コジコジ「じゃあ全部。全部一番好き。」
先日、大阪芸術大学通信教育部在学中に和声法のスクリーング(対面授業)で一緒だった学生さんから久し振りにLINEがあって、作品制作の授業の先生がプロデュースするコンサートが9月に東京であるから一緒に行きませんかとお誘いがきました。ちょうど同時期に別件で私用があるから、泣く泣く今回のお誘いは丁重にお断りしました。当時和声法のスクリーングの時に、授業に参加していたメンバーでグループLINEを作って、しばらくしてから学友たちと和声法の先生も呼んで勉強会&合宿もしてめっちゃ楽しかったです。『和声の合宿が開催されたので行ってきました。』この前の土日は久し振りに芸大通信の学生さんたちとお会いできました。和声法Ⅰのスクーリングの時に作ったグループLINE内で、芸大の先生を呼んで和声の勉強合宿が…ameblo.jpたしかその学生さんも私と同じ2016年入学か、翌年の2017年か、ほとんど同時期の入学生さんなのですが、和声法の学友のグループLINEができてからというもの、その学生さんは律儀にずーっと毎年お正月になると、あけおめスタンプを送ってくれて、毎年私もスタンプを送り返しています。どうやら学友さんみんなにあけおめスタンプは毎年送っているそうで、私のように毎年返信がある学友さんもいれば、もう未読スルーの学友さんもいらっしゃるそうです。(スタンプだけとはいえ、毎年みんなに送信してることが地味にすごいと思う。)時にはLINEで電話もくれます。『最近どうしてますかー?』と。通信制の大学って通学課程と違って毎日顔合わせる訳じゃないし、基本的に自宅学習が中心なので、スクリーングのタイミング合わへんかったら同時期に入学した人でも一生涯顔合わせることなく学生生活終わる人もザラに居てるわけです。そんな中で、LINEで時々連絡をくれる人なので、とても有り難いし、一昨年だったか、LINEで電話くれた時に和声法で一緒だった学友さんが今どうしてるとか、知ってる範囲で教えてくれました。もう卒業した人が大半のようで、中には仕事とか家庭とか他のこととの両立が難しくて除籍になった人もいました。(既に他の大学を卒業済みで、3年次編入で入ってる人とか、教員免許を取るためだけの教職課程の人が多かったので、元々卒業が近い人が多かったです。)まあ、自分も数年前に仕事転々とせざるを得んくなって、当時一人暮らしだったし、芸大の学費よりもまず家賃とか生活費とか必要最低限のそっちを優先しやなあかんなって休学→除籍になりまして。んで、この前芸大の先生のコンサート誘ってくれた時に教えてくれたのですが、その学生さんもまだ現時点では芸大卒業できてなくて、仕事とか家庭の両立で大変でなかなか卒業がまだまだ遠いらしく、この前事務局に問い合わせたら、10年在籍して卒業できなかった場合、自動的に除籍となり、手続きすれば再入学できるそうで、取得単位数によって3年もしくは4年延長できると教えてもらったとのこと。いくら通信制の大学でも10年以上も在籍してたら、もう下手したら通学課程の大学行けるやんな…ぐらいの学費は投入してますが。でも、スクリーング一緒だった学生さんで一人、1回除籍になったけど再入学した学生さん居てはるみたいです。みんな、学ぶことへの欲求というか、探求心、バイタリティーがすごいなぁと。私は今の現状だと、通信の大学再チャレンジ云々よりも、まずはちゃんと働いて稼げるようにならないといけないので。(数年前にうつ病が酷くなって、休職→退職して、まずはきちんと働けるようになるようになることが当面の目標というか課題です。)《↓ HANONのスケールを練習するコロ助。》
前のブログでも紹介した親友・たまちゃんみたいな存在の先生に先日も会ってきました。コロナ禍中は学校に会いに行けなくて、電話でしか会話できなかったので、今はこうやって学校に会いに行ける日は会いに行って顔を見ながら近況報告とかいろいろなことをお話しています。辻調理師専門学校卒業してよかったと思うことの一つが、こうやって卒業しても先生たちに会いに行ける雰囲気なこと。退団したタカラジェンヌさんがテレビで「私たちは卒業してもずっと生徒です」と言っていたが、本当にそんな感じである。先日の先生との会話は、劇団さんからお声掛けいただいて、劇団の稽古に参加させてもらってること、公演に向けて稽古が始まっていることとか、最近はどうしても劇団のこととか演劇の話題が中心でした。先生にも言われたのですが、「よつばさんが今までやってきたこと、声楽や日本舞踊のレッスンだったり、芸能事務所に所属して公演に出たりとか、大阪芸術大学(通信教育部)に在籍して勉強してたこともあったし、今までよつばさんがやってきたことが全部繋がってるね。」と。振り返れば、先生は私が辻調卒業した時からずっと見ていてくれて、応援してくれてたんだなあと。みんなが辻調卒業したら料理の仕事に就職が決まっている中で、私は料理の世界に就職しないで全く畑違いの大阪芸術大学(通信教育部)に通いたいことを先生に伝えたその日から、ずっと私のことを応援してくれていた。辻調理師専門学校って就職率99%だなんて出しているのに、私なんぞ究極の異端児というか問題児である。(そのかわり料理業界ってせっかく就職しても離職率も高いから長い目で見ると何ともアレなんですが。)この前先生が打ち明けてくれた、実は先生も音響とか舞台の裏側に興味があってそういう系の学校に行きたかったけど、親に反対されて勇気が無くてできなかった話。その話を聞いてから、先生は私とはじめて出会った時から私のことがずっと羨ましくて、ずっと憧れていたんだなあと。自分が勇気出して進めなかった世界に突き進んでいく私がずっと羨ましかったのだなあと。だから卒業してもずっと定期的に連絡すれば話聞いてくれて、私のことずっと気にかけてくれているんだなあと。先生に何度か言われた。「よつばさんっていろんなことにチャレンジして行動力あるよね。それもすごい才能だよ。大人になるとなかなかこうしたいなあと思ってても行動することって難しいからさ。」何時ぞや私が自分の演技のことで悩んでいることを先生に打ち明けた時にも言われた。「好きなこと、やりたいことをできてる環境にあるのが恵まれているし、羨ましい」と。先生はいつだって私の話をどんなことだって聞いてくれた。でも、先生が私のことを羨ましがるように、私のほうだって先生が羨ましいと思うことが多々ある。私たちはお互いに減らず口だから、電話だと特に言い争いになることもけっこうある。ある日のこと。何きっかけで言い争いになったのか忘れたが、「先生はいいですやん。私にないもの全部持ってて。私にはなんにもない。どうせ先生に私の気持ち分かんないでしょ!」投げ捨てるように先生に言った時、先生に言い返されたのが、「分からないけど、他に何が言いたいの、聞いてるから。」ってそんなニュアンスのことを言われた記憶がある。数年前の朝ドラ『おかえりモネ』の台詞でこういうのがある。「あなたの痛みは僕には分かりません。でも分かりたいと思っています。」まさに先生のことだなと思って観ていた。先生は朝ドラと同じことをしてくれていた。だから、私は先生に何でも打ち明けられるんだと思う。先生が私を信頼してくれて、全部聞いてくれて、私をずっと応援してくれているから。なんかもう先生って私のファンやねんなって思った。私と先生は興味関心事も似通っていて、話してても楽しくてしょうがなかった。先生は私に合わせて宝塚のことも調べて話も合わせてくれるけれど、私たちはきっと、そもそも一緒にいるだけで楽しいので、共通言語なんてなくてもよかったのだと思う。二人で一緒にいること、同じ時間を共有しているだけで愛おしかった。ふと気づいたけど、私が辻調に入学したのって、きっと先生に無意識に呼ばれていたんだなあと思う。私たちは必然的に出会いたかったんだなあって。先生に会いに行った日はいつもどういう訳か涙が出ます。会えると嬉しいのかなんか知らんけど自然と涙が出てきてしまいます。私たちの関係性をひと言で表すなら、やはり“親友”というのが一番しっくりくるのでしょうか。今までも、そしてこれからも。人間って先のことは誰にも分からないけれど、先生とはこれから先もずっとずっと“親友”でお互いを想い合う関係性でいられることだけはなぜか自信を持って言えます。きっと生まれ変わっても私と先生は出会って仲良くしてると思うから。
