キラキラ輝く水面。あれがスポットライト。照明。水槽の中はエンターテイメント。多種多様な魚が各々泳いでいる。大きさも姿かたちも泳ぐ速さも違う。役者みたいだ。みんな個性がある。水槽越しに眺めている観客たちは、好きな特定の魚だけを見るもよし、全体を見渡すもよし、好きなように見ればいい。いろんな見方ができる。それが楽しい。そうか、水族館も、劇場も、同じなのだ。

 

 

舞台が好きです。演劇が好きです。演劇自体も好きだし、今の芸能事務所の先輩役者さんたち。演劇に関わっている人たち。舞台に関わること、舞台芸術全般が好きです。

 

 

水中が濁って周りが何も見渡せない時がある。劇場や稽古場から離れている時間。舞台以外のことを考えないといけない時間。もしも自分から今の環境が取り上げられたらどうなるだろう。演劇してなかったら人生がつまらなくなりそうで怖い。それこそ何の為に生きているのか分からなくなる。演劇に、舞台に関わっていない自分が想像できない、というか想像したくない。逆に言えば、それだけ演劇に出会えてよかったと思う。

 

なんだかんだで私は人が好きなんだと思います。世の中冷たい人もいるけれど、いい人だっている。私は後者とたくさん関わっていきたい。尊敬できる人が幸い私の周りには多いから、彼ら彼女らのように私もなりたい。

 

 

そんなわけで変態確定レベルで10歳から虜になり熱中し続けてきた舞台という総合芸術。寝ても覚めても好きです。きっとこれがないと生きていけません。そんな私が観たのが映画「さかなのこ」。おさかなさんが好きで好きで一途にずっとおさかなさんが大好きなさかなクンの半生を綴った映画です。映画を観ながら、魚と舞台芸術と、興味の対象が違うだけで、さかなクンも私も同じなのだと思いました。

 

 

ミー坊(さかなクン)は子どもの頃からおさかなさんが大好きで、寝ても覚めてもおさかなさんのことばかりを考えて生きてきました。『お前、魚に「さん」付けするのかよ。』と幼馴染みからも変人扱い。父親は『小学生が、毎日魚のことばっかり考えているのは普通じゃない。周りの子と違う。』と言い、担任の先生からも三者面談の時に『おさかなが大好きなのは分かるけど、もうちょっと勉強を頑張って欲しい。あとで困るのは本人だ。』と言われる。

ミー坊自身も周囲の言葉など大して気にも留めず、大好きなおさかなさんのことに情熱を注いでいるのだけれども、何よりもミー坊の母親がミー坊の味方。「成績がいい子もいれば、悪い子もいる」「あの子はあの子のままでいい」「あの子はおさかなが好きなんです。だからそれでいいんです。」と言い放つその姿は、まるで太宰治の『ヴィヨンの妻』に出てくる大谷の奥さん・さっちゃんの台詞、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」に相通ずるものがある。

映画の終盤で「ミー坊、私ホントはね、魚が苦手なの…」と、大人になったミー坊に打ち明けるシーンがあるが、ミー坊のおさかな好きに付き合うために、ミー坊がタコに興味を示している時は毎晩のようにタコ料理を食卓に並べ、毎週末水族館に連れて行き、自分の魚嫌いを隠し、ミー坊の大好きなおさかなさんにとことん付き合い、大人になったミー坊に「お父さんたちにも無理させてしまった。でも、ミー坊がおさかなさんがずっと大好きでいてくれて、よかった」と涙する。

 

 

 

この映画は、自分の経験とシンクロするシーンが多い。

 

 

高校生になったミー坊に、ヤンキーな同級生が「お前何でそんなに魚が好きなんだ?」と訊く。ミー坊は「だってカッコイイから!おさかなさんにはいろんな種類や顔がある。」と言う。「人間みたいに会話できないじゃないか」と指摘されるが、ミー坊は「時々、おさかなさんの気持ちが分かる時があるよ。」と返す。

 

私も芸能事務所のレッスンの時、同じ新人の所属俳優さんに「テレビドラマとか映像芝居ならもし台詞間違えとか失敗したとしてもカットして撮り直しができるからまだいいけど、舞台とか公演って、目の前にお客さんが沢山いて失敗ができないところが怖い」と言われたのですが「私は高校演劇部時代に約1,000人の観客の前で思いっ切り台詞間違えしたけど、その時同級生の部員がアドリブで即座に台詞を入れてくれて、そのお陰でドっと観客にウケたから、怪我の功名みたいになったし、私は舞台演劇はもしかしたら失敗するかもしれない、何が起こるか分からないっていうドキドキワクワク感も含めて舞台演劇が好きですよ」と返しました。

 

 

 

