OST事件・誇大広告が欺罔にあたるとして原判決を破棄した事例 詐欺被告事件 大阪高裁 | 法律大好きのブログ(弁護士村田英幸)

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OST事件・誇大広告が欺罔にあたるとして原判決を破棄した事例

 

 

              詐欺被告事件

【事件番号】      大阪高等裁判所判決/昭和37年(う)第1503号

【判決日付】      昭和42年6月29日

【判示事項】      誇大広告が欺罔にあたるとして原判決を破棄した事例

【参照条文】      刑法246-1

【掲載誌】        判例タイムズ215号198頁

 

 

刑法

(詐欺)

第二百四十六条 人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。

2 前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。

 

 

       判 決 理 由

 

 以上の事実関係から被告人佐野棟に欺罔行為および詐欺の犯意があったかどうかにつき検討する。

 まず、本件訴因における欺罔行為は、被告人佐野棟において、OSTが

(一)不健全な操業を継続している事実を秘匿し

(二)一流会社または有利事業に投資し利益をあげ

(三)その利益をもつて高率の利率の利息を配当する最も安全確実な投資機関であり

(四)期限には確実に元利金を返済する旨虚偽誇大な事実を中向け、一般投資者をしてその旨誤信させたというにある。

 OSTが一般大衆から投資借入金を募集するにあたり宣伝文書または口頭勧誘により右(二)(三)(四)の趣旨のごとき事項を中向け、その反面(一)の事実を秘匿したことは前段認定の事実から容易に看取しえられるのである。そこで右各項と欺罔行為との関係につき順次考察する。

(一)不健全な操業を継続している事実を秘匿したこと。

 その具体的要素を検察官は冒頭陳述において「(イ)資本金が見せ金である。(ロ)卓越した投資技術者など一人もいなかつた。(ハ)OSTの経営方針自体被告人佐野棟の独善的な計画にもとずくものである。(ニ)顧問として有名人を担ぎ出しているが、これらの人は会社の内容実態を把握していず単に顧問として名を列ねただけである。(ホ)当初の被告人佐野棟の方針が実行できず会社は赤字ばかりで投資した子会社は何一つ利潤をあげえなかつた。(ヘ)投資者への利子の支払は投資金から次々に支払つて自転車操業であつた。(ト)従つて堅実な利殖機関としての実態はなんら実現していなかつた。」との諸点をあげた。そして原判決は、これらの事実につきすべて法律上の告知義務はないから右事実を秘匿したことは欺罔行為にならないというのである。なるほどたとえ真実であつても自己に不利な事実をあえて公表する法律上の義務のないことはもちろんである。この意味において告知義務なしとした原判決は当裁判所も首肯できる。しかし単に事実を黙秘したというに止まらずさらに積極的に正反対の事実を吹聴しそのため人をして真実と異る表象をえしめて錯誤に陥らしめたときは、告知義務がないからというだけで欺罔行為の有無を判断することはできないのである。それ故特に右(ホ)(ヘ)(ト)の事実については次項において併わせて考察することとする。