自分からやりたいと名乗り出ておいて、こんなこと言うのはちゃんちゃらおかしい話だということは重々承知なのだが、舞台に出たいけど、稽古に行きたいけれど、行きたくないなあ、降板したいなあと、途中で投げ出したくなることが多々ある。何時ぞや『徹子の部屋』を見ていたら、ゲストに神木隆之介くんが出ていて、徹子さんに「あなた役者を辞めようと悩んでいた時期があるの?」と訊かれ、「ドラマや映画に出させてもらうのは、いろんな人の人生を背負っていることでもあるんだなって。強くプレッシャーに感じていた。」と語っていた。僭越ながら、うわあああああああああああああああああめっちゃわかるわあああああああああああああああと思いながら聞いていた。舞台もそうなのだが、自分以外にも沢山役者さんが出演されるし、そもそも舞台というのは役者だけで成り立つものではない。演出家さん、脚本家さん、音響さん、照明さん・・・もうね、挙げたらきりがないほど大勢の人が関わってくださって公演というものが成立する。役者というのはついつい自分たちだけで公演を作っている気になりがちだから、それを常に念頭に置かなければならないなあと思う。でも、いろんな人が関わっているからこそ、その人たち一人ひとりの人生に関わっているんだなあと思うと、みんなに迷惑かけられないなあと思うし、それがすごくプレッシャーに感じるし、名乗り出た以上は、やっぱり辞めますとも言えないし、でもめっちゃプレッシャーに感じるし・・・っていうネガティブなループにハマってしまう。話は変わって、『徹子の部屋』といえば、私は10代の頃から「窓ぎわのトットちゃん」が大好きで、黒柳徹子さんも大好きなのである。「窓ぎわのトットちゃん」のおかげで、表紙絵、挿絵に使用されている画家・いわさきちひろさんの存在を知り、こちらもファンになった。何年か前京都でいわさきちひろさんの展覧会が開催されていたので観に行った。去年「窓ぎわのトットちゃん」が映画化されたので勿論観に行った。泣いた。10代の時に読んだ時と、大人になってから観るのと、自分の感じ方も違っていて楽しかった。そして、「続 窓ぎわのトットちゃん」も発売され、迷わず買ったのだが、これもまた読んでいて面白かった。徹子さんは現在の東京音楽大学を卒業後、NHK専属のテレビ女優第一号になるわけだが、僭越ながら私も大阪芸術大学の通信教育部で学んでいた時があったり、今は役者の芸能事務所に所属しているので自分自身の経歴と重なることも多かった。徹子さんが音楽大学在学中に見えていた世界、感じていたこと、NHK専属のテレビ女優になってから見えていた世界、感じていたこと、本当に同じようなことを徹子さんも私も感じていた部分があった。以下、「続 窓ぎわのトットちゃん」より。一部抜粋。“トットよりもずっと歌の上手な先輩たちですら、オペラ歌手として活躍できないまま、結婚したり、音楽の先生になったり、音楽関係の会社にお勤めしたりしていた。世の中のきびしい現実を見る思いがした。”“いろんな話を聞くにつけ、トットもどこかで修業をする時間が必要なのではと思うようになっていた。見る人が見たら、トットのことを、もの足りないと思うだろう。いつまで経ってもお嬢さんみたいな芝居で、まずはそれをなんとかしなければならない。(中略)「コンプレックスを克服して、女優としての武器を身につけたい」トットは強くそう思った。”あの黒柳徹子さんですら、自分の演技で悩んでいた頃があったなんて…あれだけ毎日テレビに出ている人でも悩んでいたものなのだなあと嬉しいような意外なような、そんな気持ちであった。と同時に、悩んでいるのは自分だけじゃないんだ、とも思えた。…冒頭の話に戻って、ちょうど先日から稽古が始まったばかりで、これからまた公演に向けて進んでいく訳だが、稽古が始まるまでは自分が周囲の足を引っ張るのではないかとか、憂鬱で憂鬱で仕方がないのだが、いざ稽古場に向かい、役者の皆さんと顔を合わせると、ああ、来てよかったなあと思う。私は、役者をやっている人たちが好きなんだなあと思う。役者さんたちと関わっていられることが好きなんだなあと思う。役者さんたちが憧れ。そう思う。さくらももこのエッセイ「ひとりずもう」の一節にこんなのがある。“私は、漫画家になりたい。小さい頃からそう思っていたのだ。絵も好きだし、文章も好きだ。それ以外の事は全部苦手だ。そんな事、最初っからわかっていたのに、私は何を迷っていたんだろう。”私もさくらももこ先生同様、何を迷っていたんだろう。
先日、とある劇団さんからお声掛けいただき、今度上演する公演の客演として出演しないかとX(旧Twitter)のDMで誘っていただきました。 芸能事務所に所属して、事務所内の公演にも出演して、事務所内の演技レッスンも継続していて、それでも勉強不足というか、まだまだ自分は役者として足りてへんところが多いなあと実感するので、日本舞踊のレッスンも始めて、声楽レッスンは昔からずっとやっていますが、それでも役者って、自分じゃない他人を演じるのって容易じゃないし、難しい、厳しい世界だなあと、同じ事務所の先輩方を見ていても思います。X(旧Twitter)は役者用のアカウントなので、本名名義で運用していますが、自分よりも先に演劇を始めた先輩方のポスト(ツイート)がタイムラインに頻繁に流れてくるのですが、芝居歴の長い先輩たちですらずっと演技のことで悩んではるし、自分が役者としてもう充分満足だなんて思ってらっしゃる方なんていないです。ずっと成長していきたい、芝居に終わりなんてないって、止まることがありません。私は高校生の時に放送演劇部に入って、最初やりたかった放送よりも演劇のほうがなんか向いてるよ言われたし実際やってておもろいやんと思ってなんか調子に乗ってなんやかんや(←なんやかんやてなんやねん)で今現在に至るのですが、まあ、事務所に入ってから、高校演劇(素人演劇)とプロの演劇の違い、プロとしてやっていくことの厳しさをひしひしと痛感します。私は演劇がやりたくて、演劇が楽しいから、演劇をやめたくないからずっとなんとか続けていますが、演技レッスンやってても、『自分ってホンマは役者向いてへんのやろなぁ…』とか、悩んだり、弱気になったりすることも多いです。絶対に演劇をやめることだけはしたくないけれど、でも、やめたくないけど、『自分みたいな人間が演劇続けててもいいんかな…』って悩んだり自信が無かったりすることが多いです。自分が心の中であれこれと悩んでいること、人さまに言いづらいこと、心に移りゆくよしなし事を(←いや、徒然草ちゃうねんから)、『この人にならなんでか知らんけど何でも言えるわー』っていう人がいます。私には、いる。間違いなく、いる。ちびまる子ちゃんの親友・たまちゃんのような存在の人が、いるんです。私が過去に書いたブログにもちょくちょく出て来る人です。以下↓『鏡みたいな人。』 辻調卒業後も定期的に喋ってる先生で、なんか知らんけどこの先生と喋っているといつも私の脳裏に浮かんでくる詩があるんです。☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆…ameblo.jp『聞き上手な先生。異分野の方とのお話し。新たな気付き。』 この前、お休みの日に辻調のとある先生に会いに行ったんです。キャリアセンターの先生なのですが、カウンセラーの先生と喋っているのかなと思うぐらいとっても聞き上…ameblo.jp『2020/06/11 フランス絵画の精華 -大阪市立美術館-』 コロナの影響で延期になっていた「フランス絵画の精華」へ行ってきました。