恒例の兄への電話。

電話口で「俺もうだめだ」と息を切らせている。

掃除していたの。

してた。

土曜日の午前中。兄嫁が近くにバイトに行くと、兄は家の掃除を始める。

たぶん一生懸命に賃貸の部屋をつつがなく掃除しているのだ。

 

ここ数年、兄が良く言う「俺は食わしてもらっている」という言葉が気にかかる。

なんでそんな悲観的な言葉を言うんだろうか。

もっと堂々と生きていればいいのに。

 

そして話し出した、5年後そっちに帰る。もちろん私の暮らす両親の家である。

宣言のような言葉、兄の中では、おおよその見通しなのかもしれない。

 

突然放たれた言葉は、さらりとかわしたものの、衝撃度がじわじわと心や頭の中を巡ってきた。

 

こんな気持ち誰かに話したい。「ねぇ聞いて」と行きたいところだが、その相手は近くにいる友人。

でも、あまりにもすべてを話し続けることもよくない。そんな気持ちが芽生えた。

 

数年前、30年来の友達だった女性と、決別した。

長い付き合いの中で、私は自分のことを彼女に話過ぎたことに気が付き、自分が苦しくなってしまったことで、彼女から離れた。

私はこんな状態を繰り返した人が3人いる。どこかで自分が我慢し続けている。そこに気づくのにとても時間がかかる。

 

あのにの前を近所の友人にしてしまうことで、また同じことをする怖さが出てきた。

失いたくない友達がなくなる。それを避けるために。

 

ここはググっと我慢。

話すことはやめよう。心改め、手帳にもメモしておいたはずが、あっという間に、その気持ちを破ってしまった。

 

「畑で大根が取れたから、食べてくれる」そんな電話が突然かかってきた。

「頂に上がります」

「お茶でもしよう」

「はい」

なんて具合でおせんべい2つを握りしめ彼女の自宅へ。

 

それからお茶をいただき大きな大根をいただき、私は心に抱えた兄の言葉を彼女に話し出した。

なんかすっとして、彼女も義理のお母さんとのことを話しだし、お互いに話したいことが心にうずくまっていた状態だったようだ。

 

こんなタイミングってあるんだ。

 

大根を抱え自宅に帰り、メモした手帳の文字を消しゴムで消した。

 

おかげで、兄ことは気にしない。私は自分の人生を生きるんだ。そんな心の安定地に着地した。