争は終わる。
「郵便汽船三菱会社」のみがこの戦争の時に存在した。
三菱はこの戦争のために
航海日が延べ7240日に達する未曾有の大輸送を行い
299万9342円余の御用船運搬収入を上げた。
これに一般貸客の運賃収入を合わせると
明治10年の年間収入は444万7014円にのぼり
この数字から支出総額を差し引いたこの年の利益は
121万7983円という莫大なものになった。
いったい当時の122万円といえば
今の金銭感覚ではどの程度に当たるのか。
昭和後期から平成22年までの値段は
明治後期の1万倍、同中期の2万倍
同初期の3万倍に達していると、私は感覚的に思っている。
三菱は明治11(1878)年に
東京の大庭園を3つも買う。
また、西南戦争の勝利がほぼ決定的になった8月上旬
明治天皇は三菱に金4千円を下賜(かし)した。
西南戦争のために政府が投じた総額の7%以上
三菱の船舶による軍事輸送費用であった。
弥太郎を朝廷は勲四等に叙し
旭日小綬章(きょくじつしょうじゅしょう)を下賜した。
田中と弥太郎を結びつけるデータを
この西南戦争の中に私は発見できていない。
しかし、田中が西南戦争で弥太郎に
いろいろと便宜を与えたと思っている。
彼は陸軍の会計責任者であった。
弥太郎はこの西南戦争後、大隈重信とも深く結びつく。
大隈重信に大きな政治献金をし続ける。
大隈が最終的に70万ドルの汽船購入費を許可し
最終的に汽船は三菱に無償で払い下げられたのであった。
トーマス・グラバーという貿易商人が長崎にいた。
俗に言う「薩長同盟」を仕掛けたのは
坂本龍馬であったという説は間違っている。
この薩長同盟の必要性を、武器の面からではなく
現状打破の面から説いたのは
土佐藩を脱藩していた土方久元と
福岡に幽閉されていた三条実美であった。
グラバーは事業を拡大していった。
そして長州の若者、伊藤博文や井上馨(かおる)ら
いわゆる「長州ファイブ」をイギリスに留学させた。
伊藤博文がパークスやサトウに近づけたのも
彼が英語を話せたからである。
弥太郎は長崎土佐商会を自己の会社にした。
グラバーは武器の取引が減少していくなか
弥太郎と組んで、土佐の産物である
樟脳(しょうのう)をはじめ茶、銅
絹織物などの日本からの輸出にも力を入れた。
弥太郎は海運業を拡大したばかりでなく
総合商社への道をひた走っていったのである。
グラバーの事業熱はさめることを知らず
ロイズ船級協会などの保険会社の代理店に加え
香港上海銀行やオリエンタル銀行の代理店と
事業を拡大していった。
商いに流暢な日本語を話し、こよなく日本を愛し
慶応3年には五代の紹介で大坂生まれの淡路屋ツルを娶り
一子ハナをもうけ、充実した日々を送る。
この年、高島の石炭採掘事業に着手。
資金調達に香港に渡り、マセソン商会に申し込む一方
機器を英国から輸入し、慶応4年6月、佐賀藩と正式契約。
高島炭鉱を開く。明治7年、政府の買い上げとなり
土佐の後藤象二郎が社長となった。
後藤象二郎は参与として明治政府の重臣でありながら
高島炭鉱の社長になり、大きな投資をしたが失敗し続けた。
ジャーディン・マセソン商会は
後藤を相手どり訴訟を起こした。
この訴訟を解決したのが日本初の弁護士星亨であった。
彼は後に自由党員となる。
後藤炭鉱社には55万ドルという莫大な借金が残った。
この借金ゆえに後藤は政治生命さえ失いかけた。
彼を助けようと動いたのは福沢諭吉であった。
後藤の娘早苗が岩崎弥之助副社長の妻であることは
すでに書いた。
大隈重信と福沢諭吉が弥太郎を説得し
ついに弥太郎が高島炭鉱を買うことになった。
ここで後藤は負債を抱えた生活から逃れることが出来た。
資産総額から負債総額を引いた額の60万円で
弥太郎は高島炭鉱を手に入れたことになる。
この炭鉱を持つことにより、三菱はまた大きく飛躍していく。
なお、後藤の抱えていた負債60万円は
現在の貨幣に換算すると約230億円となる。