平日だったからなのか、人も少なくて、一つ一つの作品にじっくりと向き合うことができまし…ameblo.jp自分で思ってた以上にブログに綴っていた。卒業してからもずっと定期的に連絡してるけど、本当にこの先生とは気が合う。なんでか知らんけど、本当に気が合うのだ。あまりにも気が合いすぎてもう一人自分がいてるんかと思うぐらい。私が卒業した辻調理師専門学校のキャリアセンターの先生で、私は卒業してからというもの、全然飲食業界とは畑違いのことばっかりやっているし、お互いに違う世界線で普段は生きているはずなのに、いざ話し始めると本当に気が合うなあと思う。元々、音楽とか舞台とか、私と共通の興味関心事はあって、ベースとなるものは似ているんだと思う。私が、宝塚が好きで、演技とか声楽の勉強になるからちょくちょく観に行ってるという話をしただけで私に合わせて宝塚のことを調べてくれて、話を合わせてくれた。しかも先生、宝塚のDVDとかCDも買ったとか言って、意せずして先生まで宝塚ファンになった。それから、何組の誰がいいよね、このジェンヌさん素敵だよねって共通言語も生まれた。傍から見たら、この二人何がそんなに気が合って楽しくてこんなに話してるんだろうと不思議でならないと思う。家族や恋人みたいに四六時中一緒にいる訳でもないのに、こんなにちょっとの時間で、お互いに意気投合して、お互いに何か言わなくても何かあったのかなとか、異変があればすぐに気が付いて、察して、下手すりゃ家族以上にお互いのことよく分かっているなんて。親にもなかなか言えないような、他の誰にも言えないことが、先生には言えることもあるし。それこそ、『私って役者向いてないと思う』とか、弱音も先生になら吐露できた。私と先生の独自のノリというものが完全に確立していた。私と先生は親子でもおかしくないくらいの年の差である。なんか一般的に“親友”と言うと、同い年とか同学年のイメージだが、これだけ年齢が離れていても気が合う人は合うし、合わない人は合わないものである。…いや、“友だち”だとか“親友”だとかいう型に嵌められた言葉にカテゴライズされるのはどうも嫌だ。というか、なんか違う。そんな生ぬるい言葉に収まるような関係性ではないと思う。“友だち”だとか“親友”だとかいう言葉って、非常に苦手だ。何時ぞやテレビで私の好きな美輪明宏さんが言っていたのを聞いて物凄く腑に落ちた。「よく、本当の友だちがいない、できないと嘆く人がいるが、そもそも本当の友だちというのは、一生のうちに一人、できるかできないか。そして、友だちがいないできないと嘆く人の大半は、自分にとって都合のいい相手、自分のわがままを聞いてくれる都合のいい相手を求めている。要するに自分本意。本来、親友というのは《迷惑をかけられない相手》。つまり相手本意。友だちを増やすというのは、相手の悩み、苦しみ、トラブルも増やすということ。」美輪さんの言葉で、どうして自分が“友だち”だとか“親友”だとかいう言葉に苦手意識が芽生えるのかが分かった。大抵の人は自分中心にしか“友だち”のことを思っていないからである。なんか、そういう言葉には分類されたくない。私と先生の関係性って、何て言えばいいんだろうなあ…と漠然と考えていた時に、さくらももこのエッセイ、『ひとりずもう』を読んだ。ドハマりして、エッセイ(活字)版とコミックス(漫画)版とあるのだが、両方買ってしまった。さくらももこ先生の中学高校時代が描かれていて、如何にも思春期らしい悩みから、漫画家を目指して、紆余曲折しながらも夢が叶ってデビューするまでの道のりが、ジャンルは違えど自分も夢に向かって頑張る姿が共感できて、泣けてきて、さくらももこ先生に勝手に応援してもらった気分になれます。(ものすごく勝手である。)漫画版『ひとりずもう』の中で、まるちゃんの大の仲良しで親友のたまちゃんも登場します。高校生のまるちゃんとたまちゃんは、最初は一緒に同じ短大に進学しようねと言っていたけれど、たまちゃんはアメリカに留学したい夢をまるちゃんに告げ、まるちゃんは漫画家になりたい夢をたまちゃんに告げます。たまちゃんは言います、「ももちゃんはきっと漫画を描き始めると思ってたよ。それぐらい言わなくても分かるよ。だって親友なんだもん。」別の日、たまちゃんがまるちゃんに言います。「私も昔、ちょっとだけ漫画家になりたかったんだよ」と。「なりたかったっていうか、憧れてただけだけど…だから、ももちゃんにあの頃の夢を託すよ。すごく楽しみにしてるからね。」数か月前に学校に訪れて先生と話した時に、先生に言われたこと。(辻調って、宝塚もきっとそういう雰囲気あると思うんですが、卒業してもずっと生徒というか、卒業してもいつでも来訪していい、しやすい雰囲気の学校です。)先生も、実は昔、音響とか、舞台の裏方さんに興味があって、やってみたかった時期があったらしい。そう打ち明けてくれた。でも、先生は親に反対されて、反対を押し切ってまでやり抜く勇気がなくて、できなかったらしい。私は、親に反対されようが誰に文句を言われようが、私の人生は私しか責任を取れないんだから、めげずに今までやってきたけれど、自分が当たり前だと思ってやってきたことが、そうじゃない、できない人もいるんだなと。先生からしたら、私が羨ましいと思ってはるみたいです。先生ができひんかった、チャレンジできひんかった世界に私はいてるらしいです。裏方と表と、ちょっとちゃうけど。そんなやり取りがあって、私にとっての『たまちゃん』は先生なのです。まるちゃんにとってもたまちゃんにとっても、お互いがかけがえのない存在であるように。
はっきり言って新海誠監督作品はずっと食わず嫌いでした。大ヒットした「君の名は。」の時も、『いや、身体が入れ替わる話って、なんかドラマでもあった話やん、あるあるネタやん。』と、二番煎じにしか思えず、わざわざ観る気がしなかった。というか、私の場合、世間がこぞって「これええでこれええでこれめっちゃええで!!」と、もてはやされるものが大概苦手である。『いや、世間がヨイショしてんねやったら、わざわざ私がヨイショせんでもどうせみんなが勝手にヨイショするやん。』と思って、別にさして熱は入らない。私はモーニング娘。とかHello! Project全般が長年好きだが、ハロプロの場合は、それこそ後藤真希とかミニモニ。とかの全盛期の時から考えると世間の認知度はどうしても低いので、『私が応援せえへんかったら誰が応援すんねん!!!』みたいな謎の熱が入って俄然やる気が出る。『モーニング娘。とか、℃-uteとか、Berryz工房とか、マスメディアとか大衆が見向きもしてへんであろうこの子たちの良さを、私は知ってる、見てるねん』っていう謎の優越感みたいなものに駆られることがある。まあ端的に言えばアホやんな、自分。そんな余談はいいとして、ずっと食わず嫌いで観る気がしなかった新海誠監督作品。今回の最新作「すずめの戸締り」も、勿論観に行く気はさらさら無かった。無かったけれども、なんか今回の「すずめの戸締り」は私の地元愛媛が作中に出てくるらしい。寝耳に水である。え、何それそんなん観に行かんとあかんやつやん。というわけで、食わず嫌いの監督作品に手を付ける日がついにやってまいりました。新海誠って聞くと、なんか知らんけど抵抗あるけど、地元愛媛が取り上げられてるんやったらこれはもう腹を括って観に行くしかない。映画館のフルスクリーンで地元の風景が堪能できるのである。これはもう行くしかない。そんなわけで。言うなれば、ピーマンを食わず嫌いしている子どもが、頑張って意を決してピーマンを食べるという奮闘記みたいなもんです。食わずに嫌い嫌い言うより、どうせならちゃんと食ってから嫌い嫌い言おう。そんな私の奮闘記です。(どんな奮闘記やねん)実際に観終わった率直な感想としては、『もっと最初は苦手意識ガンガン出てくると思ってたけど、実際観てみたらそうでもなかった。』ピーマンってもっと苦くて食えたもんじゃないと思ってたら以外とそうでもなかった。みたいな。でもここれから給食とかに出てきたら食べれるには食べれるけど、自分から進んでピーマンの肉詰めとか、青椒肉絲とか、手料理してまで食べたい食材ではないかな。という感じ。まあでも新海誠監督の作品制作にあたっての核となるものはしっかりと見えたと私は感じている。これについて言及しようとすると、どうせまた以前のブログ、映画「さかなのこ」の感想ブログ並みに長文になってしまうので、一旦この辺でお開きにします。続く。おあとがよろしくない。
