前回記事、
ずいぶんエラそうに語っていましたね(笑)
ひと昔前の自分を諫(いさ)めるような気持ちがあったからか、
無意識のうちに
口調が強くなってしまったようです。
さて、
そんな前回記事、、
つまり
創造してこそ生きている意味があるという観念からは一転
(といっても否定するわけではないですが)
今回は
一見 真逆の考え方のようにもみえる
【存在そのものに価値がある】という観念に焦点を当てて
なぜそう言えるのかを
感覚的 感情的ではない方向から
検証してみたいと思います。
そもそも
なぜ存在そのものの価値に焦点を当てたか、というと
文字通り
『ただ生きている』ことしかできない方々
つまり
カラダあるいは脳に
先天的・後天的な機能障害をもち
誰かの手を借りなければ
日常生活さえ送ることができないような方々が世界には存在するからです。
内在する可能性を磨いてこそ
新しいなにかを創造してこそ
生きている意味がある、
という理論に照らし合わせたとき
果たして
そういう人たちは
生きていても意味がないのか?
本当に
なにも価値創造していないのか?
という疑問が湧きます。
その点を
ただ手放しに
命の尊さを賛美することで
【意味がある】とするのではなく
『ナルホドたしかに意味がある』
と、頭でも納得がいくカタチで
きちんと明らかにしておきたい
そう思ったからです。
さて、わたしたちが顕在意識において
この世界を世界として認識するためには
自分自身の【反応】をみるしかありません。
同じモノ、同じ人、同じできごとに出会ったときに
その場に居合わせた人たちが
寸分違(たが)わず
まったく同じ印象や感想や反応を持つことは ありえないですよね。
似かよっていたり
限りなく近いことは あったとしても。
そして それぞれが
それぞれの解釈で世界をみる、
という作業をすることで
そこには たくさんの種類の『解釈宇宙』が創造されるわけです。
そしてある意味では
これこそが わたしたちが生きている理由でもあります。
ここで注目したいのが
【外からもたらされる情報】によって
わたしたちの五感は物理的に刺激を受け
それによって生じる電気信号を受け取った脳が
これまでインプットしてきた情報をもとに、様々な意味づけ(反応)をする
=世界を創造する、
という点です。
この事実を
【ただ生きていることしかできない】方々にあてはめてみると
実は
自分以外の人の世界に登場して
その人に なんらかの反応を起こしている時点で
【その人(自分以外のだれか)が世界を創造するきっかけをつくる】という
大きな創造をしているのだということに気づいたのです。
つまり、、
たとえば 重度の障害者の方が
なんらかのカタチ(テレビや新聞、ネットなどを通して知ることも含む)であなたの世界に登場したとします。
このとき
必ずあなたの脳は なんらかの反応を起こすはずです。
たとえ気に止めなかったとしても
五感でとらえた以上は 反応が起きてしまうからです。
反応が起きている、ということは
=世界が創造されている
ということになります。
つまり
その重度の障害者の方は
あなたが認識する『世界 』の一部を創った、ということです。
さらに 建設的な事例を出せば
一見なにも創造せず
ただ存在しているだけ、
という存在をしていることによって
かえって
研究者たちの探究心に火がついたり、
あるいは
助けてあげたいという志を持つ人たちの生きる意味となり
事例別に様々な研究が行われていく過程において、多くが発見され
またその背景には たくさんのドラマが生まれ
数えきれない新しい世界が創造されていくわけです。
これらは皆、
ただ生きているだけ、
という存在の方々がいなければ生まれなかった世界といっても過言ではないでしょう。
では もう一度
振り返ってみますが
【ただ生きていることしかできない方々】は、
生きている意味がないでしょうか。
なにも価値創造していないのでしょうか。
いま ここまで読み進めてくださったあなたなら
感情論ではなく
はっきりと
そんなことはない、と言えるのではないでしょうか。
今回は
敢えて重度の障害者の方々などを連想してもらうような書き方をしましたが、
このこと、
つまり
存在そのものに価値があるという事実は
あらゆる人にあてはまる、
ということも
はっきりと感じていただけたのではないでしょうか。
最後に一言、
あらゆる存在に価値がある
という事実を認めるにあたっての
最も便利な道具が
『感謝』
なのだと思います。
感謝は
【肯定】や【賛美】とは違います。
価値があることを認める
ということであり、
まずそのままを受け入れる、
ということです。
そのままを受け入れる
という作業も やはり
肯定や賛美とは ちがうものです。
なぜなら そこには評価が存在しないからです。
つまり、
存在そのものに感謝する、とは
存在そのものを受け入れる、ということになります。
まず存在そのものが持つ大前提としての価値を認識するために
感謝という道具が使えるようになると
目の前の人や物や出来事に対し
あるいは自分自身に対しても
良い・悪い
正しい・間違い
優れている・劣っている
などの二元論ではなく
できる限り中庸に近い
あるいは 空の概念を前提とした
モノサシ、、
偏りのないモノの見方で
観察できるようになります。
すると いずれ
世界はあなたにとって
自覚的に感謝の対象のみで構成され
あらゆる苦しみから
解放されることになる、というわけです。ね。
【感謝】が大切である理由が
感覚や感情と同時に
まさにコトワリ(理)に則(のっと)ったものであるという発想を
あなたの世界に加えていただけたなら幸いです。