よく、『神のお告げ』などという言葉がありますが、私にも最近お告げがあったのです。

 

 

この前私のブログを見てくれている知り合いに「最近ブログ更新がない」とお告げがありました。

 

 

ただ、長らく私のブログをご覧下さっている方はご存知でしょうが、私は躁鬱病なのです。

とくに昨年末から年始にかけて(今もそうなのですが、)“躁”と“鬱”の“鬱”のほうの波がえげつなく酷いのです。

 

それでブログ更新しようかどうしようか迷っておりました。

 

 

宝塚や劇団四季を観に行ったり、自分が習っている作曲家先生の関わっている演奏会を聴きに行ったり、はたまた作曲家先生の門下の発表会に出たりと、書くネタは沢山あるのですが、如何せんブログとなると人様の目に触れる文章なので、いい加減な駄文のままでupするわけにもいかず、推敲をせねばなりません。

行間はこれでいいか、文体のリズムとか、第三者が読んだときに分かりにくい文章になっていないか…いろいろと考えねばなりません。

 

対して、自分の日記は人目に触れることは一切考えなくてよいので自由に伸び伸びと書いていました。

 

 

かれこれ小学4年生からずっと日記を書いていますが、文章を書くこと自体はとても好きだと思います。

 

始めた当初は合唱部で先生に注意されたこと、その日の反省点などを自分なりに毎日学校から帰る度に書いていました。

 

今はというと、芸能事務所のレッスンで感じたこと、指摘されたこと、反省点等々。

宝塚や劇団四季を観劇した時にも、自分に置き換えた時に自分だったらどう演技するだろうかとか、役者さんのこの表情いいなあとか、吸収することがあまりにも多くて最近は日記に書いても書いても書ききれないぐらいです。

 

 

元々詩や小説を読むのは好きですが、脚本の読解力の為にもなるべく多くの文章に触れる機会を持たねばならぬのに、最近はその時間が減っており反省しております。

 

 

そんな中で、最近心に響いた詩があります。

 

詩人、故・茨木のり子さんの『時代おくれ』という詩です。

 

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時代おくれ / 茨木のり子

 

車がない
ワープロがない
ビデオデッキがない
ファックスがない
パソコン インターネット 見たこともない
けれど格別支障もない

そんなに情報を集めてどうするの
そんなに急いで何をするの
頭はからっぽのまま

すぐに古びるがらくたは
我が山門に入るを許さず
(山門だって 木戸しかないのに)
はたからみれば嘲笑の時代おくれ
けれど進んで選びとった時代おくれ
もっともっと遅れたい

電話ひとつだって
おそるべき文明の利器で
ありがたがっているうちに
盗聴も自由とか
便利なものはたいてい不快な副作用をともなう
川のまんなかに小舟を浮かべ
江戸時代のように密談しなければならない日がくるのかも

旧式の黒いダイヤルを
ゆっくり廻していると
相手は出ない
むなしく呼び出し音の鳴るあいだ
ふっと
行ったこともない
シッキムやブータンの子等の
襟足の匂いが風に乗って漂ってくる
どてらのような民族衣装
陽なたくさい枯れ草の匂い

何が起ころうと生き残れるのはあなたたち
まっとうとも思わずに
まっとうに生きているひとびとよ

 

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なんかこう、あれなのです。

 

“そんなに情報を集めてどうするの/そんなに急いで何をするの/頭はからっぽのまま”

 

今のコロナ禍を生きる私たちにそのまま問いかけられているような気がしてならんのです。

 

私はもうニュース見るのがネガティブな情報ばっかりでしんどいのでもうテレビも付けずに過ごすことが多いですが、(付けたとしてもEテレとかそんなんばっかwww)

別に集めんでもええ、集めたところでそれが何になるねんみたいな、よく分からなんような情報にばっかり目くじらを立てて嗅ぎまわっているように思います。

 

もっと大事なことなんてほかにもたくさんあるのに。

 

茨木のり子さんの詩って、時代を超えて、今の私たちにずっしりとささるなあ…。

 

 

 

 

話は変わりますが、私に「ブログ更新しなさい」とお告げした知り合いや、

ブログの存在は伝えてないけど、電話する度に「あんたは賢いんやから文章をお書き!」と

やたら私に文章を書くのをすすめてくれる知り合い。

 

何か知らんけど私の身の回りには文章を書くことをすすめてくれる人が多いです。有り難いことです。