ずっと疑問なのである。なぜ「お菓子をくれないといたずらされる」のか。こんな理不尽極まりないことが他にあるだろうか。私はキリスト教もカトリックも信仰していない、所謂無宗教で、ハロウィンの意味も調べてはみたものの、いまいち理解できずにいる。それにしたって、たまたま家にお菓子が置いていないからといっていたずらされるのは理不尽極まりないように思うのは私だけなのだろうか。「いや、お菓子貰われへんねやったら黙って帰れよ」と私は思ってしまう。なんか、調べると、お菓子を渡すのは所謂“魔除け”の意味があるだとかなんとか。ならば別に「お菓子くれなきゃいたずらするぞ!」じゃなくても、私だったら寧ろ「お菓子作ったんでよければどうぞ!あ、別に私が勝手に作ったやつだからお返しとかそんなん要らないです!」とか言って自分から配りに行きたい。もし自分がハロウィンをやるのであればそうしたい。それじゃああかんのか。かえってそっちのほうが迷惑なのだろうか。「そうか、家にお菓子ないのか、だったらこれ食べなよ!」ぐらいの要らんお節介焼き加減があってもいいんじゃないか。やっぱりあかんのか。そもそも、なぜ私がこんなにも「お菓子くれなきゃいたずらするぞ!」という言葉にやたら違和感を覚えるのかというと、この「お菓子くれなきゃいたずらするぞ!」という言葉、うっかりすると『お菓子くれなかったら、自分の思い通りにならかったら相手に危害を加えても何ら構わない』と解釈されかねない危険性を含んだこの言葉が私はどうも苦手で苦手でしょうがないのである。もっと違う言い回しはないのだろうか。私の考え過ぎだろうか。どうも私は、毎年毎年この時期になると、この言葉に違和感を覚えてしまう。「別に意味なんか考えずに楽しんだらええやん」そう思う人も多いだろう。でも、本来のハロウィンのルーツや意味も考えずにただただハロウィンに便乗して盛り上がりたいだけの群衆が騒ぎまくった結果があの事故ではないのか。純粋なキリスト教徒の人たちからすれば、あの、ただただなんでもいいからとにかく理由を付けて騒ぎたいだけのイベントは、冒涜以外の何ものでもないと思う。こんなことを考えている私の頭のほうがよっぽどおかしいのだろうか、とつくづく疑問に思う。【師の芋に服さぬ弟子の南瓜かな】平川 へき(明治・大正期の俳人)
世界から取り残されている感覚がする。周囲は広い海に出て自由に泳いでいるように見えるのに、かたや私はというと、いつまで経ってもちっちゃな金魚鉢の中で、狭い水槽の中でしか泳げていないような気がする。例えばレッスンが終わって仲間と別れてひとりになった帰り道。天王寺駅とか大量の人混みの中でひとり泣きそうになることが多々ある。道をすれ違う見ず知らずの人たちは、きちんと自分の人生を全うして日々を生きているように見えて、それに引き換え私は何でこうも何も変わらないのだろうと悲しくなる。それこそ生きてて意味あるんだろうかとまで思う。前回あれだけ長々と語った映画「さかなのこ」の感想続編です。どんだけこの映画にハマってんねんアホちゃうかという感じではありますが、(実際アホなんで許してください)まだ語りきれていない部分を語ろうと思います。さかなクンのモデルであるミー坊は、大人になっても幼少期と変わらず、ずっとおさかなさんが大好きで寝ても覚めてもおさかなさんが大好きなことに何ら変わりはありません。そんなミー坊を見て、ミー坊の幼馴染みたちは口々にこう言います。「お前ホント変わんねえな。」「相変わらず魚が好きなんだな。」そう言う幼馴染みたちがミー坊を見つめる眼差しは、けっしてミー坊をことを馬鹿にしたり見下している訳ではなく、幼少期からずっと変わらずにおさかなさんが大好きでい続けるミー坊を尊敬というか、慈愛のような眼差しで見つめていました。私もこのシーンはとても自分の経験とシンクロしていました。私は、ずっと舞台が、演劇が大好きで、ずっとそればかりを追いかけてきているけど、時として、それがコンプレックスに、負い目に感じることがある。私の地元は田舎なので昔の同級生たちは比較的結婚も早い。私みたいに、今年27歳にもなって独身で、こんなに舞台舞台舞台演劇演劇演劇声楽声楽声楽と四六時中舞台関係のことばっかり考えているのって、マイノリティだと思う。今師事している作曲家先生に習う前、ピアニストをしているピアノの先生にピアノは習っていた。その先生もよく言っていた。「音楽の勉強に終わりはないからね。」本当にそう思います。芸事に終わりなんてない。だからこそ、今でもずっとレッスンは続けている。ただ、ふとした瞬間、周りを見渡した時。そりゃあ、同じ役者仲間とか、同じ作曲家先生の他の教え子さんたちは、ずっと学びは辞めずに常に芸事に精進し、切磋琢磨している。でも、同じ世界にいない、所謂外の世界の人たちを見渡すと、大人になって、社会人になってもずっと芸事に精進してる人なんてそうそういない。恐らく世の中の大半の人が習い事なんて小学校卒業までぐらいで終わってるんじゃなかろうか。同じ芸事という水槽の中で泳いでいる間はまだいい、いざ外の世界、海に飛び出した時に、自分が泳いでいる水槽と、世間一般の人が泳いでいる海があまりにも違い過ぎて、幼少期から何も変わらずに一途に舞台舞台舞台演劇演劇演劇声楽声楽声楽と四六時中舞台関係のことばっかり考えている自分がダメ人間のように思えて泣けてくる。私が金魚鉢で楽しく遊んでいる間に昔の同級生たちは大きな海でのびのびと自由に泳いでいた。それこそ、太宰治の『人間失格』の一節、“自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安” まさにそれでした。正しく、その不安のために悩んだり、不安になったり、泣いたりを繰り返していました。“自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。” なんやねんこれ大庭葉蔵と全く一緒やないか自分。そんな私なので、ミー坊を囲む幼馴染みたちの優しい眼差しはとても心に沁みました。思えば私もミー坊と同じようなことを言われました。「よつばちゃんは本当に音楽が、演劇が、舞台が好きなんだね。」今の芸能事務所の社長さんにも公演が終わった後に言われました。「よつばちゃんは本当に演劇が好きな感じがする。舞台に立つ姿を観ていて思う。」と。スクリーンに映るミー坊を観ながら思いました。水族館の水槽越しにタコを見つめながら「タコさんって可愛いねえ~!」と話すミー坊。カブトガニを見ながら「カブちゃんと散歩していいですか!」と嬉々として話すミー坊。自分で作った魚の剥製たちに囲まれながらお昼寝をするミー坊。全部私なんだ、私自身のことをスクリーン越しに観ているのだと。私はずっと、昔の同級生たちと違って小さな金魚鉢で泳いでいると思っていました。映画「さかなのこ」を観て、ミー坊を取り囲む周りの人たちの温かさに触れ、私自身も、私の周りの人たちは、私のことを、広い海でのびのびと泳ぐさかなのこのように見てくれているのかなと、この映画を通して思いました。変わらないって、ずっと悪いことのように思っていたけど、(勿論時と状況によっては変わらないといけない場合もあるが)映画「さかなのこ」を観ていたら、ミー坊やさかなクンのように、ずっと好きでい続けられることもある意味才能なんだなって気付いた日。これからも何があっても舞台を、演劇を諦めないぞ。2017年に京都水族館に行ったときのやつです。鰯の群れがばり凄い。大阪在住ですが、海遊館よりも京都水族館のほうがなんか好きです。
