主婦の出番(ストーク修復⑧) | オバサン、52歳からのオートバイ挑戦日記

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夫のオートバイといっしょに、出会ったこと、感動したこと、書いています。
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2021年8月24日 火曜日

 

日大の木村研究室の学生の卒業研究として、

 

人力飛行機の開発が始まったのは

 

1963年(昭和38年)、

 

 

 

3年後、1966年

 

日大初の人力飛行機リネットⅠが、

 

15mの飛行に成功、

 

 

 

このリネットⅠの飛行記録は、

 

日本初、世界では4番目、

 

 

 

その後、

 

木村研究室の学生たちの人力飛行機は、

 

毎年、少しずつ記録更新、

 

 

リネットⅠから8年後、1974年、

 

イーグレットⅢは203mの飛行に成功、

 

 

一方、世界では

 

1972年、イギリスのジュピターの1071mが最高で、

 

誰も破ることは出来なかった、

 

 

しかし、

 

イーグレットⅢの後続機ストークは、

 

1976年3月、446mの日本記録、

 

9ヶ月後、1977年1月には2093・9mの世界記録、

 

 

世界中が驚愕したのは言うまでもない、

 

 

でも、

 

 

いちばん驚いたのは、

 

教え子たちが作る人力飛行機を見守ってきた

 

木村秀政先生だった。

 

 

木村先生は、

 

学生たちに口出しや指導は、ほとんどしない、

 

学生たちにすべてを任せる、

 

 

学生たちは、自分たちで問題解決しながら、

 

仲間たちと人力飛行機を作る、

 

1975年冬の格納庫、ストークの胴体の骨組みに感動する木村先生と学生たち

↓向かって右から、大関、富さん、中禮、金井、若松、石井、木村先生、生出、

左手前が高見沢 

ストークが世界記録更新したあと、

 

木村先生はチームリーダーの石井さんに言った、

 

「石井君、ストークはどうしてあんなに飛んだのかね?」

 

この質問に、当時、22歳の石井さんは、返答出来なかった。

 

 

あまりにも、たくさんありすぎて、

 

何から話せば良いか、どれがもっとも大切か、

 

複雑過ぎて答えられなかった、

 

 

ただ、

 

石井さんの手元には、

 

1000ページ以上の設計資料が残っていた、

 

それらすべてを複製し、

 

後輩たちの資料として、

 

格納庫に残し、大学を去った、

 

 

不思議なことに、

 

その複製された資料は、誰かが持ち去り、

 

大学には残っていない。

 

 

 

今回の修復ため、

 

石井さんは、その原本資料すべてを、

 

ヒロサワに持ち込んでいた。

 

 

2021年8月23日 午後6時過ぎ、

 

ロッジL5に行くと、

 

テーブルには、製作途中のリブがあった。

 

リブは展示用のカットモデルのためだ。

 

 

ロッジの間取りは、

 

寝室が2部屋、洗面所とバス、トイレ、

 

あとは、12畳ほどのリビングが1つだけ、

 

 

リブは、そのリビングで製作され、

 

リブの周りは、飲み物、食べ物、

 

 

床には、工具、材料などなど、

 

そして、あの資料、

 

 

とにかく、何もかも雑然と平置きで、

 

足の踏み場もない。

 

私は、あっけにとられて、言った

 

「どうしたの?何これ!どうしてこんなにごちゃごちゃなのよ!」

 

バツが悪そうに、石井さんが答えた、

 

「だって棚がないんだもの。事前に、棚の用意をお願いしていたのに。」

 

「石井さん、スーパーに行って、ダンボールをもらいましょう!」

 

「スーパーに?ダンボールで何するの?」

 

「棚をつくるのよ、ペットボトルや重い野菜や果物用のダンボールは、とっても丈夫だから、棚になるわ!」

 

近隣の薬局やスーパーで、タダでもらってきたダンボールで、翌日までに、私はダンボール棚を完成させた

 


 

もー!棚がないなら、工夫すればいいのに!

 

殿方って、世話が焼けるんだから!

 

 

どうやら、主婦としての出番が他にもありそうだ。

 

~つづく~