弥太郎は後藤に毎月1千円を与えている。
しかし、後藤はこの後も、いろんな人から借金を続けた。
明治10年の西南戦争と
明治14年の高島炭鉱の購入はセットである。
西南戦争で得た莫大な利益が
弥太郎に高島炭鉱を獲得せしめたのである。
西南戦争が終わった後、明治15年2月
九段靖国神社境内に
遊就館(ゆうしゅうかん)は設立された。
九段の招魂社に絵馬堂を造ることになった。
それがすなわち今の遊就館である。
九段の招魂社(しょうこんしゃ)が靖国神社となる。
この招魂社には敗軍すなわち薩摩の敗北兵は祀られていない。
この招魂社は勝利を収めた官軍の死者を祀るところである。
この後、多くの国民が戦争に強引に引っぱられていく。
そして神として祀り上げられる。
この頃の出来事として、田中光顕は「刀剣会」をつくる。
弥太郎が田中がつくった刀剣会に金を出している。
三菱が田中の金づるになっている証しがここに見える。
大隈重信、福沢諭吉、田中光顕が、明治15年頃の
弥太郎のブレーン・トラスト(顧問団)の主要メンバーであった。
ここに、近代日本を陰から操る暗流がかすかに姿を見せる。
私は過去にユダヤ人
特にロスチャイルドと世界の関係を追究してきた。
ロスチャイルドは、公を私ととらえ、私のために公を利用した。
もっと易しく表現するならば
ロスチャイルド家の利益になるならば
戦争が起きるようにさえ国家を動かした。
その戦争で人々がいかに悲惨な状況に置かれようとも
ロスチャイルドは一向に意に介さなかった。
弥太郎はロスチャイルドが悪用した
フィヒテ哲学の「正・反・合」の思想を持っている。
どちらに転ぼうとも、利益を得る方法を考えて行動している。
彼らの論争は、公ではなく私の問題にすぎない。
事態がたとえどのように変化しようとも
私的に、三菱の利益になるように
公の問題(征韓論)を見きわめていかねばならない
ということである。
内乱、戦争とは結局、私的に考えて
「三菱は局外者の立場に立ち、敵対者たちが
戦争に入らんとするとき必要に応じて
双方に武器や食糧を売りつければよい。
そのうち、彼ら群雄は疲労する
すなわち戦争はいずれ終わるから
そこでまた、巨大な利益を上げればよい」
ということである。
田中光顕は生涯に渡り、この三菱から金を貰い続けた。
田中は弥太郎と思想を共有していたのである。
その思想の根幹をなすものは「私勝公劣」である。
己の利益が公の利益に勝るというものである。
明治時代はわずか100年前である。
その歴史さえ、アカデミックな場所で
安逸(あんいつ)をむさぼる学者どもの
通り一遍の歴史書を真実と思っている。
略
この文章の意は
「小賊より大賊のほうが罪が重く
国を奪う大賊はそれよりさらに罪が重い」
ということである。
私たちは小さな罪をことさら取り上げて騒ぐが
大きな罪、国家を奪った罪については騒がない。
それを「軽し」と言っている。
明治維新は一部の人間が仕掛けた
国家略奪の大罪であるが
その連中が偉人扱いされている。
明治18(1885)年、弥太郎が死んだ。
53歳という若さであった。
死因は胃がんだったといわれている。
大酒を飲み続けていたせいだといわれる。
弥太郎は権威すなわち権門に連なることを目標としていた。
2人の総理大臣に娘を嫁がせている。
長女が加藤高明と、4女が幣原喜重郎
(しではらきじゅうろう)と結婚している。
弥太郎は自由党員の馬場辰猪(たつい)を
長女の結婚相手にしようとしたが
「おれは富豪の婿になるのはごめんだ」と断られた。
馬場は後藤象二郎の自由党に入り、将来を期待されたが
板垣退助が山県有朋から金を貰って外遊すると
さっさと自由党を去っていった。
弥太郎は死んだ。
しかし、弟の2代弥之助を継いだのは
弥太郎の長兄久弥(ひさや)である。
この3代目社長の岩崎久弥の夫人が
子爵保科(ほしな)家の出である。
そして、久弥の後の4代目社長
小弥太(こやた)の夫人が薩摩島津家の一族