キラキラ輝く水面。あれがスポットライト。照明。水槽の中はエンターテイメント。多種多様な魚が各々泳いでいる。大きさも姿かたちも泳ぐ速さも違う。役者みたいだ。みんな個性がある。水槽越しに眺めている観客たちは、好きな特定の魚だけを見るもよし、全体を見渡すもよし、好きなように見ればいい。いろんな見方ができる。それが楽しい。そうか、水族館も、劇場も、同じなのだ。舞台が好きです。演劇が好きです。演劇自体も好きだし、今の芸能事務所の先輩役者さんたち。演劇に関わっている人たち。舞台に関わること、舞台芸術全般が好きです。水中が濁って周りが何も見渡せない時がある。劇場や稽古場から離れている時間。舞台以外のことを考えないといけない時間。もしも自分から今の環境が取り上げられたらどうなるだろう。演劇してなかったら人生がつまらなくなりそうで怖い。それこそ何の為に生きているのか分からなくなる。演劇に、舞台に関わっていない自分が想像できない、というか想像したくない。逆に言えば、それだけ演劇に出会えてよかったと思う。なんだかんだで私は人が好きなんだと思います。世の中冷たい人もいるけれど、いい人だっている。私は後者とたくさん関わっていきたい。尊敬できる人が幸い私の周りには多いから、彼ら彼女らのように私もなりたい。そんなわけで変態確定レベルで10歳から虜になり熱中し続けてきた舞台という総合芸術。寝ても覚めても好きです。きっとこれがないと生きていけません。そんな私が観たのが映画「さかなのこ」。おさかなさんが好きで好きで一途にずっとおさかなさんが大好きなさかなクンの半生を綴った映画です。映画を観ながら、魚と舞台芸術と、興味の対象が違うだけで、さかなクンも私も同じなのだと思いました。ミー坊(さかなクン)は子どもの頃からおさかなさんが大好きで、寝ても覚めてもおさかなさんのことばかりを考えて生きてきました。『お前、魚に「さん」付けするのかよ。』と幼馴染みからも変人扱い。父親は『小学生が、毎日魚のことばっかり考えているのは普通じゃない。周りの子と違う。』と言い、担任の先生からも三者面談の時に『おさかなが大好きなのは分かるけど、もうちょっと勉強を頑張って欲しい。あとで困るのは本人だ。』と言われる。ミー坊自身も周囲の言葉など大して気にも留めず、大好きなおさかなさんのことに情熱を注いでいるのだけれども、何よりもミー坊の母親がミー坊の味方。「成績がいい子もいれば、悪い子もいる」「あの子はあの子のままでいい」「あの子はおさかなが好きなんです。だからそれでいいんです。」と言い放つその姿は、まるで太宰治の『ヴィヨンの妻』に出てくる大谷の奥さん・さっちゃんの台詞、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」に相通ずるものがある。映画の終盤で「ミー坊、私ホントはね、魚が苦手なの…」と、大人になったミー坊に打ち明けるシーンがあるが、ミー坊のおさかな好きに付き合うために、ミー坊がタコに興味を示している時は毎晩のようにタコ料理を食卓に並べ、毎週末水族館に連れて行き、自分の魚嫌いを隠し、ミー坊の大好きなおさかなさんにとことん付き合い、大人になったミー坊に「お父さんたちにも無理させてしまった。でも、ミー坊がおさかなさんがずっと大好きでいてくれて、よかった」と涙する。この映画は、自分の経験とシンクロするシーンが多い。高校生になったミー坊に、ヤンキーな同級生が「お前何でそんなに魚が好きなんだ?」と訊く。ミー坊は「だってカッコイイから!おさかなさんにはいろんな種類や顔がある。」と言う。「人間みたいに会話できないじゃないか」と指摘されるが、ミー坊は「時々、おさかなさんの気持ちが分かる時があるよ。」と返す。私も芸能事務所のレッスンの時、同じ新人の所属俳優さんに「テレビドラマとか映像芝居ならもし台詞間違えとか失敗したとしてもカットして撮り直しができるからまだいいけど、舞台とか公演って、目の前にお客さんが沢山いて失敗ができないところが怖い」と言われたのですが「私は高校演劇部時代に約1,000人の観客の前で思いっ切り台詞間違えしたけど、その時同級生の部員がアドリブで即座に台詞を入れてくれて、そのお陰でドっと観客にウケたから、怪我の功名みたいになったし、私は舞台演劇はもしかしたら失敗するかもしれない、何が起こるか分からないっていうドキドキワクワク感も含めて舞台演劇が好きですよ」と返しました。大人になったミー坊。幼馴染みのヒヨが自分の交際相手をミー坊に紹介したくて高級レストランで3人でディナー。初対面のヒヨの交際相手から「お仕事は何を?」と訊かれ、ミー坊は初対面であろうが堂々と「今はまだペットショップのアルバイトをしています。いつか、お魚博士になりたいと思っています。」と宣言。私も芸能アカデミーでレッスンしていた頃、よく同じレッスン生や講師の前で「憧れの人は美輪明宏さん。実際に生でコンサートを聴きに行ってボロ泣きする程感動したので美輪明宏さんみたいなカッコイイ素晴らしい人になりたい」と初対面だろうがお構いなしによく美輪明宏さんの話をしていました。ミー坊の幼馴染みで今はシングルマザーのモモコ。幼い娘を連れて行き場を無くし、一時的にミー坊の一人暮らしのアパートに転がり込む。ある日3人で海水浴に行く。モモコの娘は波打ち際で遊んでいる。老夫婦が通りかかりミー坊とモモコに「ご家族でいいですね。可愛い盛りですね」と微笑ましく通り過ぎる。モモコは「ごめんね。ミー坊とおさかなさんとの生活に割り込んできて。私たち、普通じゃないよね。」と謝る。それに対してミー坊は「普通って何?ミー坊よく分からない。」とあっけらかんと返す。ミー坊みたいに、あっけらかんとできれば、どんなにいいだろうと思いました。基本的にミー坊と私はシンクロする部分が多いのですが、ミー坊はどれだけ周囲から「あの子は普通じゃない」とかいろいろ言われても、ミー坊は一切怯むことがない。ミー坊の目に映るのは常におさかなさんのこと。さくらももこ先生の『コジコジ』と似ています。周囲から何を言われても気にしない。「コジコジだよ コジコジは生まれた時からずーっと 将来もコジコジはコジコジだよ」コジコジみたいになりたい、ミー坊みたいになりたい。強く生きて行きたい。私自身、「好きなことがあるって、熱中できるものがあるっていいね」と、周囲から言ってくれることもありますが、好きと変人って紙一重みたいなところがあって、私もミー坊みたいに「あの子変わってる」って言われて嫌な思いをしたことも多々あります。「趣味が無くて、熱中できるものが無くて、それが悩みなんです」みたいな話も聞きますが、私からすれば、熱中できるものが無いのであれば、それがあることによって生じる悩みが無いので、好きなものとか、ぶっちゃけ無くてもええんちゃうん?とか思うこともあって。とくに趣味も無くて平凡に生きてる人のほうが私なんかよりもずっと幸せに見えたりなんかして。こうやって映画「さかなのこ」と自分の実体験を逐一シンクロさせてスクリーンを観ていたので、ずっと私の心に沁みっぱなしで涙腺も緩みっぱなしでした。こんなにボロボロ泣いている私は完全にアホだと思います。この映画、モデルであるさかなクン本人も「ギョギョおじさん」という、謎の人物役で出演しています。ミー坊と同じ町内で暮らす魚の知識豊富なおじさんですが、近所の人たちからは水槽を沢山家に置いてある不気味なおじさんとして認知されています。ミー坊はそんなギョギョおじさんと仲良くなり、ギョギョおじさんはお魚博士なのかと訊くと「今は無職。勉強できなかったので、お魚博士になれなかった」と嘆く。