(二) 一流会社または有利事業に投資し利益をあげ

(三)その利益をもつて高率の利息を配当する最も安全確実な投資機関であると宣伝すること。

 OSTの投資借入金の募集にあたり、OSTの事業およびその子会社が何一つ利潤をあげず、投資者への利子の支払は投資金から次々に支払う自転車操業であり、堅実な利殖機関としての実態はなかつた事実について黙秘したばかりでなく、さらに積極的に、OSTは一流会社または有利事業に投資し利益をあげ、その利益をもつて高率配当をする安全確実な投資機関である旨宣伝したことおよびこれらの宣伝が右黙秘した事実すなわち真実と相違していることは明白である。しかるに原判決はこれらは「些か誇大であることはいうまでもないけれども虚偽と断ずるはもとより刑法上欺罔行為というべき程の誇大広告であるかどうかは疑問と考える」というのである。誇大とはある事実の存在を前提とし、これを粉飾誇張しまたは針小棒大に吹聴することをいうのであるとすれば、なるほどボロ会社の存在に対し一流会社、欠損事業の存在に対し有利事業、たこ配当に対して利潤よりの配当ということは、たしかに「誇大」ではあつても事実の存在するという点においては虚偽ではないかもしれない。しかし白を黒と称し小を大というのは、価値判断に関するものとしても、具体的に事実を挙示してこれを主張し人をしてその判断を誤らしめるときは、漫然として捕捉することのできない誇大広告の類と異り、なお虚偽というに足り、刑法上の欺罔手段となりうるものと解すべきである。もつとも原判決はOSTが「利益を計上しうる可能性が全くないといいきれない」とし、「証券の売買については・・・・・・全部が赤字であつたわけではなく幾分かは利益を得ていたけれども結局通算すると赤字であつた・・・・・・不動産事業については・・・・・・売却処分・・・・・・価格はおおむね取得価格より低かつたため結果において損失を来している、しかし右の処分価格が適正価格であるという証明はなされていないから・・・・・・当時損失であるとも利益であつたともにわかに決め難い。更にまたOSTが傘下会社として買収した会社・・・・・・についても、それが経営上の利益を得ていなかつたことは明らかであるが、しからば評価益を計上できないか、あるいは清算して残余財産の分配を得られないかという静的財産状態については適確に把握しうる証拠が全くない」というのである。OSTの証券および不動産の売買その他の事業において、ある時点における取引に限り利益をあげたこともあるのはさきに摘示したとおりであるが、これによつて配当金を賄うにはあまりにも僅少な額である。そして証券部長の渡辺三郎によると証券取引は全体として一、一九〇万円の赤字であつたと供述し(同人の検察官に対する昭和三一年二月二八日供述調書)、また被告人佐野棟によると不動産売買では現実には二二、九〇〇、五七四円の損失を蒙つていると供述し(同被告人の司法警察員に対する昭和三〇年八月一八日付供述調書)ているのである。殊に不動産投資においてさきに摘示したことから明らかなように、その大部分は営業所用または社宅用等に買入れたものであつて、転売して利潤をうる目的のものは二、三にすぎなかつたことからみても、原判決のいう「買叩」が行なわれたとしても不思議ではない。要するに買入価格よりも処分価格の方で低ければそれが「適正価格であるという証明」がなされると否とにかかわらず損失をうけたことには変りはないのである。さらに傘下会社の評価益の計上あるいは清算上の残余財産の分配のごときが適確に把握せられないとしてもこれらが営業上の利益でないことは確かであろう。されば原判決も「現実の利益から配当する趣旨の宣伝は明らかに虚偽といわざるをえない」としているのであつて、右(二)(三)の宣伝が虚偽であることはもはや多言を要しないところである。

(四)期限には確実に元利金を返済すると宣伝したこと。

 この点につき原判決は「期限には確実に元利金が支払われていたことも少くとも昭和二八年一〇月頃までは事実である」から、「その元利金の出所が現象的には投資金のたらいまわしであつたとしても何ら虚偽でもなくまた誇大な宣伝でもなかつたわけである」とし、「『期限には』という表現は将来の事実に関するものであるから、一つの方針ないしは意図を示すものであつて厳密には現在の事実と比較することは困難である」というのである。元利金を支払うと「宣伝」し、元利金が現実に「支払われた」ときは「元利金を支払う」ことになんらの虚偽がないことは原判決のいうとおりであるが、本件起訴にかかわる昭和二八年八月一日以降(もつとも起訴状添付の別表第一中には同日以前の事実が一件含まれているが、これは起訴状公訴事実欄本文に犯罪日時を昭和二八年八月一日頃より昭和二九年二月一三日頃まで記載してあるのと対照すると誤つて挿入されたものとも思えるが、これについては後に判断する)の投資借入金については利息の支払はさておき元金の支払が完全になされていないことは証拠上明白であるからこの部分に関する限り右宣伝は虚偽であるといえる。しかしそれが欺罔行為となるかどうかは被告人佐野棟において本件投資借入金受入の際期限には必ず支払をするという意思があつたかどうかが問題なのであり、この点は改めて犯意の項において論及することになろう。

