2011年3月から夏にかけて、思い出す事さえ辛い日々が続きました。
もう私はダメだ..夫を病院に入れるしかないのかと思い詰める日々でもありました。
トイレの場所がわからなくなっていました。
連れて行っても、何かが邪魔して、うまく排泄することができなくなっていました。
出したくても出せないという感じでした。
切迫した尿意、便意を抱えて歩き回っていました。
そして..その結果、家中がトイレ状態になってしまいました。
丸一日汚さないで済んだ日はなくなりました。
やっときれいにしたと思ったら、また別のところを汚していました。
床掃除が果てしなく続きました。
尿や便で汚れてぐしょぐしょのパンツのままで、家中をうろつき、ソファに座ったり、ベッドに入ったりしていました。
取り替えようとすると怒り出しました。
猛獣の顔つきになり、ふーーっと威嚇されました。
その先の暴力が見えているので、私は恐怖が先に立って、どうすることもできませんでした。
その度に時間をかけてなだめすかし、必死になって夫と家の中を清潔に保とうとしました。
神経がすり減って、千切れてしまいそうな毎日でした。
いろいろな物を持ち出してそれを持って歩き回り、あちこちに置いていました。
洗面所のマットをリビングに持ってきたり、傘をベッドの脇に持ってきたり、捨てようとして洗ってあった空き缶とか..雑多なものでテーブルが埋まっていたり..。
片付けても片付けても、家がゴミ箱同然になりました。
あるときは包丁を持って歩き回りました。
右手に包丁を持って、私の方に向かって歩いて来たときの恐怖を忘れることができません。
それ以来、包丁はいちいち洗って拭いて引き出しに隠すようにしました。
調理中もそれをやりました。
でも、刻んだ物をお鍋やフライパンに入れる時に、どうしても一瞬包丁を放して作業しなければならないときがあります。
そのわずかな隙に、いつ包丁を掴んでしまうかと、おびえながら食事を作っていました。
テレビに向かって威嚇したり、テレビを叩いたりもするようになりました。
少しでも大きな音がしたり、大声を出すような番組は見られなくなりました。
今穏やかにしていても、次の瞬間殴りかかってこない保証がない、腫れ物に触るような生活でした。
時々、思い出したように正常になりました。
古紙回収日に、新聞を持って階下に行こうとしている私を見つけ、かけよって来て持ってくれました。
そこには、昔と変わらない夫がいました。
今にして思えば、それが夫を苦しめていたのだと思います。
正常な時は、自分が何もわからなくなっていき、何もできなくなっていくことに、ものすごい不安を感じていたのだと思います。
夫は好きこのんで大小便を床にまき散らしたり、家の中をめちゃくちゃにしたわけではありません。
それしかできなかったのです。
その絶望の果ての不穏であり、暴力であったのだと今にして思います。
夫の覗き込んだ暗い深淵はどれほどのものだったのでしょう..。
それを想う時、今でも胸が苦しくなります。
私は、そうした夫を支えてあげなければならなかったのです。
でも、その頃の私は、気力も体力も使い切って疲れ果て、目の前に見えることだけに振り回されていました。
私もまた、地獄の深淵を覗き込んでいました。
リスパ○ールを飲ませて、大変なことになってしまったので、代わりの向精神薬で、グラマリールが処方されていました。
最低量の一錠25mgでした。
不穏なときは頓服として、もう一錠飲ませなさいと言われていました。
リスパ○ールに懲りていた私は、なかなか飲ませる決心がつきませんでした。
