春うらら、良い天気なのに頭がボーとしていて、肩こりが取れなくて、ふらふらめまいが不安材料をパイ生地のように重ねていく。
健康診断はそれほど問題もないはず。だから大丈夫なはず。
すっきりしない体調を、何とか改善すべく、昔父が購入したマッサージ器を使いトントン。
そして、足や頭や、首筋をもみもみ。さらに足上げのストレッチを始めて、少し改善。自分の体は自分で手当てをしよう。
今日は高騰しているお米を買いにスーパーへ。
父が母のために買ったカートを持ち、無事に完了。帰り道。
知り合いのおばちゃまに遭遇。おばちゃまは、お話し好きで敷地の草が伸びていたことをご近所の人に注意され、業者さんに頼み刈り取ってもらった経緯があります。
その出来事は、おばちゃまと家族を巻き込み、屈辱の何物でもない言葉を言われたようです。
春になって、刈り取られた敷地は新しい目が生えてきました。
草がなくなつた敷地の周辺に、おばちゃまがいろいろな花の植木鉢を置き、かつて咲いていた花たちも育ってきました。
文句を言われた、枯れ草が伸びた風景はどこにもないのです。
花に水をやるおばちゃまは、みんなに奇麗だと言ってもらえて、うれしい。だから水をやっている。水道代かかるから池の水。とニコリ。
私は、おばちゃまの辛い気持ちをたくさん聞いてきたのに、きれいな花で囲まれた敷地を見て、「あの時はニュースで山火事が多かったから、枯れ草が気になって近所の人が言ったんだと思うよ」と言ってしまいました。
おばちゃまは即座に「違う一人の人が言ったんだよ。あたしは死んでも忘れない」
やってしまった。不要なことを言ってしまいました。
どんなに時間がたち、きれいな花が咲き誇る光景でも、辛い言葉や態度は消して忘れることがないものです。
人の心に浸み込んだ感情の強さは、簡単には消え失せることはできないのだと。
私の中では、おばちゃまの心の染みに配慮がなかったと反省しました。
私だって、嫌な出来事を「死んでも忘れない」と思えたことに、他人が不用意に入り込んできて、一方的な忠告をしてくることに体の震えが止まらない辛い経験をしたのに。
なんて、軽く言葉を言ってしまったんだろう。私は一方的な忠告をしてきた人と同じことをしていたのだと。
辛い経験にかける言葉は難しい。
きれいな花たちが春を育ててくれる景色を楽しんで。と私は言いたかったのだと思います。
別れの時、おばちゃまが、「そのカート、服の色と会っていて、かっこいいよ」と言ってくれました。
「ありがとうおばちゃま、またね」