この名称の採択が発表された時の様子について、
ものみの塔2013年2月15日号には次のように記されていました。
“1931年,米国オハイオ州コロンバスで開かれた大会で,その素晴らしい特権がわたしたちの霊的相続物の一部となりました。(省略) 1931年7月26日の日曜日の決議により,エホバの証人(Jehovah’s Witnesses)という名称を採択したのです。聖書的なその名を与えられたのは感動的なことでした。ある兄弟は,「大会会場に割れるような歓声と拍手が響き渡ったのを決して忘れないでしょう」と述懐しています。世の人たちはだれもその名称を欲しませんでしたが,神はわたしたちが80年余りその名称を用いるのを祝福してくださいました。エホバの証人であるというのは,本当に素晴らしい特権なのです。” (Watchtower Online Libraryより引用 太字作者)
「聖書的なその名」と言える根拠として、JWはお馴染みの、
イザヤ43:10,12を挙げます。
「聖書的なその名」と言える根拠として、JWはお馴染みの、
イザヤ43:10,12を挙げます。
理解の仕方は人それぞれですから,
言葉の解釈について、ここで言及するつもりはありません。
ボクが個人的に問題だと感じているのは、彼ら自身が抱く、
「素晴らしい特権」
「神はわたしたちがその名称を用いるのを祝福してくださいました。」
という意識です。
まず、この「特権」だという自覚。
これは選民意識、ひいては差別意識や隣人愛の欠如を助長しているように思います。
たとえば、テレビの報道で悲しいニュースを知った時、
あるいは、職場の同僚が何かの問題を抱えていることを知った時、
「神を知らない世の人じゃなくて本当に良かった。エホバ、ありがとうございます!」
という反応が起こるのは、JWにはありがちな話です(-_-;)
「隣人を愛せよ!」と唱えながら、
その心の奥底には、JWを名乗れる立場にある我々(私)だけが、
世界で最もハッピーだという不遜な思い込みが、冷やかに横たわっています。
ボクは今も聖書の神を信じていますが、
その方は自らの感覚についてこう述べています。
「わたしが喜びとしたのは愛ある親切であって,犠牲ではなかったからである。また,全焼燔の捧げ物より,むしろ神を知ることであった。」ホセア6:6(新世界訳)
しかしJWは、まさにその「犠牲」を最優先し、その量で救いが可能となることを、
言葉巧みに信者に教え込んでいます。
たとえば、全時間奉仕。
その立場を彼らは「特権」、
その働きを「犠牲」を表現します。
特権を増し加えることこそが、最善の生き方であると教えます。
ここでふと思ったのですが、もしかすると、この「特権」という意識は、
道理の通らないJW世界の中で、漂い出ないよう自己満足を刺激し、
錨のように彼らを固着させる役割を果たしているのかもしれません。
でも本来、それは「愛」であるべきだと思うのですが。。。
そう考えると、ある意味でこの「特権」意識は、いっそう育み実践してゆけるはずの、
クリスチャンとしての“愛”という根の発育を妨げている最悪の害と言えるのかもしれません。
なぜならば、それは、誠実にクリスチャンとして生きようとしている人にとっては、
まさに致命的であることを意味するからです。
「愛する者たちよ,これからも互いに愛し合ってゆきましょう。愛は神からのものだからです。そして,すべて愛する者は神から生まれており,神について知るのです。 愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです。」ヨハネ第一の手紙4:7,8(新世界訳)
次回も、このテーマについて書かせていただきたいと思います。