でも連日の不穏、暴力に耐えきれず、4月の初めから、グラマリールを飲ませ始めました。
目立った副作用はなさそうでした。
でも、飲ませても効いている様子はありませんでした。
相変わらず不穏になり、いつもいらいらしていました。
その少し前から、私は救いを求めてネット上を探し回っていました。
直接助けを求めると、交番のお巡りさんのように、すぐ病院に入れなさいと言われてしまいます。
主治医は単に薬を出してくれるだけでした。
失禁も暴力も、この時期になれば当たり前と言われました。
ただそれだけでした。
ケアマネさんに至っては、本当に何の助けにもなりませんでした。
このケアマネさんは、初期の頃から来てくれていました。
当初は、周辺症状が全くなかったので、相談する事柄もなく、毎月一度、おしゃべりに来ているようなものでした。
だんだん困った症状が現れてきてからも、穏やかに過ごすのが一番ですからねとか言った位で、では、どうやったら穏やかに過ごせるのかという、現実的な、一番私が知りたい事は教えてもらえませんでした。
暴力が始まって、辛いと訴えた時、精神病院の電話番号をメモ書きしてきて、ここに電話して連れて行って受診して下さい、2,3ヶ月先には入れると思いますと言われました。
どうやって、すぐ不穏になってしまう夫を病院まで連れて行けばいいのか、当時の私は、介護タクシーの存在も知りませんでした。
それより、困っているのは今なのに、2,3ヶ月先にはとか...。
ネットで「コウノメソッド」を見つけました。
そこに書かれていることは、目から鱗のことばかりでした。
アリセプトが興奮を引き起こしているのも知りました。
ああ..この先生のところに連れて行って受診させたいなと切実に思いました。
でも私には、夫を遠く離れた名古屋まで連れて行ける手段がありませんでした。
暴れたときに押さえてもらえるような誰か男の人の付き添いをお金で頼めないかと思い、ケアマネさんに相談しましたが、できないでしょうねぇ..という返事でした。
せめてメソッドの中にあった、フェルガードを飲ませてみたいと思いました。
その前に主治医の意見を聞きたかったのですが、サプリメントなんてという感じで、全く取り合ってもらえませんでした。
アリセプトを減らしたいと言ったら、減らしてもいいけど、一気に進みますよと脅かされました。
素人の悲しさで、一気に進むと言われると、それでもとは言い張れませんでした。
それで、アリセプト7.5mgを継続してしまいました..。
なにが正しいのか、効くか効かないかもわからないけど、フェルガードにかけてみようと思いました。
夫にはもう時間がありませんでした。
フェルガードが最後の頼みの綱でした。
3月末からフェルガード100Mを一日2包飲ませ始めました。
飲ませた当日、不思議なことがありました。
一人で体をちゃんと洗えなくなってからは、一緒にお風呂に入っていたのですが、その時夫は、私の背中を流してくれていました。
かなり前から、それをしてくれなくなっていました。
その日、私が手を伸ばして自分の背中を洗っていると、突然気がついたかのように、浴槽から上がってきて私からタオルを取り上げ、背中を流してくれたのです。
その後、二人でテレビを見ていました。
旅行番組だったのか、画面にオーロラが出ていました。
それを見て夫は、「オーロラ?」と聞きました。
文字を読んだのか、画面で判断したのか、オーロラという単語を言ったので、びっくりし、そして嬉しくなりました。
もうフェルガード効果がでている??!