 さて、右宣伝が虚偽であるとして、一般投資者はこれにより錯誤に陥つたであろうか。これについて原判決はつぎのように説明する。「OSTに対する投資をなすに至つた事情は各人各様であるけれども、その共通した点は利率が著しく高いという点にひかれて投資をしたということであり、中にはとても長続きはしまいが三カ月位は持つだろうからその間に利息を稼ごうと考えた投資者も相当数ある模様である。これによつてみれば、利益の帰するところ損失も又帰するとの一般観念から、投資者が無縁でなかつたことを示している。もとより企業あるいは事業の内容は容易にその実態を補足し難いことであり、今日、とりわけ本件OSTの発足した当時の社会経済事情をふりかえつてみれば、企業あるいは事業の運命を予想することの著しく困難な状況にあったことが知られるが、それにしても月五分ないし四分というのは当時の類似事業に比しても相当高率であり、銀行予金はもとより一般の株式配当に比すれば著しく高いのであつて年約五割から六割の利廻りの裏には相当な危険がひそむことをそのこと自体から読みとることができたわけである。それ故OSTの宣伝広告の対象となつた一般投資者としても当然そのことは考え得た筈である。」。これによると一般投資者は宣伝にまどわされたことはない、錯誤はなかつたというのである。しかし「高率配当」と「安全確実」とはOSTの謳い文句であつた。なるほど中には「三ケ月位は持つだろうからその間に利息を稼ごうと考えた投資者」もあつたことは証拠上否定できないから、高率配当の裏には「相当な危険がひそむことを読みとることができた」としても、利息を稼ぐために元本丸損を覚悟した投資者は見当らないのである。要するに一般投資者としてはOSTの前記の宣伝により「高率配当」にひかれたことはもちろんであるが、元本の「安全確実」を信じたが故に応募したものというべきであるから、被告人佐野棟において当時元本の支払が「安全確実」でないと考えていたら、一般投資者としてはそこに錯誤があつたといえるのである。もつとも「騙されたとは思わない」という人物もいるが(原審証人栗坂吉春の証言)その証言を吟味すると結局OSTは事業に失敗し、投資金の解約が増えたから倒産したのであり、さもなければ、成功したであろうというのであつて、もし被告人佐野棟に支払の意思がなかつたとしたらその点についてはやはり錯誤に陥つていたとみられるのである。

 しからば被告人佐野棟に詐欺の犯意があつたか。もしありとすればそれはOST創設の当初からかあるいは事後の段階からか。検察官は、同被告人としては投資借入金が少くとも一億円に達するまでは事業開始の意思なく、現実にも昭和二八年五月まではなんらの事業を行なわず、もつぱら自転車操業を続ける意思であり、かかる経営形態にあつては新規投資が常に大巾に増加して行かない限り元利金の支払が不可能となることは計数上明瞭であり、しかもこれが常に大巾に増加して行くとは限らないことも常識に属するところであるから、約定通り確実に兀利金を支払う意思がなかつたのにかかわらず、自ら立案作成した「営業御案内」なる虚偽の宣伝文書を配布し、これによつて一般投資者を誤信させて投資金を受入れようとしたのであるから、同被告人にはOST創設当初から詐欺の犯意あることはもちろん、同被告人がOSTに復帰した昭和二八年八月一日頃からは経営状態の悪化が極めて顕著となり投資者との約定を履行しえなくなることは十分予見しえた筈であるのに、なおも従前の宣伝方法を踏襲している以上、錯誤を利用して投資金を獲得しようとする意思が一層明瞭となつたと主張し、原判決は、本件宣伝広告は昭和二八年五月末頃までは虚偽であつたが、その後は誇大ではあるが刑法上欺同行為というべき誇大広告であったかどうか疑問である。宣伝広告の中核的位置を占めている「営業御案内」は当初同被告人によつて起案作成されたものであるが、それが如何なる認識、意図のもとに出たものであるかを知るよすががない。つまリ「営業御案内」の記載が現実問題と対比すれば真実に反しているという認識はあつたというべきであろうが、さらにすすんでかかる真実に反する広告をし、不特定多数の対象を錯誤に陥らしめて、その錯誤を利用することによつて資金を投資金名下に集めようとの意図があつたか否かとなると疑問であり、右広告は方針ないしは企画を宣伝したものであるとの同被告人の弁解を斥ける証拠はないとして、同被告人の当初よりの犯意を否定し、さらに同被告人OST復帰後においては、OSTの事業の活溌化は広告が常にその背後にある事実関係との関連において問題とされざるをえないこととの関係上、少くとも当初の虚偽性を失ない誇大性に変質したものというべく、してみれば同被告人において単なる誇大広告ではなく、欺罔行為となるべき誇大広告であることを認識しつつあえてあるいはそのような広告による錯誤を利用する意図のもとに広告を続けていたか否かが明らかにされなければならないが、その後の「営業御案内」の内容には利率の改訂のほか、OSTは保全経済会のごとき匿名組合と異なる株式会社で安全確実であるとの宣伝が加わつただけで、新規投資なるものを具体的に欺罔手段をほどこすことによつて得ようとの認識が果して存したかどうかは疑問なきをえず、被告人佐野棟の認識の中にはそれ程確固とした犯意のごときものはなかつたとして、同被告人復帰後の段階における犯意も否定するのである。