同じ無類のお魚好きにも拘わらず、ミー坊の周りには理解者が沢山いて、ギョギョおじさんの周りには理解者が居らず変人扱い、夢も叶わず。なんか安っぽい夢だけ応援する無責任な押し売り映画ではなく、陰と陽みたいな、好きなことを追いかけるのは楽しい道ばかりじゃないんだよっていうのをさり気なく示してくれている存在にギョギョおじさんは居るような気がした。ギョギョおじさんが叶えられなかったお魚博士という夢を、ミー坊は叶えます。映画の終盤、ミー坊がお魚博士としてテレビ番組に初出演し、「小さい頃からお魚さんが大好きで、気が付いたらこの場所にいました。好きに勝るものなしでギョざいます。これからもお魚さんと一緒です。」とカメラの前で生き生きと話すミー坊の姿。ミー坊はおさかなが好き。私は舞台芸術、演劇が好き。ミー坊の「好きに勝るものなしでギョざいます。」の一言に、なんか勝手にミー坊やさかなクンに応援されているような気がして(そんなことはない)涙が止まらなかった。「さかなのこ」は人を選ぶ映画だと思います。たとえ全米が泣かなくても、アホちゃうかというぐらい私はボロボロ泣きましたし(きっと間違いなくアホです)、何度も何度もこの映画のシーン一つ一つが私の心に響きました。暫くはひとりで「さかなのこ」の余韻に浸っていたい。
記憶に残ってる学校の先生はいい意味でも悪い意味でも大勢いますが、今回は中学2・3年の時の数学の先生(女性)。その先生、新川和江さん作詞の合唱曲、「名づけられた葉」に対してかなり愛着があるのか朝出勤して来る時でも休み時間に廊下を歩いている時でも授業中でも所構わず「名づけられた葉」を口ずさんでいました。授業中、生徒が解いた数学の公式を順番に見ていきながら、ある時は「犬のおまわりさん」だったり、またある時は「名づけられた葉」だったり、何かしらの歌を口ずさみながら生徒の問題の添削をしていく先生でした。個性が爆発している。私も先生も朝学校に来るのが早くて、朝、まだ先生も生徒もほとんど登校してきていない朝の静かな校舎内で先生がひとり、『♪わた~しは~ 呼ば~れる~ わた~しは~ 呼ば~れる~』と先生の歌声が聴こえてくるので、「あ、先生が来たんだな」とわかります。個性が爆発している。歌詞一部抜粋↓↓“わたしも一枚の葉にすぎないけれどあつい血の樹液をもつにんげんの歴史の幹から分かれた小枝に不安げにしがみついたおさない葉っぱにすぎないけれどわたしは呼ばれるわたしは呼ばれるわたしだけの名で朝に夕に”当時、朝日新聞で毎週日曜日だったか、「あたしンち」の連載をしていて、それを週明けの月曜日にいつも先生が新聞を持ってきてくれるので、いつも一緒に「あたしンち」の連載を読む仲でもありました。そんだけ「名づけられた葉」がやたらと好きな先生なので、自分の担任クラスの文化祭の合唱曲も「名づけられた葉」にするぐらいでした。(私はその先生は担任にはなったこと無いですが。)なぜそんなにも「名づけられた葉」に愛情を注ぐのか、とくに理由は聞かなかったので理由は未だ謎のままです。その先生の人生でいったい何があって、あんなにも新川和江さんの「名づけられた葉」にこだわりを持っているのかは計り知れないですが、私にとってはこの「名づけられた葉」の歌詞は、大人になってからのほうが響いてくるというか、好きな歌詞です。“だからわたし 考えなければならない誰のまねでもない葉脈の走らせ方を 刻みのいれ方をせいいっぱい緑をかがやかせてうつくしく散る法を名づけられた葉なのだから考えなければならないどんなに風がつよくとも”この土日はずっと事務所の演技レッスンだったり、個人的に習っている作曲家先生の下での和声学・声楽レッスンだったり、とても充実した土日でした。演技レッスンでもそうですが、それこそ「名づけられた葉」の歌詞にあるように誰のまねでもない、葉脈の走らせ方を 刻みのいれ方を演劇では考えなければなりません。それこそ名づけられた葉なのだから考えなければならないのです。わたしは呼ばれるわたしは呼ばれるあの数学の先生はいったい誰に呼ばれていたというのか。今となっては(いや、当時も) 知らんがな(´・ω・`) です。昔に長居植物園で撮った写真。
同じ芸能事務所に所属している役者仲間の出演している公演を観劇。もともと劇団東京乾電池さんが上演された戯曲を取り扱うとのことで、もし自分が演じる立場になったら難しいだろうなあと思うシーンが多々。ストーリーはとある高校演劇部のお話。部員や先生たちのやり取り、部員一人ひとりの感情の動きが如何にも10代特有で、もう大人になってくるとこういうことでは悩まなくなったり考えなくなるよなあというような繊細な部分を感じる。そしてそれを演じられるのも10代とか20代前半ぐらいまでの、ある意味今しかできない特権だろうなあとも思う。自分も高校時代、放送演劇部にいたこともあり、(チェーホフの『三人姉妹』をやるるような、そこまで本格的な戯曲はうちの部活ではしていないが)演劇部ならではのことはすごく分かるし、懐古するところも多くて。そして何よりも演じてる、舞台に立つ役者さんたちを観ていると、やっぱりエネルギーを貰うしとてもいい刺激になる。客席には私以外にも同じ事務所所属の役者仲間も何人か来ていました。先輩役者の観劇の感想を聞くと、ベテランの意見が聞けてとても勉強になります。てか、演劇していて常々思いますが、尊敬できる役者仲間、先輩方がすっごく多い。本当に。そして、そんなエネルギッシュな公演を観た翌日の声楽レッスンはとても気合いが入ります。今師事している先生が作曲家先生なので、自分が歌う曲の和声分析をしながら歌ったり、ピアノを弾いたりしています。非和声音ムズい。先生にあれこれご教授いただきながら。
今年で77年目を迎えた長崎原爆の日。その長崎で被爆者でもある美輪明宏さんがいつの頃からかはっきりとは覚えていないけど、(たぶん小学校高学年か、中学生ぐらい。)ずっと好きで、目標の人です。よく、周囲から『憧れの人、尊敬する人は?』と聞かれたら、「美輪明宏さんです!」と答えます。きっと、私があまりに美輪さん美輪さんうるさいので『この子また美輪さんの話…』と思われていても不思議じゃない。まあでもこれからも美輪さんの話をしていくのでどうかよろしくお願いしたいところではあります。(自重する気はないという)美輪さんが好き過ぎて憧れ過ぎるので、よく声楽でも演劇でも本番前日や本番前には美輪さんの歌声を聴いてパワーを貰っています。そしたら本番前日に美輪さんが夢に出てきてくださって、なんか勝手に美輪さんが自分のことを応援してくれてるかのような気になってめっちゃ頑張れました。(頭おかしいにも程がある)美輪さんのお陰でいろいろオーディションもチャレンジして、今の芸能事務所に所属できたり、占いのお仕事もやってみようということで占い師のお仕事をやり始めるきっかけになったのも、全部元をたどれば美輪さんに憧れまくったお陰です。そんな、私が頭おかしいやろレベルで好きな美輪明宏さんの番組で、「美輪明宏 愛のモヤモヤ相談室」というEテレの番組。一般視聴者の悩みを美輪さんが聞いてくださるというたいへん有り難い番組。けっこう前の放送回だが、20代の相談者さんに美輪さんが伝えた言葉。『自信を持つにはどうしたらいいと思いますか?財産を増やすことです。お金じゃありませんよ。知的財産を増やすこと。いろんな種類、ジャンルの文化を食べること。食べていって、自分の身にしていけばいい。自分に役立てばいい。自分を救えない人が他人を救えない。』なんか、たまたまこの放送を見たのが自分の人生がこれでいいのか自信が無くて、周囲と比べて自分はなんてつまらない人生送ってるんだろうとそれこそモヤモヤしていた時で(今でも私の人生なんて他人から見たら絶対につまんない人生ですが)なんかテレビ画面越しに美輪明宏さんが私のことを励ましてくれているような、私の人生これでよかったんだよと言って貰っているような気持ちに勝手になってしまって思わず泣いてしまった。たとえ全世界の人が私に対して「よつばちゃんの人生ってホントに情けないよねー」とか、「つまんない人生送ってるよねー」とか、ボロカスに言われまくったとしても、美輪さんだけはなんか自分の味方でいてくれてるような(勘違いだが)そんな気がした。なので、人生しんどくなったら美輪さんの言葉を信じて生きようと思います。美輪明宏 愛のモヤモヤ相談室なかなか収束しないコロナ禍のもと、皆さまの毎日はいかがでしょうか。新しい環境やコロナ禍のストレス多い生活に、みなさん”モヤモヤ“していませんか? 新しい職場がリモートワークばかりで仕事が覚えられるか不安、学校に行けず友達ができるのか不安、などなど、新しい生活に不安を感じている方が多いと思います。 この番組は仕事、学校、友人、家庭…悩みがつきないという方々の…www.nhk.jp