偶然だったのかもしれないし、あまり期待してがっかりするのもイヤでしたが、やっぱり期待してしまいました。
その後も、数ヶ月前の状態に戻ってると感じる事が多々ありました。
一方、易怒不穏は激しさを増して行きました。
グラマリールは全く効いてないようでした。
4月の中旬から、新しいお泊まりデイを利用することにしました。
二カ所見学に行ったのですが、片方は、普通の民家を改造して使っているところで、10人ほどのお婆さん達が、薄暗い一部屋にいて、お手玉をしていました。
一人だけお爺さんがいて、その人はみんなから離れて、廊下の隅の椅子ににぽつんと座っていました。
もう一つのデイは、マンションの部屋を何戸か使っていました。
あまり清潔感がなく、泊まりに使う部屋も、なんとなく薄汚れていました。
でも、何人かいたスタッフの人達が、皆明るく、気持ちのよさそうな人達でした。
こちらにお願いすることに決めました。
土日と泊まって、月曜に帰ってくるパターンにしました。
最初の週だけは、泊まりはなしで、毎日帰ってくることにしました。
順調に3日間デイに通い、機嫌良く帰ってきました。
この分なら来週からのお泊まりも実現するかもしれないと、期待が高まりました。
もう私は身も心もボロボロで、とにかく体を休めたい、ゆっくり眠りたい、一時的でも糞尿まみれの生活から解放されたいという欲求でいっぱいでした。
着替えやタオルなど、デイから持ち帰ったものを洗濯して始末し、二階に上がってみると、早速廊下に尿をまき散らしていました。
ズボンを下ろしてしたらしく、パンツは汚れていませんでした。
いつものように、蒸気の出るクリーナーを持ってきて掃除しました。
食事ができたので、手を洗わせようとしたら、断固拒否。
その後どうしても食べようとせず、そのまま下に行って寝てしまいました。
フェルガードを飲むようになって以来、反応が良くなってきているのを感じますが、反面、自我がはっきり出て、変なこだわりとして現れてきているようでした。
しばらく経って、起きてきた音がしました。
同時に床に放水するあの音も...。
身震いするくらい嫌な音です。
見に行くと、階段の登り口の廊下のところで、スリッパを片方履き、床の水たまりの中に立って、放尿を続けていました。
パンツを下げた様子もなく、そのまま漏らし続けていました。
何度も見てはいるものの、この凄惨な光景に耐えられなくて、私はつい、何してるの!!と怒鳴ってしまいました。
ぼーっとして訳が分からない顔をしていましたが、間もなく怒りの表情に顔をゆがめ、殴りかかってきました。
腕をねじり上げられ、殴られ、更に踊り場に追い詰められて、拳で脇腹を殴られました。
やっとふりほどいて、二階に駆け上がり、今回はもう、ためらわず110番をしました。
電話をしている間も殴られ続けました。
どうやって逃げ出せたか覚えてはいないのですが、とにかく逃げだし、一階に降り外に出ました。
下には追ってきませんでした。
間もなく警察官が二人到着しました。
階段の下に水たまりがあるので、どうしようと思ったら、じゃ外履きのままで失礼といいながら、そのままドカドカと上がっていきました。
夫は、まだ興奮している状態でしたが、警察官の説得で、食堂の椅子に座りました。
もう一人の警察官と下に降り、話をしました。
こういう110番依頼が、一日数百件あるとのこと。
逮捕させたい訳じゃないんでしょ?と聞かれ、もちろんそうです、ただ殴られ続けているので、誰かに来てもらって止めて欲しかったけど、他に当てがないので110番しましたと答えました。
大分落ち着いてきていたので、グラマリールを警察官に飲ませてもらいました。
何も食べてない空きっ腹だけど、仕方ありませんでした。
いつまでも警察にいてもらうわけにも行かず、パンツを交換する間だけいて下さいと頼みました。
パンツを替えに浴室に連れて行きましたが、やはり脱がせることができませんでした。
警察官が、男同士だからいいでしょ?脱ごうねと言いながら、脱がせて、シャワーもかけ、タオルで拭いてパンツを履かせてくれました。