島津重富(しげとみ)の娘である。
弥太郎は後藤象二郎と血族となり
出世の階段を昇り、ついに日本一の富豪となった。
何がどのようにして富を創造するのかを
最もよく知っていたのは彼であった。
田中光顕はこの一族に最後までつき合う。
4代目社長小弥太とも深い関係を維持する。
推理小説では、一番儲かると思った男が
真剣に殺人ゲームを演出する。
公を劣ると見、私が勝ると考える弥太郎が
何人も解決できなかった殺人ゲームを創造したのが
坂本龍馬暗殺ではなかったか。
田中光顕はだから死ぬまで多額の金を
岩崎一族から貰い続けたのではなかったか。
田中は豪邸に住み、別荘を建て
国宝級の書画を数百、数千点と持っていた。
これらを購入する金も三菱が出していたことは間違いない。
明治24年は田中光顕にとって
一つの転換点に立つ年でもあった。
宮中顧問官となり、大室天皇と直接会う機会が増えたのである。
ここで、大室天皇の素顔を紹介したい。
蜷川新の「明治天皇」から引用する。
ある時、天皇は、伊藤博文に向かって
「おい伊藤、新しくきたあの若い綺麗な女の子は
許嫁がありますと言って、我が云うことに従わない」
と不平をこぼした。
それに対して伊藤は
「陛下!どうでもあの女を御意(ぎょい)に従えさせ給せ」
と答えたと、明治時代の要人から語られている。
好色の伊藤には、必然の態度であろう。
天皇やその側近には、女子の人格を尊重する
人権思想は全くなかったものと判断しうる。
当時の側近の要人らは、いずれも成り上がり族であって
気力、体力はすぐれ、普通以上の色欲要求者であった。
伊藤、山県、黒田、西園寺、桂、松方、土方、大久保、西郷
皆一人以上の妾を蓄え、甚だしきは姉妹を妾とした者もいた。
そういう側近者には、天皇をして
女子を敬重させる能力がなかったことは言うまでもない。
明治天皇には側室だけで28人もいた。
皇子、皇女は19人いたが、多くは2歳までに死亡した。
私たち日本人は、明治大帝伝説を脳髄深く植えつけられている。
伊藤博文と結びついた、吉井友実、土方久元、田中光顕が
明治天皇と呼ばれる男を監視し続けたことを知ると
明治天皇が何者であったかが見えてくる。
土方久元が去った後、奇兵隊時代から馬鹿にされてきた
大室寅之祐は、またもや田中の監視下に置かれることになった。
伊藤博文の執念こそ、山高く海深しのものがあった。
彼は女と乗馬と酒にいよいよ溺れていくのであった。
こうして、宮内大臣となった田中光顕は
大室寅之祐こと明治天皇を自在に操っていった。
私は土佐に誕生した自由民権運動が
どのような歴史をたどってきたかを書いてきた。
後藤象二郎の死後、板垣退助が自由党を率いて
大隈重信の改進党と合併し
ついに巨大政党が誕生する様子を描いてきた。
しかし、私はここまで書いて大いなる失望を味わっている。
あっという間に隈板内閣は瓦解(がかい)するのである。
それも尾崎行雄の冗談まじりの「共和」発言がその原因だった。
私はこの隈板内閣の崩壊劇が
大正、昭和時代の内閣の崩壊劇の元型となったと思っている。
右翼が薩長閥の代理をするようになっていくのである。
明治天皇は薩長閥に操られたマリオネットであったが
昭和天皇はその操り人形の糸を一本一本右翼に切られ
独立した神的存在となっていくのである。
尾崎は当時41歳で、大臣中一番の若い大臣であった。
この「共和」問題は日本の未来をより暗くするものとなった。
「板垣死すとも自由は死なず」との名言を吐いた
(この逸話はデタラメである)板垣退助は
尾崎の罷免(ひめん)を天皇に要求し
日本の自由を殺した男として
私たちは記憶にとどめなくてはならない。
アーネスト・サトウは幕末から
維新後にかけて英国公使パークスの下で活躍した。
そのサトウは、明治28(1895)年から
明治33(1900)年まで駐日公使を務めた。
パークスは幕末、吉井幸輔(こうすけ)と伊藤博文
そして田中光顕と交友関係にあった。