最近行った美術展あれやこれや。(近所の美術館ばっかりですが。)まずは大阪市立美術館で、メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年【会期終了】あべのハルカス美術館の、イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜 ―モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガン【会期終了】そして、大阪市立美術館にて只今開催中のドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展【公式】特別展 ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展 | イベント | 関西テレビ放送 カンテレ初期の傑作《窓辺で手紙を読む女》を修復後、所蔵館以外で世界初公開!!www.ktv.jpなんでも、ヨハネス・フェルメールの《窓辺で手紙を読む女》1979年のⅩ線調査で壁面にキューピッドの描かれた画中画が塗り潰されていることが判明し、長年、その絵はフェルメール自身が消したと考えられてきたが、2017年の調査により、フェルメール以外の人物により消されたことが新たに分かり、修復作業の末、所蔵館以外で世界初公開になったそうです。まあ、何がすごいって、藤子・F・不二雄作品じゃあるまいし、タイムマシンも無いのにフェルメール以外の人物が消したと判明することも凄いし、それを修復する人たちの技術も凄いですよね。…いや、もしかしたら誰も公表してへんだけで実はドラえもんもキテレツ大百科の木手英一君も実は居るのかもしれない。・・・知らんけど。キテレツ大百科のコロ助君は、私のブログにもひっそりと登場してくれるくらいすっかりお友だちです(❁´ω`❁)あべのハルカスにピントが当たってコロ助君がぼやけてしまった(;´・ω・)💦
月組さん大好き過ぎて、気がついたら5回も行ってました。ていうか、5回も観に行けて本当に最高でした。月城 かなとさんと海乃 美月さんの新トップお披露目公演ヾ(*´∀`*)ノ✨「今夜、ロマンス劇場で」お恥ずかしながら映画を知らなくて、公演中にアマプラで綾瀬はるかさん主演の映画も視聴して、映像演技と舞台演技の違いも感じつつ。てか、暁 千星ちゃんの演じる役といい、宝塚オリジナルキャラクターが想像以上に多かった( ´∀` )月組さんの好きなところは、圧倒的“芝居心”。役者の事務所に所属しているので、組子さんたちの芝居への意気込み具合とか、空気感が客席までガンガン伝わってくるからとっても楽しい組だし、毎回勉強させてもらってます(n*´ω`*n)♡最近、事務所レッスンでも話題になったのですが、『いいお芝居とは何か』に対して『人にやさしい芝居をすること。』演劇って、人とコミュニケーション取りまくらないとどうしようもない世界で、他の役者さんのセリフやら行動やらも気にして見ておかないといけないし、身体中のいろんな神経研ぎ澄まされまくってるなーと感じます。ある意味では、自分のことしか考えられないワガママな人では芝居って務まらないのかなぁとも思います。自分だけ目立って注目されればいいというスタンスだと、周りの役者さんも芝居しづらくなるし、他の役者さんが演技しやすいように自分が動くのが、いいお芝居なのかなあと思ったり。とりあえず、月組公演を観て感じるのは、演じる相手や周りの役者さん(ジェンヌさん)への思いやりをすごく感じます。いいお芝居を完成させようと思ったら、相手のことも考えないといけないなと感じます。
YouTubeのプロモーションビデオやら、テレビCMやらで、気になっていたので京都劇場まで観に行きました。プロモーションビデオやCMでは涙腺やられましたが、実際に観に行くと、泣けるというよりいろいろと個人的には考えさせられる話だなあという印象です。ロボットが人間の仕事を手伝うのが主流になり、人間の仕事がロボットに奪われるようになって、人間が肩身の狭い思いをしているような情景があるので、なんか、そう遠くない未来を見せられているような、複雑な心境でした。この壊れかけのロボット・タングはとても可愛いです。俳優さん2人で動かしていますが、動きといい、声といい、とても可愛い。ロボットにどこまでできるのか…この物語ではタングが主人公のベンや奥さんのエイミーの仲裁役を果たしたり、ベンの傷を癒す役割を果たしたり、ある意味人間以上のことをしてくれていますが、冗談抜きでタングみたいな心理セラピスト的な役割を果たすロボットって、出てきても不思議じゃないような気がしてきました。私たち人間がどこまでできるかというか、生き残れるのかというか、厳しい局面を見たような舞台でした。
本当は宝塚友の会の抽選で3枚チケット入手してたんですが、コロナの中止期間を喰らってしまい、全部ぱあ。仕方がないので一般販売でなんとか入手。でも、実際に観劇してみると、ナチス政権下の時代設定があまりにも今のウクライナ情勢と重なり、観ていて複雑な気持ちになってくるので、『なんか…1回でよかったかも…』と思えてきました。宙組さんのコーラスめっちゃいい!!芝居の月組さんの魅せる一体感も好きですが、宙組さんのコーラスで魅せる一体感もなんか好きです(n*´ω`*n)♡私も小中学校時代合唱部だったのでアレですが、コーラスであれだけの一体感を出そうと思ったら、一人ひとりが気持ちバラバラだったら絶対にあんな一体感は生まれないです。公演中止からの再開してからの公演のジェンヌさんたちの一体感って、めっちゃ客席まで伝わってきます。あと、真風涼帆さんのカッコよさ(⋈◍>◡<◍)。✧♡毎回、舞台を観る度に『真風さんって、真面目な性格なんだろうなぁ~』って、舞台越しから伝わってきます。
昨年末にオリックス劇場まで観に行ってまいりました。そうそう、元宝塚歌劇団花組の真瀬はるかさんという方が、今は劇団四季の一員として出演されておりました。『劇団四季のアンドリュー・ロイド=ウェバー コンサート~アンマスクド~』作品紹介 | 劇団四季【公式サイト】『劇団四季のアンドリュー・ロイド=ウェバー コンサート~アンマスクド~』のオフィシャルウェブサイト。 公演情報やチケット予約はこちらから。ストーリーや舞台写真、最新プロモーションVTRなどの作品情報も紹介しています。www.shiki.jpちょうどこの時は自分が教えてもらっている作曲家先生門下の発表会も終えたばかりで、ショーコンサートは大変刺激的で勉強になりました。作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーの本人映像もちょくちょく登場しますが、作曲家先生の視点っていうのは面白いです。大阪芸術大学通信教育部に在籍してた時からずっと今の作曲家先生に和声学とか教えてもらっていますが、作り手側の人って、演奏者とはまた視点が違うというか何というか。