警察官が帰ってからは、もう殴りかかろうとはしないで、放心した顔で、いつまでもソファに座っていました。
殴られた脇腹の痛みが、翌日になっても引きませんでした。
翌火曜日は、これまでずっと通っていた水中体操のアクティビティがあるデイサービスです。
ここは、認知症対応ではなく、普通のデイサービスでしたが、こういう状態になっても引き受けていてくれました。
でも、ここでも不穏な状況になることが多くなって、お願いできるのもあとわずかだろうなと思っていました。
デイに送り出した後、私は整形外科に行きました。
レントゲンを撮ったところ、骨は折れてはいませんでした。
でも、肋骨にヒビが入っていて、それから2ヶ月位、痛みました。
体を動かすと痛み、咳をしても痛みました。
肋骨は、治療のやりようがなく、サポーターをして自然に治るのを待つしかありませんでした。
デイから帰ってきて、私の胸部サポーターを見つけると、びっくりしたように近寄ってきて、なでてくれました。
優しい夫..。
わけもなく涙がでて、止まりませんでした。
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トイレの場所がわからなくなっていました。
連れて行っても、何かが邪魔して、うまく排泄することができなくなっていました。
出したくても出せないという感じでした。
切迫した尿意、便意を抱えて歩き回っていました。
そして..その結果、家中がトイレ状態になってしまいました。
丸一日汚さないで済んだ日はなくなりました。
やっときれいにしたと思ったら、また別のところを汚していました。
床掃除が果てしなく続きました。
尿や便で汚れてぐしょぐしょのパンツのままで、家中をうろつき、ソファに座ったり、ベッドに入ったりしていました。
取り替えようとすると怒り出しました。
猛獣の顔つきになり、ふーーっと威嚇されました。
その先の暴力が見えているので、私は恐怖が先に立って、どうすることもできませんでした。
その度に時間をかけてなだめすかし、必死になって夫と家の中を清潔に保とうとしました。
神経がすり減って、千切れてしまいそうな毎日でした。
いろいろな物を持ち出してそれを持って歩き回り、あちこちに置いていました。
洗面所のマットをリビングに持ってきたり、傘をベッドの脇に持ってきたり、捨てようとして洗ってあった空き缶とか..雑多なものでテーブルが埋まっていたり..。
片付けても片付けても、家がゴミ箱同然になりました。
あるときは包丁を持って歩き回りました。
右手に包丁を持って、私の方に向かって歩いて来たときの恐怖を忘れることができません。
それ以来、包丁はいちいち洗って拭いて引き出しに隠すようにしました。
調理中もそれをやりました。
でも、刻んだ物をお鍋やフライパンに入れる時に、どうしても一瞬包丁を放して作業しなければならないときがあります。
そのわずかな隙に、いつ包丁を掴んでしまうかと、おびえながら食事を作っていました。
テレビに向かって威嚇したり、テレビを叩いたりもするようになりました。
少しでも大きな音がしたり、大声を出すような番組は見られなくなりました。
今穏やかにしていても、次の瞬間殴りかかってこない保証がない、腫れ物に触るような生活でした。
時々、思い出したように正常になりました。
古紙回収日に、新聞を持って階下に行こうとしている私を見つけ、かけよって来て持ってくれました。
そこには、昔と変わらない夫がいました。
今にして思えば、それが夫を苦しめていたのだと思います。
正常な時は、自分が何もわからなくなっていき、何もできなくなっていくことに、ものすごい不安を感じていたのだと思います。
夫は好きこのんで大小便を床にまき散らしたり、家の中をめちゃくちゃにしたわけではありません。
それしかできなかったのです。
その絶望の果ての不穏であり、暴力であったのだと今にして思います。
夫の覗き込んだ暗い深淵はどれほどのものだったのでしょう..。
それを想う時、今でも胸が苦しくなります。