そのサトウが公使として日本に滞在中の日記を残している。
芝離宮(しばりきゅう)で
田中光顕宮内大臣主催の午餐会(ごさんかい)がある。
出席者はマクドナルド夫妻、ボナー夫人、戸田夫妻
長崎、斎藤桃太郎(以下略)
田中夫妻が優雅な上流階級の一員となっている様子を描いている。
アルジャーノン・B・ミットフォードは、サトウとともに
幕末にパークス公使のもとで働いた男である。
その彼が、日本の天皇へガーター勲章を贈呈するため
使節団の一員として明治39(1906)年2月にやってきた。
この宮内大臣時代の田中は彼の人生の中で一番輝いていた。
何よりも明治天皇の信任が厚かった。
明治25(1893)年4月10日
天皇は田中ら東宮輔導顧問に皇太子妃選定について命じる。
彼らが多くの少女の中からまず選考した
10名の少女が赤坂離宮に呼ばれた。
この皇太子妃選考に下田歌子なる女性が加わっている。
多くの重臣たちと浮名を流した女性である。
この女性を皇太子妃が決まったら教育係にすると
天皇と佐々木高行は決めていた。
歌子は2年間
皇太子妃の準備のためという名目で欧米各国を歴訪している。
これは理解しがたいことである
国際金融資本(特にロスチャイルド)と
明治政府の間に何か密約でもあったのではないかと思えてくる。
明治26年5月、皇太子妃に伏見宮禎子
(ふしみのみやさちこ)女王がなることに決まる。
この時禎子女王は満で8歳であった。
しかし、明治32年1月、佐々木は土方より
侍医(じい)の橋本、池田が禎子女王に
肺病の疑いがあると言い出したことを聞く。
禎子女王は選考から外された。
この禎子女王の診断書を書いた医師団の中に
エルヴィン・ベルツがいた。
他の皇太子妃候補もいろんな病気などの理由で消えていく。
禎子女王は肺病ではなかった。
他の皇太子妃候補もみんな健康体であった。
どうして偽りの診断書が作成されたのかという疑問が残る。
そして最終的に、九条節子(さだこ)がなぜ
適格となったのかということになる。
禎子女王の内定と取り消しの件は具体的に書いている。
しかし、節子については
「8月21日皇太子が従一位勲一等公爵
九条道孝の第4女節子と結婚することが内定した」
と書くのみである。
皇太子妃最終決定の権利を伊藤博文が握っていた。
彼は侍医たちを手なずけて
ことごとく皇太子妃候補を消し去っている。
宮内首脳たちの節子への評価は決してよくなかった。
「最早仕方なく、先で以って七分通り節子との事に相成居候」
とは土方久元前宮内大臣の弁であった。
エルヴィン・ベルツは、節子妃決定の前の会議で
「節子は妾腹の子だから皇太子の妃にふさわしくない」
と主張した、と伝えられる。
では、田中光顕(みつあき)はどうか。
彼は天皇に皇太子妃候補として
久邇宮(くにのみや)純子女王、九条節子
一条経子の3名を挙げる。
ここに九条節子が初めて候補として浮上してくる。
何かが起こったに違いない。
天皇は明治32(1899)年7月半ば頃
田中に、九条節子を皇太子妃として内定することを伝える。
田中は節子に会い
「美人ではないが、健康である」と報告する。
ここで、天皇は徳大寺実則を正式に九条家へ行かせる。
以上、簡単に記した。
田中が九条節子を皇太子妃にしたといえる。
このことが、大正、昭和にかけて
宮中での大きな力を田中に与えるのである。
最初は禎子女王に賛成していた田中も
伊藤博文に協力するのである。
皇太子妃候補として一度も名さえ挙がらなかった節子が
最後の最後で皇太子妃に決定した。
伊藤博文はドイツで憲法について学んでいる時に
キリスト教徒となっている。
伊藤博文とともに
皇太子妃選定に加わったのが大山巌(いわお)である。
彼は九条節子を皇太子妃にするように主張した。
その大山の妻が山川捨松(すてまつ)である。
彼女は岩倉使節団に加わり
津田梅子の津田塾の創設にも協力している。
皇太子妃選定の当時、伊藤と並び大山が最高の実力者であった。
