今日は母の七回忌を兄と行いました。コロナや兄の目の手術のため、2年遅れです。この日を迎えることをこの数年、気にかけてきました。そしてやっと終わりました。兄とは5年ぶりの対面。年を取るってこうゆうことなの。そんなことを感じた兄の姿。いつも通りに早めに来て、洗面所の汚れが気になったらしく、15分ほど丹念に磨いてくれました。
「きれいになったな」と自己満足の言葉を残して。
「ありがとうございます」お礼を。
今日の日程が決まったのが先月の末、なので昨日、確認の電話をかけると午前中つながらない。
「何かあった」と不安が大きくなり、しょうがない一人でやるのか。と覚悟を決めていたところ、5回目の電話でつながり、「行くよ」との返事。
不安が不安を呼び、あきらめの覚悟をしていたところに、「よかった」とほっとした私の気持ちは、かなりこの七回忌の日を迎えるまでに、てんぱっている状態が続いていました。
以前からの迷惑な訪問者に頭を抱え込んでいたこともあり、行かなければいけない病院も、ひとまず七回忌が済んだらと決めていたりして。
やらなければいけないリストがドミノのように並んでいくばかりの日々でした。
約8年ぶりにお会いするご住職の姿も、白髪が増えているような。懐かしいような神聖な時間でした。住職のお経とリンの音色が心地よくて、ふと、私も出家して僧侶になろうかと、その世界に足を踏み込むのもいいな。と思えるほど特別な時間を過ごした気がします。
お経が終わり、お茶を召し上がる住職とお話をしていて、私が両親の夢を年間40日ほど見ることを話すと、驚かれていましたけれど、「家族や知り合いの人の夢なら見ても問題はないです。あなたの気持ちの思いが夢を見るのでしょう。ご両親の思いの強さもあると思います。」と言われました。
自分にとって忘れられないことは夢に見るそうです。住職も、荒行の時のことを夢に見ますといわれました。
そんなお話をしていただいて、両親の夢を見るのは、結局私の問題なのかと腑に落ちました。なんかすっとしました。僧侶という職業を生業にする人と話すことは、どこか気持ちが落ち着く感じがしました。
無事に七回忌を終えて、僧侶も変えられたら、今度は、いつものことですが、兄が帰り支度をはじめます。この行動が私はいつも不思議です。
兄と私の話は、いつも同じで、少しずつ互いの歩み寄りはあるものの、兄の話を私は全面的に受け入れる体制です。
以前、友人に兄が私に話したことを伝えると、その彼女は、憤慨するような気持ちを我慢できなくて、「ひとつ言ってもいいですか。お兄さん勝手です」とぼやきました。
私はその言葉をスルーしました。この私のスルーする気持ちがとても重要なんだけれど、「でも勝手でも、しょうがないよなぁ」どこか家族愛というのか、諦めなのか、自分より親や家族という感覚ゆえの考え方が私にはあります。
でも、今回は彼女の「勝手」の言葉が、やけに響いて。
心の中で、決めなくてもいいんじゃあない。なるようになるしかない。その時話して、決めていけばいいよ。
そんな気持ちがよぎりました。
もう、誰かのためでなく、自分が望むところへ行きなよ。魂の声。
思うようにはいかないことはあるけれど、折り合いをつけていくしかない。否定的な考えは、新たな否定を呼び寄せる。まさしくこの考え正しいかもしれません。
疲れた。終わった。