私は、そうした夫を支えてあげなければならなかったのです。
でも、その頃の私は、気力も体力も使い切って疲れ果て、目の前に見えることだけに振り回されていました。
私もまた、地獄の深淵を覗き込んでいました。
リスパ○ールを飲ませて、大変なことになってしまったので、代わりの向精神薬で、グラマリールが処方されていました。
最低量の一錠25mgでした。
不穏なときは頓服として、もう一錠飲ませなさいと言われていました。
リスパ○ールに懲りていた私は、なかなか飲ませる決心がつきませんでした。
でも連日の不穏、暴力に耐えきれず、4月の初めから、グラマリールを飲ませ始めました。
目立った副作用はなさそうでした。
でも、飲ませても効いている様子はありませんでした。
相変わらず不穏になり、いつもいらいらしていました。
その少し前から、私は救いを求めてネット上を探し回っていました。
直接助けを求めると、交番のお巡りさんのように、すぐ病院に入れなさいと言われてしまいます。
主治医は単に薬を出してくれるだけでした。
失禁も暴力も、この時期になれば当たり前と言われました。
ただそれだけでした。
ケアマネさんに至っては、本当に何の助けにもなりませんでした。
このケアマネさんは、初期の頃から来てくれていました。
当初は、周辺症状が全くなかったので、相談する事柄もなく、毎月一度、おしゃべりに来ているようなものでした。
だんだん困った症状が現れてきてからも、穏やかに過ごすのが一番ですからねとか言った位で、では、どうやったら穏やかに過ごせるのかという、現実的な、一番私が知りたい事は教えてもらえませんでした。
暴力が始まって、辛いと訴えた時、精神病院の電話番号をメモ書きしてきて、ここに電話して連れて行って受診して下さい、2,3ヶ月先には入れると思いますと言われました。
どうやって、すぐ不穏になってしまう夫を病院まで連れて行けばいいのか、当時の私は、介護タクシーの存在も知りませんでした。
それより、困っているのは今なのに、2,3ヶ月先にはとか...。
ネットで「コウノメソッド」を見つけました。
そこに書かれていることは、目から鱗のことばかりでした。
アリセプトが興奮を引き起こしているのも知りました。
ああ..この先生のところに連れて行って受診させたいなと切実に思いました。
でも私には、夫を遠く離れた名古屋まで連れて行ける手段がありませんでした。
暴れたときに押さえてもらえるような誰か男の人の付き添いをお金で頼めないかと思い、ケアマネさんに相談しましたが、できないでしょうねぇ..という返事でした。
せめてメソッドの中にあった、フェルガードを飲ませてみたいと思いました。
その前に主治医の意見を聞きたかったのですが、サプリメントなんてという感じで、全く取り合ってもらえませんでした。
アリセプトを減らしたいと言ったら、減らしてもいいけど、一気に進みますよと脅かされました。
素人の悲しさで、一気に進むと言われると、それでもとは言い張れませんでした。
それで、アリセプト7.5mgを継続してしまいました..。
なにが正しいのか、効くか効かないかもわからないけど、フェルガードにかけてみようと思いました。
夫にはもう時間がありませんでした。
フェルガードが最後の頼みの綱でした。
3月末からフェルガード100Mを一日2包飲ませ始めました。
飲ませた当日、不思議なことがありました。
一人で体をちゃんと洗えなくなってからは、一緒にお風呂に入っていたのですが、その時夫は、私の背中を流してくれていました。
かなり前から、それをしてくれなくなっていました。
その日、私が手を伸ばして自分の背中を洗っていると、突然気がついたかのように、浴槽から上がってきて私からタオルを取り上げ、背中を流してくれたのです。
その後、二人でテレビを見ていました。
旅行番組だったのか、画面にオーロラが出ていました。
それを見て夫は、「オーロラ?」と聞きました。
文字を読んだのか、画面で判断したのか、オーロラという単語を言ったので、びっくりし、そして嬉しくなりました。
もうフェルガード効果がでている??!