楽譜の構成だったり、アナリーゼ(楽曲分析)をとことんやっているのって、主に作曲専攻とか指揮科の人が熱心なイメージ。私の今でも仲良しな小学校時代の音楽の先生は、吹奏楽部の顧問をする度に、アナリーゼ(楽曲分析)で苦労し、「和声学もっとちゃんと学んでおけばよかった」とおっしゃっていました。そうそう、音楽大学出身の方でも、和声学きちんと理解して勉強して卒業されてらっしゃる方って(作曲専攻以外の方)少ない印象です。私はクラシック好きなので、やはりクラシック音楽を学ぶからにはアナリーゼ(楽曲分析)を疎かにして演奏するのはその作曲家やクラシック音楽の歴史にもいろいろな意味で失礼だと思っているので、やはり分析は大事です。・・・とまあ、超偉そうなことを言いましたが、私もまだまだ勉強中だし、できないことだらけの未熟者です(;´・ω・)『お前ごときが何言うとんねーん!』って特大ブーメラン帰ってきそう(;´Д`)でも、大阪芸術大学通信教育部には在籍しなくなった今でも和声学の勉強は継続しているし、ドッペルドミナントとか非和声法とか、私はスクリーングで受講できなかった範囲の内容も作曲家先生に教わっています。自分がレッスンで歌う曲、ピアノ演奏する曲も和声分析するようになりました。和声分析するようになってから、本当に楽譜との向き合い方が明らかに変わりました。
宝塚観劇大いにあるあるだと思いますが、観劇後の帰り道でレビューの曲の脳内再生が止まりません。レビューの「Gran Cantante(グラン カンタンテ)!!」がマジで止まりません。私の脳内で『Gran Cantante(グラン カンタンテ)!! Gran Cantante(グラン カンタンテ)!!』グラングランめっちゃ賑やか過ぎます。しかも星組さんやからエネルギッシュさがハンパないから余計に凄まじいですね。もうホンマ誰でもええから止めてくれ。…それぐらい宝塚の洗脳力は凄いです。4月30日~5月19日の間、関係者に陽性者が出たらしく、誠に残念でしたが中止を余儀なくされてしまいました。中止になる前日の4月29日と、再開後の5月21日と、本日5月27日観に行ってきました!「Gran Cantante(グラン カンタンテ)!!」で、ジェンヌさんたちが扇子を振っているのですが、私、つい先日、日本舞踊のレッスンがあったので『うぉぉぉぉぉみんなめっちゃ扇子の使い方綺麗~~~萌え萌え萌え~~~(*‘ω‘ *)✨』…と思いながらついつい見とれてしまいました(n*´ω`*n)♡礼真琴ちゃんは安定の歌唱力だし、もう何も心配いらないというか。舞空 瞳ちゃん、毎公演ごとに歌上手くなってるぅぅぅぅ(⋈◍>◡<◍)。✧♡そして相変わらず華奢なのにダンスキレッキレ(∩´∀`)∩♡「Gran Cantante(グラン カンタンテ)!!」のワンシーンで、オペラグラス越しに舞空ちゃんを見ててめっちゃ表情が色っぽい瞬間があって、めっちゃ萌えキュンキュンなりました(/ω\)あと、専科の美穂圭子さんの歌声が個人的に大好きなので、耳福でしたぁヾ(*´∀`*)ノそして、第108期生のお披露目公演♡アメブロの宝塚ファンの方々が話題にされているのも拝見しましたが、首席入団の茉莉那 ふみちゃん♡笑顔が弾けるような可愛らしさでめっちゃ一際目立ってる!!お披露目公演でめっちゃ緊張しまくってるだろうに、あれだけ自分をアピールできるって素晴らしいです。初舞台生の初々しさとか、エネルギッシュさとか、めっちゃ大好き((((oノ´3`)ノ
アメブロにはここ最近書いてませんでしたが、宝塚には相変わらず行きまくっております。よく、お年寄りはいつも同じ話ばかりすると言われますが、私もしょっちゅう宝塚観劇をしに行った話ばかりブログにUPしているので、今年27歳にしてもう既にお年寄りの兆候が見え始めているのかもしれません。そうなったらそうなったで、生暖かく見守っていただけるとありがたいです。「おっ!また宝塚の話をUPしている!これはまだ生きているな!」と、区役所の福祉課の職員さんが生存確認として私のブログをチェックするような未来がそう遠くないのかもしれません。どないやねん。それはそうと、2022年に入ってもう10回は宝塚を観に行ってますが、去年の花組公演の話がまだアメブロではしていなかったので本日やっとしようと思います。星風まどかちゃんが宙組トップ娘役から花組トップ娘役になられて(*‘ω‘ *)柚香光ちゃんとまどかちゃんコンビって、最初はもうちょっと違和感感じちゃうのかなと思ったけど、実際に大劇場で観てたら想像してたほどは違和感なくて(n*´ω`*n)♡萌えぇぇぇぇぇでもまどかちゃんずっと宙組さんだったから、薄紫色のドレスいろんな意味でめっちゃ似合ってるぅぅぅぅぅぅぅぅ((((oノ´3`)ノ花組に異動してからの永久輝せあちゃんもやっと観れましたぁぁぁぁぁぁ『壬生義士伝』以来だよぉぉぉぉぉぉぉめっちゃ久し振りやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁΣ(●´д`●)でも私の中では未だに雪組カラーが抜けない(;´・ω・)そして今回お芝居でめっちゃ濃いキャラで全観客を持っていった音くり寿ちゃんwwwwwwwwwなんかもう「元禄バロックロック」は音くり寿ちゃんの印象しか残らんかったと言っても過言ではないくらいインパクトすごかったwwwwwwまさかこの公演の時は退団発表も無かったのでもっと長く宝塚にいてくれるものやとばかり(´;ω;`)歌上手いし美声やしずっとエトワールとかやっててほしかった(´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`)
大阪芸大通信の「日本音楽の歴史と理論」の授業のスクリーングを受けてから、一度ちゃんと日本の伝統文化を現場で観ておきたいなぁと思いつつ、5年か6年越しぐらいにやっと行ってきました。これで私もやっと文楽デビュー、伝統芸能デビューできました。うぇぇぇぇぇぇぇぇぇぃぃぃぃぃいいいいいいいい✧\\ ٩( 'ω' )و //✧昨年からやっと個人的に日本舞踊(山村流)のレッスンにも通うようになったこともあって、なんか今のほうが観ていて勉強になることが多いです。あと、演劇やってるので、ジャンルは違えど表現者とは何ぞやみたいなものをめっちゃ感じる。(小並感)私、宝塚の轟悠さんきっかけでめっちゃ日本舞踊大好きになったんですが、日本舞踊って、立ち振る舞いもそうだけど昔の日本人女性の理想像が詰まってるなぁ…って感じます。性の多様性について語られるようになった今の時代には時代錯誤感ハンパないところも多いですが。当時の日本人にとっては『こんな女性ステキ!!美しい!!』とみんなから好まれてたんだろうなっていう仕草だったり、振る舞い方だったり。現代人とはめっちゃかけ離れ過ぎてて「ほえぇぇぇぇーーーー」ってなります(笑)尺八演奏の「鶴之巣籠」ってめっちゃ聞いたことある名前やんなぁとか思ってたら、芸大のスクリーングで尺八が専門の先生が演奏してくれはったやつやん!!懐かしい!!
先日自分の所属している芸能事務所の公演の千秋楽を迎えました。やっぱり舞台が私は好きです。どうしようもないくらいに舞台が好きで好きすぎて頭がおかしいレベルで好きです。もはや重症だと思います。目の前にお客さんがいて、何が起こるか分からないドキドキ感が好きです。うちの事務所は本当に素敵な役者さんばかりです。勉強になることばかりです。役者さん同士で台本のことを話し合う時間から、マジでどうでもええしょうもない話をしてる時間まで、全ての時間が好きです。今のこのメンバー全員で千秋楽まで走り抜けられたことが、本当に幸せだと思います。私は全然実力も無いので、周りに助けられてばかりでした。もっと場数を踏まなきゃなーと痛感しました。どこかの劇団に所属させていただいて、もっと演技力を付けなきゃなあと思ったりもしますが、取り敢えず今は公演疲れでしんどいので、とことん寝ようと思います。