心のシェア | 風知風束(ふうちふうつか) 魂、精霊、風との対話

風知風束(ふうちふうつか) 魂、精霊、風との対話

霊性、祖霊、魂、精霊、生霊など見えない存在、植物、動物など言葉をもたない存在と対話して自分の役割(本質本性)を知り、風と対話してご縁の結び目を解くことで、この世あの世さらにはその向こう側の謎を解いていきます。

むかし(40年くらい前ですかね)夫婦交換(スワップ。スマップじゃないですよ、笑)という言葉が流行りました。夫婦を交換してセックスを楽しむそうです。それよりちょっと前にフリーセックスという言葉が流行りました。どこかの国の性意識の変化が誤って日本に伝わって、マスコミが興味本位に取り上げていました。

昨今、セックスに関しては、自分に正直になりつつあるような気がします…江戸時代までの日本に戻ったというか、明治以降の日本人の性に対する表向きの意識が異常なくらい抑圧的になっていたからでしょうか?抑圧教?

夫婦交換はマスコミが国民を撹乱させて、同時進行で起きている大事なことから目をそらせる狙いがあったのかもしれませんね。わざわざカップルで交換してエッチしなくたって浮気の相手は男女共に星の数ほどいるでしょう(笑)その気になればですが…。

私はひとりの人とずっと長く、いつまでもして奥義を深めたいほうですから、浮気、遊びは興味ないです。夫婦の相性はエッチの相性も大事です。ただ、夫婦どちらかが女を、男を卒業してしまったら、話は別ですけどね。

元妻は60歳で卒業宣言しました。それまでもあまり乗り気なほうではなかったですけどね。私はかわいそうな夫です(大笑)

夫婦はエッチもコミコミですから、どちらかが好きで、どちらかが関心がないという夫婦は不幸だと思います。ともに興味がなくなればエッチ抜きの夫婦関係、絆、愛情が育まれて、ともに白髪の生えるまで寄り添えるのでしょう。

夫婦交換は興味ないですけど、夫シェア、妻シェア、さらに家族シェアは♪ありそうでなさそうでウッフン、ほらほら黄色いさくらんぼ…あってもいいかなと思います。

一夫一婦制は、たしか明治になってから普及した男女のあり方、夫婦のあり方で、そのほうが為政者は統治しやすいと判断して国民に押し付けたのでしょう。

それまでは農村などでは複数の男たちが1人の女を共有する習慣があったようです。お金を出し、生活の必要なものを持参し、労働もしてあげて女の生活の面倒を見たとか。まあ、男のほうでは「自分の女」と思っている女に何人の男がいるかは知らないか、知っているのかわかりませんが、その結果生まれた子供も男たちみんなで父親のなったのでしょうかね。

むかしの農家は跡継ぎ以外、次男三男四男…は小作人になったと思われます。田畑も少ないので嫁のきてがなかったので、こういう女シェアという発想、知恵が生まれたのでしょうか?

妻シェア…あながち不道徳な男女関係、習慣ではないですよね。ある意味で合理的です。ただ、生まれた子供の父親が誰なのかわからないので(女にはわかるのかな?)将来子供たちが夫婦のような関係になり子供が生まれる可能性はあります。

一方で複数の女が1人の男をシェアすることもあったのでしょうかね?今度ネットで調べてみよう。

きょうだいで夫婦のように暮らすことは珍しくないと聞いていますが、今はどうなんでしょうか?

夫婦を語るときに倫理道徳を持ち出してがんじがらめにしてしまう現代では、妻シェア、夫シェアは、不倫浮気、あり得ない!ドン引きするえげつない非常識極まりない話になっていますが、本当にそうかはその当時の男女に聞いてみないとわかりません。

人間の独占欲を満足す意味では一夫一婦制は都合のいいところも多いのでしょう。

倫理観は為政者の都合によって変わります。

あれっ、ここまでは以前にも書いたような気がしますが、ここからはちょっと創意工夫してひとひねり加えたいと思います(笑)

妻シェア、夫シェア、行き着くところは家族シェア。妻シェア、夫シェアは、いちおう一対一の関係ですから難しい面もあると思いますが、家族シェアは、共同体の拡張、核家族からひとっ飛びに大昔の仲間意識に戻るわけですから、親きょうだい家族から親戚も加え、さらに縁者、同じ空間に住む者たちが力と知恵を出し合い支え合う村以上の運命共同体を構成するわけです。

貨幣社会では稼げればとりあえず1人で生きていけるという錯覚のまま一生を終えることも可能です。仕事、社会、地域との関わりは最低限で済ませることができます。

国民としての最低限の義務は納税義務と選挙権の行使、そして法律遵守、犯罪・火災の通報等だけでとりあえずはいいわけです。それ以外の時間、労力をわざわざ出さなくとも後ろ指は差されないし村八分にも合いません。

国を守る義務もなく、それ以前に忘れています。敵が攻めてきても一億敵前逃亡になるのですかね。日本は島国ですから断崖絶壁から総身投げです。

災害の時だけ思い出したように助けを求めたり、無償の労力を提供します。喉元過ぎれば熱さ忘れ、これが続かないのです。

その結果が戦後たかだか十数年で核家族となり、75年で単身者が多くなり、隣は何をする人ぞ意識が強固になり、村社会は遠くになりにけり。

村社会の弊害は消えましたが、喪ったものも多いと思います。みなさん気がつかない、関心がないだけで、いずれ不都合なことに直面するのは時間の問題かもですけどね。

これは貨幣社会の最大の短所ですが、大方の人は長所ととらえて独り身を謳歌し、やがて誰もいない墓に入って無縁仏になるわけです。やがてお参りする縁者はいなくなり墓は寺が没収、共同墓地に散骨されます。これが現代日本人の望む無縁社会の、同乗者のいないトロッコ電車の終着駅なのです。

むかしがいいか今がいいかという単純な比較ではなく、「分け合う」「力、知恵を出し合う」ことが日常的に親きょうだい以外にまで広がっていた共同体が失われた影響はこれからどんどん出てくると思います。

家族が濡れないようにさす傘を折り畳んで、大勢が入れるテントにして、みんなで雨宿りしましょう。

大事なのは社会の中の役割としての妻シェア、夫シェア、家族シェアだけでなく、そのもっともっと先にある心のシェアではないかと思います。

とりあえずは富の集中を避けて等配分することと、武器を捨てる名ばかりの自分達だけ平和主義ではなく、「やること」をやらないと地球規模の心のシェアは難しいです。