 案ずるに、被告人佐野棟にOST創立の当初から投資借入金騙取の意思があつたことは必ずしも確認し難いところであるが、それは別として、本件起訴は昭和二八年八月一日以後すなわち同被告人がOSTに復帰した以後における投資借入金に関するものであるから、当裁判所としては同被告人の当時における意思を究明すれば足るものと考える。

 昭和二八年八月一日当時OSTにおいては、投資借入金の累計が四四九、三六二、〇二五円に達しなお急増しつつあつたこと、しかしOSTの直営事業および傘下会社の事業は少しも業績をあげず、同年七月末における純損金は九三、三三六、〇一三円繰越欠損金は二六、二四一、五二六円に止り、投資借入金の元利金の支払も後の投資借入金のたらい廻しによつていたものであり、その総額も一二三、八四六、四九三円に達していたこと、同被告人はこれらの事実を知りながら従前の宣伝方法である[営業御案内」等の配布および従業員の口頭説明等によりOSTは有利な事業に投資し高率配当しても安全確実な利殖機関である旨勧誘し、一般投資者は「高率配当」と「安全確実」にひかれて投資金の応募をしたものであることはさきに認定したとおりである。「高率配当」ということがいかに魅力的であつたかは他の金融機関から預金を引出してOSTに預け替をした投資者が多数あつたことからも容易に推測できるのであり、原判決も投資者の共通した点は利率が著しく高いという点にひかれたことであると認定している。しかるにもし同被告人において原判決認定のごとく「逐次利下げをする考」であつたり、「利率を徐々に引下げる」意思であつて、しかもこれを一方的になす意思であるならば(事実同被告人は昭和二九年一月からは月一分に利下げすることを一方的に断行しているし、また同被告人は当審公判廷において利率引下の方針は自分だけの考でありこれを他に洩らしたことはなかつたと供述している)まさに羊頭狗肉の欺罔行為ありとなすに足る。原判決は「利率引下げについては、その旨が『営業御案内』にも記載されていないようであり」というが、既契約のものに関しては証拠上かかる形跡はない。さらに「安全確実」とはOSTの基礎、経営の点はともあれ、究極するところは一般投資者にとって期限に元本が確実にすなわち額面を割らずに返済されることを意味するのである。昭和二八年八月一日以後OSTにおいて受入れた投資借入金にして本件起訴にかかるものの元本がいずも期限に返済されていないことは明白である。しからば当時OSTに復帰した被告人佐野棟において期限に元本を返済する意思があったかどうか。これが本件詐欺罪の成否において中核をなす問題点である。