その妻のクリスチャン捨松が同じクリスチャン九条節子を
皇太子妃にするように大山巌を説得したのではないか。
皇室にキリスト教(クエーカー)を持ち込んだのは
節子妃であることを知る必要がある。
さて、ここで明治天皇の生母とされる
中山慶子(よしこ)の死の場面を
ドナルド・キーンの「明治天皇」を通して見ることにした。
生母は、明治40(1906)年に死去した。
天皇は死の床のある生母を自由に訪問するわけにはいかなかった。
天皇は公式の母である皇太后の病床には駆けつけ
心の底から愛情を示した。
しかし天皇は生母を訪ねることが出来なくて
それは慶子の身分が十分に高くなかったからだ。
明らかに、もし天皇が望めば慶子を訪ねることを
禁じることは誰も出来なかったに違いない。
しかし明治天皇は、天皇にふさわしい振舞いと
自分が思う規範を破ることが出来なかった。
臣下であるがゆえに生母を自由に訪ねる事は出来ない。
「奇妙な礼式の精華だ!」と、ベルツは評した。
明治天皇は母の死後も母の元を訪れていない。
明治天皇は一度だけ中山慶子に会った。
その時、慶子(よしこ)は
「よくぞ私の息子の代役として明治天皇に成りあがった者よ」
と、無言の冷たい視線を明治天皇に投げた。
それ以降明治天皇は周囲のすすめもあったが
2度と中山慶子に会わないと心深く決めたのであった。
暗殺事件、特に、龍馬と伊藤博文の暗殺事件を
“金がらみ”と見る。
暗殺のための金、その後の金である。
岩崎弥太郎、2代目弥之助
3代目久弥、4代目小弥太と続く4代にわたる
岩崎家の当主が、田中に無制限に近い金を出し続けていたのも
坂本龍馬暗殺事件が原因だとする。
同じように、伊藤博文と田中の仲も
最後は、金によって結着がつけられたのである。
私は坂本龍馬が英雄となった原因の一つに
田中の宣伝活動を挙げる。
田中には、龍馬を英雄に仕立てなければならない
特別の理由があったに違いない。
後藤象二郎や岩崎弥太郎らが龍馬暗殺で疑われないように
龍馬の死後、いろんな小道具(刀の鞘、下駄)
を考え出したのも田中であった。
彼は谷千城(たてき)とともに龍馬暗殺を複雑にした。
それだけではない。
伊藤博文とともに、孝明天皇や
睦仁親王の暗殺に関わりながらも巧妙に逃げた。
龍馬伝説はかくて創作された。
龍馬が幕末のヒーローとなり、暗殺事件の華となり
明治天皇と睦仁親王の暗殺事件を影の薄いもの
否、「あってはならないもの」にしてしまった。
西郷も木戸も、ユダヤ系のジャーディン・マセソンや
サッス―ンの影響下にあるグラバー商会から
武器や汽船を購入しなければ
部落革命を成し遂げることができなかった。
あの維新という革命は、ユダヤ閥の力を借りたものであった。
彼らはイギリス公使パークスと見事に組んでいた。
グラバーもパークスも、薩長を使い商売をして
カネさえ儲ければよかったのである。
だから武器や軍艦を売りつけるために
日清戦争も日露戦争も
彼らが背後からけしかけたのである。
伊藤公を狙撃した犯人が果たして
安重根(あんじゅうこん)であったか
私はそこに大きな疑問をもつ。
伊藤公の傷あとを調べると
弾丸はいずれも右肩から左下へ向かって走っている。
もし、安重根が撃った弾ならば
下から上へ走ってゆかねばならない。
上から下に向かった弾道を見ると
これはどうしてもプラットホームの上の
食堂あたりから撃ったものと想像される。
しかも弾丸を調べてみるとすべて13連発の騎馬銃のもので
蔵相ココツェフ伯があとで、その前夜騎馬銃をもった
韓国人を認めたと言っているのと思い合わせると
安重根のほか意外の所に別の犯人がいるのではなかろうか。
伊藤を倒したのが、ハルビンで安重根の撃った
ブローニングの拳銃弾ではなく
フランス騎馬銃であったとするなら
それは明石が指揮する、韓国駐在日本憲兵隊の手先である朝鮮人
つまり韓国憲兵隊補助員ではなかったかと考えられる。