大人になったミー坊。幼馴染みのヒヨが自分の交際相手をミー坊に紹介したくて高級レストランで3人でディナー。初対面のヒヨの交際相手から「お仕事は何を?」と訊かれ、ミー坊は初対面であろうが堂々と「今はまだペットショップのアルバイトをしています。いつか、お魚博士になりたいと思っています。」と宣言。

 

私も芸能アカデミーでレッスンしていた頃、よく同じレッスン生や講師の前で「憧れの人は美輪明宏さん。実際に生でコンサートを聴きに行ってボロ泣きする程感動したので美輪明宏さんみたいなカッコイイ素晴らしい人になりたい」と初対面だろうがお構いなしによく美輪明宏さんの話をしていました。

 

 

 

ミー坊の幼馴染みで今はシングルマザーのモモコ。幼い娘を連れて行き場を無くし、一時的にミー坊の一人暮らしのアパートに転がり込む。

ある日3人で海水浴に行く。モモコの娘は波打ち際で遊んでいる。老夫婦が通りかかりミー坊とモモコに「ご家族でいいですね。可愛い盛りですね」と微笑ましく通り過ぎる。

モモコは「ごめんね。ミー坊とおさかなさんとの生活に割り込んできて。私たち、普通じゃないよね。」と謝る。それに対してミー坊は「普通って何?ミー坊よく分からない。」とあっけらかんと返す。

 

 

ミー坊みたいに、あっけらかんとできれば、どんなにいいだろうと思いました。

基本的にミー坊と私はシンクロする部分が多いのですが、ミー坊はどれだけ周囲から「あの子は普通じゃない」とかいろいろ言われても、ミー坊は一切怯むことがない。ミー坊の目に映るのは常におさかなさんのこと。さくらももこ先生の『コジコジ』と似ています。周囲から何を言われても気にしない。「コジコジだよ コジコジは生まれた時からずーっと 将来もコジコジはコジコジだよ」コジコジみたいになりたい、ミー坊みたいになりたい。強く生きて行きたい。

 

私自身、「好きなことがあるって、熱中できるものがあるっていいね」と、周囲から言ってくれることもありますが、好きと変人って紙一重みたいなところがあって、私もミー坊みたいに「あの子変わってる」って言われて嫌な思いをしたことも多々あります。

「趣味が無くて、熱中できるものが無くて、それが悩みなんです」みたいな話も聞きますが、私からすれば、熱中できるものが無いのであれば、それがあることによって生じる悩みが無いので、好きなものとか、ぶっちゃけ無くてもええんちゃうん?とか思うこともあって。とくに趣味も無くて平凡に生きてる人のほうが私なんかよりもずっと幸せに見えたりなんかして。

 

 

こうやって映画「さかなのこ」と自分の実体験を逐一シンクロさせてスクリーンを観ていたので、ずっと私の心に沁みっぱなしで涙腺も緩みっぱなしでした。

こんなにボロボロ泣いている私は完全にアホだと思います。

 

 

この映画、モデルであるさかなクン本人も「ギョギョおじさん」という、謎の人物役で出演しています。ミー坊と同じ町内で暮らす魚の知識豊富なおじさんですが、近所の人たちからは水槽を沢山家に置いてある不気味なおじさんとして認知されています。

ミー坊はそんなギョギョおじさんと仲良くなり、ギョギョおじさんはお魚博士なのかと訊くと「今は無職。勉強できなかったので、お魚博士になれなかった」と嘆く。

 

同じ無類のお魚好きにも拘わらず、ミー坊の周りには理解者が沢山いて、ギョギョおじさんの周りには理解者が居らず変人扱い、夢も叶わず。

 

なんか安っぽい夢だけ応援する無責任な押し売り映画ではなく、陰と陽みたいな、好きなことを追いかけるのは楽しい道ばかりじゃないんだよっていうのをさり気なく示してくれている存在にギョギョおじさんは居るような気がした。

 

 

ギョギョおじさんが叶えられなかったお魚博士という夢を、ミー坊は叶えます。

 

 

映画の終盤、ミー坊がお魚博士としてテレビ番組に初出演し、「小さい頃からお魚さんが大好きで、気が付いたらこの場所にいました。好きに勝るものなしでギョざいます。これからもお魚さんと一緒です。」とカメラの前で生き生きと話すミー坊の姿。

 

 

ミー坊はおさかなが好き。私は舞台芸術、演劇が好き。

 

 

ミー坊の「好きに勝るものなしでギョざいます。」の一言に、なんか勝手にミー坊やさかなクンに応援されているような気がして(そんなことはない)涙が止まらなかった。

 

 

 

「さかなのこ」は人を選ぶ映画だと思います。

 

たとえ全米が泣かなくても、アホちゃうかというぐらい私はボロボロ泣きましたし(きっと間違いなくアホです)、何度も何度もこの映画のシーン一つ一つが私の心に響きました。

 

暫くはひとりで「さかなのこ」の余韻に浸っていたい。

 

 

 

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