今日は雨交じりで肌寒いですが、春になってきましたね。
虫さんも動き出し、木々の新芽がすくすくとのびています。
庭の万両の木から落ちた実が小さな子供たちを成長させています。
どこまで伸びていくのか、そんな子供たちを植木鉢に集めて植えなおしました。
時々、リンゴを食べた後の種を植木鉢に忍ばせると、生命力のある種は目を出します。
これが楽しみで、毎朝「おはよう」と声をかけています。
近所のお家は、家庭菜園が盛んです。
ミニトマト、キュウリ、ゴーヤ、ナス、カボチャ、イチゴなどなど。
我が家はなぜか虫さんの餌食になるので、チャレンジしません。
ただ、父が植えたキンカンは見事に育ち食するまでになりました。
小さな苗木の遅い発育に、父は「僕が生きているうちに実がなるかな」とかねがね言っていました。
もちろん間に合いましたけれど。
母が夢に参上。
あ、墓参りだ。お彼岸もわかっていたけれど、まずは靴を買ってからと思いつつ、まだ買いに行くところまでに至らず断念。5月の命日には必ず。
毎年そうですが゛、スタートがかからず出足が遅い。コロナで動きが悪いと自分に言い聞かせていても、そこではないぞ。と承知しています。
だめだなぁーと思いながらも、少し目先を変えれば、今年は去年より調子いい。
食事も3食作って食べているし。腰の具合も壊れてないし。
中村格子さんの体操を毎朝こころみているおかげで、おなかのぜい肉も減ってきた。
春になったら、パンツとジャケットがほしい。
なんて欲が出てきたり。
両親が大変な時期は、本当に自分が食べることに気持ちがいかなかった。
食べることに対する作業自体に拒否感が募っていた。
この食に対する拒否感は、両親が亡くなってからも続いていて、食べることに興味が持てずにいる自分がいて、食に対する欲求は最下位だった。さらにはなんでみんな食べることばかり夢中になるんだ。と反感を持っていた。
1日青汁1杯で生きられる人をうらやむこともあった。
拒食ではないが、意識の中では、食べることに興味を持たない自分でいることがほっとする。そんな意識があった。食べないことは命が亡くなる。そこに自ら焦点を当てていたのかもしれない。
食べることはそんなに大事、自問自答の答えに、母の写真を見る。
判断能力を亡くした母は、施設で食事のデザートの柿をしっかり握りしめている。嬉しそうに食べている。毎食完食のすばらしさとスタッフさんに言われていた。
あの柿を握りしめた万足気な母の顔を写してくれた写真を見ると、なんか胸に突き刺さる。
小さな子供が、小さなお菓子を握りしめている姿を見ると、「食べることは生きること」と言われているように思う。
母は食べることが好きだった。父もだ。
私はなんだかんだ、いろいろあって、食べることへの反抗心が強くなってしまった。
今は重い鎧のパーツを一つ一つ、外している途中なのかもしれない。
そのパーツ外しになったのが、近所の友達が、体調が悪いたびにこれ食べてみたら、と家庭菜園の野菜を持ってきてくれる。
時折電話をくれる兄が「食べているか」と言う言葉。
倒れると迷惑をかける。それが辛い。
鍋を買い、野菜や、肉、魚を調理して食べるようになった。2キロのコメを食べるのに3か月かかっていたのが、今は1ヶ月で消費するまでに成長した。
時間をかけて着込んだ鎧は、時間をかけて外さないと、それでも一歩前には進んでいる。
柿を握りしめた母の写真を見るたびに、もっと楽しまないとね。そんな風に思わないと生き続けられないよね。
4月から、昨年、認定資格を取得したカウンセラーの研修員を始めます。
ずっと資格を取るために走り続けていたけれど、やっと仕事として参加できますように勉強と訓練が始まります。