偶然だったのかもしれないし、あまり期待してがっかりするのもイヤでしたが、やっぱり期待してしまいました。
その後も、数ヶ月前の状態に戻ってると感じる事が多々ありました。
一方、易怒不穏は激しさを増して行きました。
グラマリールは全く効いてないようでした。
4月の中旬から、新しいお泊まりデイを利用することにしました。
二カ所見学に行ったのですが、片方は、普通の民家を改造して使っているところで、10人ほどのお婆さん達が、薄暗い一部屋にいて、お手玉をしていました。
一人だけお爺さんがいて、その人はみんなから離れて、廊下の隅の椅子ににぽつんと座っていました。
もう一つのデイは、マンションの部屋を何戸か使っていました。
あまり清潔感がなく、泊まりに使う部屋も、なんとなく薄汚れていました。
でも、何人かいたスタッフの人達が、皆明るく、気持ちのよさそうな人達でした。
こちらにお願いすることに決めました。
土日と泊まって、月曜に帰ってくるパターンにしました。
最初の週だけは、泊まりはなしで、毎日帰ってくることにしました。
順調に3日間デイに通い、機嫌良く帰ってきました。
この分なら来週からのお泊まりも実現するかもしれないと、期待が高まりました。
もう私は身も心もボロボロで、とにかく体を休めたい、ゆっくり眠りたい、一時的でも糞尿まみれの生活から解放されたいという欲求でいっぱいでした。
着替えやタオルなど、デイから持ち帰ったものを洗濯して始末し、二階に上がってみると、早速廊下に尿をまき散らしていました。
ズボンを下ろしてしたらしく、パンツは汚れていませんでした。
いつものように、蒸気の出るクリーナーを持ってきて掃除しました。
食事ができたので、手を洗わせようとしたら、断固拒否。
その後どうしても食べようとせず、そのまま下に行って寝てしまいました。
フェルガードを飲むようになって以来、反応が良くなってきているのを感じますが、反面、自我がはっきり出て、変なこだわりとして現れてきているようでした。
しばらく経って、起きてきた音がしました。
同時に床に放水するあの音も...。
身震いするくらい嫌な音です。
見に行くと、階段の登り口の廊下のところで、スリッパを片方履き、床の水たまりの中に立って、放尿を続けていました。
パンツを下げた様子もなく、そのまま漏らし続けていました。
何度も見てはいるものの、この凄惨な光景に耐えられなくて、私はつい、何してるの!!と怒鳴ってしまいました。
ぼーっとして訳が分からない顔をしていましたが、間もなく怒りの表情に顔をゆがめ、殴りかかってきました。
腕をねじり上げられ、殴られ、更に踊り場に追い詰められて、拳で脇腹を殴られました。
やっとふりほどいて、二階に駆け上がり、今回はもう、ためらわず110番をしました。
電話をしている間も殴られ続けました。
どうやって逃げ出せたか覚えてはいないのですが、とにかく逃げだし、一階に降り外に出ました。
下には追ってきませんでした。
間もなく警察官が二人到着しました。
階段の下に水たまりがあるので、どうしようと思ったら、じゃ外履きのままで失礼といいながら、そのままドカドカと上がっていきました。
夫は、まだ興奮している状態でしたが、警察官の説得で、食堂の椅子に座りました。
もう一人の警察官と下に降り、話をしました。
こういう110番依頼が、一日数百件あるとのこと。
逮捕させたい訳じゃないんでしょ?と聞かれ、もちろんそうです、ただ殴られ続けているので、誰かに来てもらって止めて欲しかったけど、他に当てがないので110番しましたと答えました。
大分落ち着いてきていたので、グラマリールを警察官に飲ませてもらいました。
何も食べてない空きっ腹だけど、仕方ありませんでした。
いつまでも警察にいてもらうわけにも行かず、パンツを交換する間だけいて下さいと頼みました。
パンツを替えに浴室に連れて行きましたが、やはり脱がせることができませんでした。
警察官が、男同士だからいいでしょ?脱ごうねと言いながら、脱がせて、シャワーもかけ、タオルで拭いてパンツを履かせてくれました。
警察官が帰ってからは、もう殴りかかろうとはしないで、放心した顔で、いつまでもソファに座っていました。
殴られた脇腹の痛みが、翌日になっても引きませんでした。
翌火曜日は、これまでずっと通っていた水中体操のアクティビティがあるデイサービスです。
ここは、認知症対応ではなく、普通のデイサービスでしたが、こういう状態になっても引き受けていてくれました。
でも、ここでも不穏な状況になることが多くなって、お願いできるのもあとわずかだろうなと思っていました。
デイに送り出した後、私は整形外科に行きました。
レントゲンを撮ったところ、骨は折れてはいませんでした。
でも、肋骨にヒビが入っていて、それから2ヶ月位、痛みました。
体を動かすと痛み、咳をしても痛みました。
肋骨は、治療のやりようがなく、サポーターをして自然に治るのを待つしかありませんでした。
デイから帰ってきて、私の胸部サポーターを見つけると、びっくりしたように近寄ってきて、なでてくれました。
優しい夫..。
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