 この点に関し、検察官の所論は、「当時OSTの事業内容は頗る悪化しており、自転車稼業であるからには新規投資が絶えず増加することを要するが、しかしこれが無限に増加することはありえないから、元利金の支払が不可能になることは時間の問題であり、計数上当然の帰結である。同被告人は当然これを予見したものといわざるをえない」というのであり、これに対する原判決の説示は「OSTは結果的には成立たなかつたが、同被告人のこれに対する企画構想が理論上も実際上も成立ちえないものであるとの立証はなされていない。自転車操業であることはなんら犯意を決定づけるものではなく、同被告人において新規投資が大巾に増加してゆくとの見込みを持つていなかつたと断定するに足る証拠なく、むしろOST発足当時は事業として成立ちうる考であつたと認められるが、OST復帰後においても投資借入金は急増しつつあり、自転車操業を継続する間に事業を活溌に進めて行くとともに利率を徐々に引下げてゆけばその企画構想は実現したかもしれない。現に同被告人は、事業に対する組織を拡大し、傘下会社を整理し、相当多額の不動産を次ぎ次ぎと買取し、傘下会社を買収し、そのうちのあるものに対しては投下資本に対する月五分の利息を要求し、或は保全旋風前においても利率の引下を断行している。傘下会社は赤字ではあつたが劣悪会社であるとは即断しえないから、投資先が赤字会社というだけでは同被告人に支払不能の予見があるとはいえない。また保全旋風以後における投資借入金については、OSTが元利金の支払停止はともかく支払不能となることを予期しながらさらに投資金の受入を続けたとの点について積極的認定ができないから、この面からも同被告人に詐欺の犯意があつたものとはいえず、元金の支払停止をしている昭和二九年二月中頃以後の投資については同被告人の統制が及んでいたかどうか疑問である。」というにつきる。

 OSTが投資借入金を受入れたその月からは毎月四分ないし五分の利息を配当し、三カ月ないし一年後からは元本の返済をしなければならぬ約定でありこれを実行する以上、事業利益が出ない限り、これらはすべて後の投資借入金により賄わなければならぬことになる。そしてかかる短期、高利の資金運用においては配当金、返済金は日を追つて飛躍的に増加し、新規投資は絶えずこれを上迴つて募集せられなければ、自転車に例えられる操業は遂に顛倒崩壊することになるのであつて、この理は計数上明らかともいえるであろう。被告人佐野棟のOST復帰当時の経理状態は前記認定のとおりであり、すでに巨額の欠損を生じていた。しかし当時なお投資借入金は急増しつつあつたのであるから原判決のいうとおり「自転車操業を継続する間に事業を活溌に進めて行くとともに利率を徐々に引下げてゆけば」自転車はやがて坂途を下り新規投資金の流入が頭打ちとつても事業を成功に導くことができたかもしれない。しかし「利率を引下げる」ことは高率配当の魅力を減殺して投資借入金の増大を妨げることになるであろうし、既契約分につき一方的にこれを断行することは欺罔行為でさえある。また「事業を活溌に進めて行く」目途が当時の同被告人にあつたであろうか。西沢源一郎経営時代に投資した傘下会社である大阪相互金融株式会社、大阪相互不動産株式会社、大日本興発株式会社は実質的な仕事は何もしておらず、大阪興産株式会社は四〇○万円程の赤字を出していたのである。

 されば同被告人も「これは厖大な経費を使つてただ金を集めるだけで収益は何もあげず、集めた金を皆で食いつぶしているというような状態であつた訳です。私はこのような状態を見てこんな調子では会社は早晩行き詰るのではないかと心配すると同時に兎に角一日も早く収益をあげる事業をやらなければならないと思いました。そして又そのような事業をやるためには益々新規な投資借入金を集めなければならんとも考えました。ここで新規な金子を集めるのをやめれば会社は行き詰るほかないからです。」と述べ(同被告人の検察官に対する昭和三一年三月五日付供述調書)、収益事業に著手しても新規借入金の増加がなければ行き詰ることを予想しているのである。しかも同被告人の著手した収益事業なるものは悉く失敗に帰し、その発想は不首尾に終つた。そしてこれもまた同被告人の予想外の出来事でなかつたことはつぎの供述からも明白である。「事業をする私としては将来経済事情の変化で今まで集つていた借入金が何時集らなくなるかも知れない事も考慮の中に入れておかねばならない事もよく承知していました。それでこうすれば確実に間違いなく儲けるという訳のものではなく、大衆の金を借りて一つの思わくをやる訳ですから私の思うとおりにならず最悪の場合には投資者の人達に迷惑をかけるようになるかも知れない事も考えられない訳ではありませんでした」(同供述調書)。

