現実は仮想でも死は仮想ではないようです | 風知風束(ふうちふうつか) 魂、精霊、風との対話

風知風束(ふうちふうつか) 魂、精霊、風との対話

霊性、祖霊、魂、精霊、生霊など見えない存在、植物、動物など言葉をもたない存在と対話して自分の役割(本質本性)を知り、風と対話してご縁の結び目を解くことで、この世あの世さらにはその向こう側の謎を解いていきます。

私たちの居る現実は五感を通して脳が感知認識している姿、事象、像だと思うのですが、だとすれば現実は実態(体)のない仮想世界ですから、実像は結んでいないわけです。


その仮想現実(仮の像)に身を居て、お互いが仮の姿で出会い、喜怒哀楽、優劣貧富、生病老死を味わっています。


この繰り返しがいったい何になるでしょう…それだけが生命、生物の役割なのでしょうか?


一方で常に死、死後の世界を隣に置いています。あなたはいつどんなことがきっかけで死を知ることになりましたか?


死も仮想現実だと思うことはできますか?


この世は、生に公平確実はなく死だけが公平確実に訪れる仮装舞踏会のようなものですが、さらに身体に備わっている五感センサーはまるで万華鏡のように目まぐるしく変幻する像を結びます。


地球上の生物はみなそれぞれの万華鏡で現実を観て感じているわけですが、誰一人、どのような生命種でも、現実の正体は観ていないのでしょうか?


そんな中にあって高等動物と言われる私たち人類は、仮想現実の中にさらに絵画、小説、映画、テレビ、ゲーム、パソコン・スマホ、アップルビジョンプロ、AIといった仮想世界を創り身を置き、いずれ訪れる死だけが逃れられない現実という理解のもとに生身の身体を忘れようと藻掻いているようにも見えます。


いつになったら仮想ではない現実という名の時空の正体を知ることができるでしょう…。


仮想ではない現実を知るヒントは死にあります。


死の正体を知った時…

この世あの世の時空の一部分である生物の現実に身を置く私たちが、いずれ時空の正体を知って圧倒され、その後に生命の現実と時空の織りなす糸を辿って行くと時間と空間が繋がり、死がおいでおいでしている意味を知ることになります。


死はこの世に居ることの終わりではなく何処かへ移動することですが、私たち生物はそれを死として理解しています。


死は、身体で知った、得た収穫物を持って次の現実へ移動することです。折り重なった現実が時空です。


なので私たちは折り重なった時空の一つの現実(次元)に居るだけです。一つの現実(次元)を知っただけでは時空(この世あの世)の全貌を知ったことにはなりません。


死は、身体の交換です。いずれ交換しない存在として誕生しますが、個としての存在意識があるかは不明です。


身体を交換してくれるのは誰でしょう?