伊藤の方に銃口を向け6発の銃弾を発射した。
伊藤を狙った最初の3発が、伊藤の致命傷となった。
随行員等は、直ちに伊藤を列車内に運び込んだ。
随行の医師が、応急処置を施した。
しかし伊藤は、30分後に死んだ。
息を引き取る少し前、伊藤は自分を撃った者が
韓国人であったことを知らされた。
伊藤の最後の言葉は
「バカな奴じゃ」だったと言われている。
伊藤博文は非戦論者であった。
日清戦争の時も勝海舟とともに非戦論を説いた。
日露戦争も反対した。
日露戦争後、伊藤は満州進出を企てる軍人や
政治家を絶えず抑えつけようとした。
「満州は清国の領土なり
韓国は独立国として取り扱うべし」と。
そんな伊藤を殺そうとしたのは
玄洋社(げんようしゃ:日本で初めて誕生した右翼団体)
の頭山満(とうやまみつる)だった。
伊藤は絶えず命を狙われ続けた。
そして遂にハルビン駅頭(えきとう)で倒れた。
伊藤は暗殺され、日本は韓国を併合する。
大アジア主義を唱える玄洋社の時代がやってきたのである。
玄洋社の面々が伊藤暗殺をつねづね口にしていたのは
早く、伊藤が日露協商を考えていた頃
頭山満が、そのような軟弱なことでは
貴公の命は保証せられぬと恫喝したあたりから始まっている。
さらに、伊藤は韓国統監となって
韓国の富強をいたすのが総監の使命であると説くと
玄洋社の重鎮平岡浩太郎は
伊藤が韓国の扶植をなすのであれば
その首を斬るしかないといった暴論を吐いたりしている。
明石元二郎はこうした浪人たちを
ソウルの自己の官舎にいつも入り浸らせていたのである。
明石はもとより、陸軍の少壮軍人がそうであったように
韓国併合論者であり、さらに満州進出論者であった。
彼は、外務省代表ともいえる存在であった。
暗殺の費用は田中が出した。
その金の出所は
大谷光瑞(おおたにこうずい)ならびに三菱財閥。
明石元二郎が作戦を練り、暗殺に成功する。
のちの裁判は田中が指揮した。
明石は伊藤に恨みを持っていた。
そこで朝鮮人を犯人に仕立てようとした。
それもその犯人に伊藤の悪行を暴露させたいと思った。
殺人後の裁判での証言まで考えていたのである。
明石または彼の代理人が安重根に
「15条」からなる伊藤博文への告発状を渡し、取引をした。
安重根はこの取引に応じた。
それゆえ、劇的な場で
それとなく誰でも分かる瞬間がやってきて
タイミングよく、伊藤博文が逆賊であることを人々は知るようになった。
この明治43(1910)年の時点で
伊藤博文が孝明天皇を暗殺したことを
知る者は一人しかいなかった。
岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛、吉井幸輔、田中光顕。
田中以外は全部死んでいる。
この公判において
「日本天皇陛下に対しても、逆賊云々」
とあるように、安は最初
「現日本帝国の御父君」と供述し
旅順監獄に着いて「明治天皇陛下父親」
と手ずから書いた。
いずれもじかに「孝明天皇」と呼んではいないのである。
安が言うように、韓国の誰もが知っているのであれば
一度は「孝明」と口から出ても良い。
が、言わなかった。
この暗殺事件当時の外相は小村寿太郎であった。
彼は司法判断が出る前に、安重根の処置を高等法院に伝えた。
「極刑に処せられること相当なりと思慮す」
こうした政府の方針に反発したのが、土佐人だった。
高知は自由民権運動発祥の地で
また中央から疎んじられていた土地柄であった。
裁判への政治介入に反発し、安の主張に情緒的に同調していく。
伊藤博文の悪を日本のみならず
韓国の人々に伝えようとする恨み(ハン)が
この裁判で演じられたのではないかと。
そして、これら土佐の人々を使ったのは田中ではなかったかと。
田中と玄洋社が仕組んだ暗殺の可能性があると私は直感した。
2013年7月15日発行
この巻おわり
















