 しかも真実同被告人が収益事業に執心し、事業の活撥化を志したかどうかは極めて疑わしい。同被告人が投資しまたは買収した傘下会社は実質的にはなんらの仕事をしなかつたかあるいはは負債を背負つた会社であって、これらを堅実に育成または再建強化し、その営利性を高めようとした気迫は同被告人には少しもみられないのである。OSTの宣伝において重点の一つになつている不動産投資においても、その総額は六九、〇六五、八七四円(敷金を除く)であつて、これを投資借入金総額に比すると七パーセント程度に該当し、そのうち転売を目的とした投資はわずか三件で合計八、八四一、八四〇円にすぎず、その大部分は営業所用のものであつたことからみると、不動産事業というには恥しい程度のものであつて、これを原判決がいうように不動産投資にも相当な力を注いでいた」とはとうてい考えられないのである。証券投資にしてもようやく昭和二八年一〇月(事実上は九月からとも思われる)から開始されたが、その取引には宣伝にあるような卓越した手腕はみられず、結局は一、一九〇万円余の欠損であったことはさきに述べたとおりである。また傘下のある会社に対しては投資額の月五分の利息の回収を試みたとするも、投資借入金に対する利息と対比すると利益をえようとする意図はおろか始めから経費損を覚悟していたとも思えるのである。もつとも同被告人はこれについては当該傘下会社の製品を販売して利益をあげる予定であつたというが(同被告人の検察官に対する昭和三一年三月六日付供述調書)、これにはなおその会社に運転資金として五、○○○万円を融資し原料の仕入を一、二割安くすればという条件がついているのであり、この条件が充たされたという証拠はない。なお原判決は傘下投資先が劣悪会社であるという証拠はないから赤字会社に投資しただけでは「支払停止はともかく支払不能」を予言したことにならないというが、営利を目的とする会社が利益も一度も計上せず赤字続きの経営であればこれを劣悪会社と呼ぶにふさわしいものと考えるが、もちろん投資先が赤字会社または劣悪会社であるとの一事をもつて「支払不能」の予見の証拠となすは至難であろうが(この種の詐欺においては「支払不能」のみならず「支払停止」または支払拒絶の予見があつても犯意ありとなすに足ると解すべきである。)、同被告人は傘下会社への投資に当つては「忽ちに収益を期待できるような性質のものではなかつた」(同被告人の検察官に対する昭和三一年三月五日付供述調書)、或は「株の利益配当とか収益事業等は当分望めないと思つた」「何しろ借金が多いので株を持ってもその利益配当を受けるというようなことは当分望めないと思つた」(同昭和三一年三月六日付供述調書)ということになれば、かかる会社に投資したことは、短期資金の運用を余儀なくされている投資借入金の返済につき「支払拒絶」(支払不能、支払停止を含む)の予見を認める間接証拠とはなりうるのである。殊にいわゆる保全旋風以後においては投資借入金の流入は激減し収益事業の目算はなかつたのであるから、投資借入金の受入を続行すれば期限にこれを返済できない状態になることは容易に予見しえた筈である。もつとも同被告人において募集打切を指令した昭和二九年一月過ぎの投資借入金については、一般投資者においてOSTの従来の宣伝にもとずき期限には返済をうけられるものと誤信して営業所に持参したものであるとしても、これについては同被告人に騙取の意思がなかつたとみるのが相当であろう。

