数年前のこと、あるボランティア活動に人手がないからとむりやり誘われ、いろいろなボランティア活動をする人たちが集まり、説明会を受けることになりました。
ボランティアを始めるときの研修のようなものでした。
何種類もの職種があり、50名ほどの人たちが参加していました。
数人のグループにわかれて、まずは自己紹介。
人前で自己紹介をすることが苦手な私。ましてや熱意もなく参加しているので、意気込みの「イ」の字も持ち合わせていません。
なんとなく話したことが、子供相手の絵本の読み聞かせを希望している50代くらいの女性の怒りの的になりました。
お互いに自己紹介をして、お互いの批評をすることになり、彼女の私に対してのダメ出しがスタートします。
「私は辛らつなことを言わせていただきます」と始まり。
初対面の人に錆びたナイフで胸をつんつんとさすような言葉を浴びせられました。
この人が子供達に絵本を読むのか。なんとも言い難い思いがしました。
それからチームで意見交換をまとめることになり、私はボードに書くように指示されましたが、私の書いた文字を見て、辛らつな女性が一言「ちっせい」と吐き捨てるように言葉を発します。かなりのガラの悪さです。
ボードに書いた字が小さいといいだします。今度は50代の男性がボードに書く作業を始めました。
私は意見を言うほうに回り、「来客者の人に寄り添って」と発言すると、今度は男性が、「寄り添うつて言葉は嫌だね」と言い出します。
誰もが使っているけどいやだ。違う。と言われました。
誰もが使いすぎると、そんな気持ちもわからなくはないけれど。
私はこの男性と女性はどこか共通点があるように感じました。そして二人は私に「こいつは嫌いだ」というまなざしを向けているように感じました。
ボランティアという未知の人たちの中にお邪魔してしまった私は、初めての場所にはいろんな人たちがいる。その怖さを改めて感じました。今まで仕事でいろいろな人たちに会い、試練も乗り越えてきたのに、ここには別の世界がありました。
その後、私のボランティア活動は2年で終了しました。やはりなじめない人間関係の中でアブアブすることから逃げてしまいました。
ここで私が言いたかったことは、男性が言った、「誰もが使っているけど嫌だ」という感覚。
流行語大賞のように、時代によって、いろいろな言葉が人の心にしみこんできます。
「癒し」「寄り添う」の言葉はほんとによくつかわれてました。
その言葉自体が嫌なのではなくて、だれもが口にするから、使いたくない。
僕は私は人と同じような言葉でしか話すのは嫌だし、同じようには感じない。感じたくない。そんな気持ちなら、言葉に対して、失礼だと思います。
もし僕は人と同じことは嫌だ。そんな抵抗する気持ちで言葉を拒否するのはエゴのように思います。
誰もが使いたくなる言葉には、その言葉の持つ、伝える深い意味があると思います。だから伝えられる言葉の意味を理解して、気持ちを受け入れられる人になりたいものです。