右左脳統合セラピスト・yuko -27ページ目

右左脳統合セラピスト・yuko

徒然なるままに
日々の気づきをシェアすることで
わかるわかる、とか
あ、この人わたしとおんなじこと考えてる、とか
あー、そうかも、たしかに。とか
そんな『場』を作っていけたらいいなぁ
と思って始めてみました。



無我の境地、
無我夢中、

エゴイスティック、
我が強いetc、、



ご存知【エゴ(自我)】

にまつわる
いくつかの言葉を並べてみました。



さて、エゴ(自我)って

ずいぶん悪者扱いされているような気がしますが
本当に完全否定されなければならないモノ
なんでしょうか。




エゴ(自我)とは そもそも

《【バラバラ倍率】にピントを合わせたレンズ》

を通した観察(認識)
=世界の見方

のことであると
個人的には理解しているのですが


(自分がそういう特殊メガネを実際かけている、あるいは そういう顕微鏡を覗(のぞ)きこんで この世界を観ているつもりになると、イメージしやすいかもしれません)



まず、
《バラバラ倍率にピントを合わせたレンズ》
=エゴ(自我)による認識


とは何か、ということを
ハッキリ理解してもらうために
その逆の



【統合倍率】あるいは

《【ワンネス倍率】にピントを合わせたレンズ》


を使って世界を観察(認識)したときに
何がどう見えるのかということを
紐(ひも)解(と)くことで


エゴ(自我)の正体をハッキリさせて、


なぜエゴを捨ててはいけないのかという理由に迫ってみようと思います。





さて、
物理学的にみると
存在するもの全てには境目がないようです。
いわゆるワンネスです。



たとえば
今手元にあるスマホあるいはパソコンなどと
それを触っているあなたの手は

これ以上無理、
というところまで細かく分解すると

まったく同じものの集まりに過ぎず、
モノとして 違いを認識することはできません。


量子力学の言葉を借りれば

【定義したものが観測される】世界

なので
裏を返せば、
定義しなければ なにもナイことに
なってしまいます。


これは

【はじまりの世界】

あるいは

【はじまる前の世界】

とも言える世界であり


ワンネス倍率にピントを合わせたレンズで見た時に観察できる世界です。


この世界では
どんな定義をしてもよく、
どんな定義もできます。

つまり




『無限の可能性がある まだなにもナイ世界(場)』



なにか思いあたりませんか?


そう、
般若心経に出てくる『空(くう)』の正体ですよね。



ということは
定義されて初めて存在する世界は、、

【空即是色の色】のことと言えます。



実は
=【はじめにコトバありき】

(聖書の書きだしですよね)


でも表されている
世界が始まるための
絶対条件、なんですよね。

コトバによって定義するという行為は。




さて、
少し脱線しましたが


以上から分かるように

物理的につながっている

(定義されなければ観測されない
【境目のない同じモノ】の集まり)

という前提のもとに
わたしたちは存在しているわけですが


にも関わらず、



わたしとソレは別々の存在
わたしとアナタも別々の存在

わたしと『わたし以外』で成り立っているのが この世界

と認識する(認識できる)のが
一般的な わたしたちの五感です。



これが 冒頭にお伝えした

《【バラバラ倍率】にピントを合わせたレンズ》で見たときに見える(認識される)

世界、です。




そして実は
この感覚

=エゴ(自我)の認識による定義

があって初めて

【世界】は【世界】として
認識される、というのが最大のポイントです。




もし
わたしたちの目やその他の感覚器官が
素粒子あるいは量子のレベル、

先程の例を出すなら
ワンネス倍率にしかピントを合わせることができなければ


【世界】=ワンネス


以上。おわり。


です。
だって境目のない同じものの集まりは
定義のしようがないわけですから


わたし以外には
なにも存在しないわけです。



そしてこれが
《エゴ(自我)による認識》が存在しない世界です。




そこ(ワンネス倍率で観る世界)には
無限の可能性は在ります。

でも在るのは『可能性』なだけで
実際には何も観測することができません。


アナタもソレもコレもありません。



つまり
エゴ(自我)によって
【意味づけ】(定義)されて初めて

無限の可能性は制限され
カタチになり
存在を認められ



世界に【創造物】が現れるのです。



これが
人間が【創造者】であるといわれる由縁(ゆえん)なのでしょう。




話を最初に戻しましょう。

ではなぜ

『エゴ(自我)を捨ててはいけない』のか。



エゴ(自我)がない世界とは

=意味を持たない世界です。



生きることに意味はない、

というフレーズ、
どこかで聞いたことがあるかもしれないですね。

すでに悟りの境地に達した人のコトバ、
というイメージでしょうか。

たしかにそれは
ひとつの真実かもしれません。


でも、、



エゴをなくし
生きることに意味を見いださなくなったとき、

死んでもいいや、

という発想になるかもしれません。



空から有が生まれた奇跡に焦点を合わせ

ありのまま
そのままで
すべてが美しい、すべてが完璧
という感覚のみにとりつかれて

創造の可能性を探究することを
やめてしまうかもしれません。



あるいは
まだ発掘されていない
自分に内在する可能性を磨こう、


とは考えず


ただ存在しているそのことがスバラシイ

というところで
とどまってしまうかもしれません。



これらは
間違いではないですし、

ある意味では その通りなのだと思います。


けれど

では なぜ
わたしたちは
わざわざ肉体を持って生きているのでしょう。



それもわざわざ
エゴ(自我)というレンズを持参して。




ここからは
わたしの勝手な解釈ですが


人生とは

【無限の可能性】の世界において
【エゴ(自我)の認識】を通して

できる限り多くを【経験】【創造】すること


だと思うのです。



ただし
要注意なのは

その【エゴ(自我)】は

個人主義や
自分勝手
自己満足


といった
まさに世の中で言われる
『エゴイスティック』なものではなく


すべてがつながっている、

存在のすべては
ひとつである、という大前提を基盤にした上での

エゴ(自我)でなければ
いけないということです。


そうでなければ
ひとりよがりの
無知による正義感によって
悲しいなにかを創造してしまうことになるかもしれないからです。



しかし
すべてがつながっている
という認識を大前提にしたときには

エゴ(自我)は
驚くべき創造力を発揮し、

次から次へと
この世界が持つ無限の可能性を
カタチあるものに変えていくことでしょう。



それは
自分自身が持つ無限の可能性を
カタチあるものに変えていく作業であるとも言えます。



エゴ(自我)を捨てると
可能性は可能性のまま放置されます。

可能性、という定義さえされず

世界には
なにも創造されません。




空(くう)の存在を知り
ワンネスを体感し

ありのままの世界のすばらしさを知った
その先、

その先にこそ
生きる喜びがあると思うのです。


エゴ(自我)を通して世界を創造する、

この最高のアトラクションこそが人生なのではないでしょうか。



だから
エゴ(自我)を捨ててはいけないのです。

その代わり
空(くう)という大前提の認識も
忘れてはいけないのです。