取り消しになっていた裁判の期日が決まりました。

7月8日(水)午前11時~とのことです。

今回は以前お話したように傍聴人なしで行われます。

 

前回の県の答弁書を受け、当方は当初の期日に合わせて

意見書を提出しています。

ということは県は3か月も言い訳を考える時間があるわけですね…。

誰が読んでも、せめて筋がある、論理的に理解できるお話を

書いてきてくれるのでしょう…。3か月もあるのですから。

と言っても第三者委の報告書を受け容れ、当時の教育長らが謝罪した内容に対して

県は反論するのですから…。

ただ、人として、親だったものとして到底受け入れられない言葉については

個人的にいろいろと考えます。

 

まぁ裁判ですから、「そう言われたら、このように言う」というものがあるのでしょうけど、

本来県民を守り、地域や国、社会の安全を守り、反映を目指すはずの行政が

個人VS個人の裁判のような言い訳をしてばかりで根本的な反省ができないことが

いじめや人権問題が対策ばかりが並び、効果が出ない理由の一つなのだと思います。

戦前は行政裁判制度が別にあったそうですが…。

多くのいじめ被害者や被害者遺族は二度と同じような苦しみを受ける人が出ないことを

願って、意見したり、裁判を起こしています。

私たちのケースもそうですが、裁判を起こさないと話し合うことすらできない。

「寄り添ってます」という学校や教委はよくてこちらからの話を右から左に流すだけ。

全く聞く気もないこともある。

私が高校で話をしたときにその場に県教委のその当時のいじめ対策室長がいるのに、

話し合いを求めたら、話し合う気はないと断られましたし。

そして学校側の言い分だけ受け容れろと押し付けてくる。

それで良くなります?

だから、裁判を起こさなくてはならなくなる。

でも裁判でも結局は県は都合のよい言い訳ばかりで、根本的な解決に向けた

姿勢を示すことがない。

おそらく県が負けても、「こちらの言い分が認められず残念だ」の

一言で終わらせるのでしょうね…。

だから、何も変わらない!良くならない!悲しみは続いていく…。

 

多分、この国の根底から変えなくては何も変わらないのかもしれない…。

大正時代の異文化の劣化コピーから、今の時代にそぐう多様性を認め合い、

人権を尊重する社会に。

誰もが幸福を追求できる社会に。