 さらに、詐欺罪といえども財産領得罪であるから不法領得の意思を要すべきはもちろんであるが、原判決は「被告人佐野棟がOSTを利用して自己資産の増加をはかつたとか、その私生活において乱脈があつたとか酒食遊興に寧日なかつたというような私利を得ようとした形跡は認め難いから、同被告人に不法領得の意思が存するか否かももとより疑問といわなければならない」というのである。しかし私利私慾に走らなければ不法領得の意思がないとするのは俗論としてはとも角、法律論として不適当であることはここに指摘するまでもないことである。

 これを要するに、OSTの運用資金は返済期限をそれぞれ三カ月、六カ月、一年とする短期借入金であつてその上月四分ないし五分という高利であるから、その廻転、運用はよほど迅速巧妙でなければ、すなわち「卓越した投資技術」を駆使しなければ負債は忽ちにして雪だるま式に累み、企業は破局を迎えることになる。OSTは昭和二七年一一月に創立されたが、昭和二八年五月までは借入金を募集するだけでも何も事業を開始しなかつた。同被告人は借入金が一億円に達するまでは事業に著手する考はなかつたというが、昭和二八年三月には投資借入金の総計はすでに一億円を超え、同年四月には一億六、〇〇〇万円に達していたのである。原判決のいうとおり同被告人は「資金集めの快調さに酔つていたかに見える」のである。そして同被告人がOST復帰後においても、西沢源一郎経営時代に投資した諸会社はなんら業績に寄与せず、同被告人の投資した会社も始めから収益を意図しなかつたかまたは負債を背負つた会社で短期に利潤をあげうる望みはなかつたのである。不動産事業も事業といえるほどの投資をしていなかつたし、証券取引も利食いの常道に反し買値より安い価格で売却した場合が多いことからみると資金繰りのため換金処分ともみられなくはないのであつて、堅実な事業家の姿勢は少しもみられないのである。原判決は「結果論よりすれば、OSTは結局成立たなかつたということになろうが、同じく結果論よりすれば、その後不動産の地価は著しく、騰貴し、株式価格も相当の値上りを示し、更に大正造船株式会社の如きは破産の域に達しつつ数千万円で買受けるものがあらわれていた」というのであるが、結果論からすれば不動産、証券、大正造船株式会社のごときはすでに人手に渡つているのであるが、かりにこれらを持続すれば中には今日十数倍に価格が暴騰したものもあるに違いない。しかし問題は短期資金の運用にあるのであつて、投資物件を長期にわたつて温存しその値上りを待つという悠長緩漫な施策ではとうていOSTの事業としては成立つものでない。

 以上の観点からすると被告人佐野棟はOST復帰後、0STは欠損続きで早急に収益を確保する事業の目算がなかつたので、約定の期限に確実に投資借入金を返済する見込がないことを認識しながら、前記のとおり高率配当と安全確実とを宣伝して元本の期限返済を確約し、よつて昭和二八年八月一日以降の一般投資者をしてOSTは真実有利事業に投資して利益をあげて高率配当をし、期限には必ず元本の返済がうけられるものと誤信させ、または従前の同様の宣伝勧誘等により同じく誤信した一般投資者が提供したものであることを知りながら、投資借入金名下に金員または証券をOSTの営業所等の従業員に交付させ、または提供された金品の受領を容認したものということができるのである。しかし被告人佐野棟に対する本件詐欺の公訴事実中、別紙「無罪表」に記載してある昭和二九年一月以後の訴因についてはさきに認定したとおり同被告人にはこれらにつき犯意なきものと認められ、また右表のうち昭和二八年七月一三日(起訴番号二七〇三)の訴因については同被告人がOSTに復帰前のことであるから同被告人がこれに関与したと認めることが困難であり、その他同表に記載する訴因はいずれも金品の交付また欺罔の点につき証拠不十分と認められるのである。従つてこの部分に対する原判決の無罪の判断は正当であつてなんら事実の誤認はないが、他は詐欺罪の成立を認める証拠があるにかかわらず原判決がこれらにつき無罪の言渡をしたのは証拠の価値判断を誤つて事実を誤認したことに帰し、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、右部分に限り原判決は破棄を免れない。論旨は右の限度において理由がある。