「WILD HEART」からの手紙


2013年・・・1月末。
僕の心臓に異常が発覚してから、たくさんの事を考えるきっかけが再び与えられた。
今、この瞬間も様々な思いが頭の中を駆け巡っている・・・

「人はいつか死ぬ」という真実は、誰もが経験する事と自分なりではあるが
理解しているつもりでいた。

入院前日、隣で眠る娘の顔をぼんやりと眺めながら
改めて「生きる」って何だろう?と自問していた・・・

僕も42歳になり、人並みの経験を積んできたつもりだ。
もちろん、身近な人の「生と死」にも直面している。

僕に大きな影響を与えた生と死。

最初は友人を失い、二度目は父親・・・
そして今度は、自分自身に忍び寄る影・・・・



僕が初めて「人の生と死」に直面したのは17歳の夏、
自宅の裏に住む友人を大きな交通事故で亡くした時だった。
バイク仲間だった彼らと、事故現場になってしまったコイン洗車場で
待ち合わせをしていた・・・・

溜り場になっていたその場所に、接触した2台の改造車が
百数十キロのスピードで突っ込んできたのだ。
現場は一瞬で火の海と化した。
そして、大勢の若者の命が奪われていった。

その場に居合わせた友人達は命を失い、僕は運よく事故を回避した・・・


当時、中途半端な不良少年だった僕達に突き付けられた現実は
あまりにも重く、受け入れる余裕もないまま時間だけが過ぎていった。

悩み、苦しい日々の中で、生き残った仲間達と「生きる」事の意味を
懸命に模索した。本当に必死だった・・・・

そして、やっと辿り着いた答え。それは、「生き抜く」事・・・・

失敗を恐れず、ありのままの姿で突き進む事を誓い
僕達はそれぞれの道を歩き出した。

17歳・夏の出来事であった・・・




2度目は突然の親父の死であった。

高校時代には、意見が合わずに衝突ばかりだった。
卒業を待たずに家を飛び出し、バンド仲間の家に転がり込んだ。
卒業こそしたが、バンドと仕事の気ままな生活の中で、親の事などは
まるで考えていなかった。
今、振り返っても当時はよく遊び、よく働いた時期で
自分の基礎を築いた時期でもあった。
生き方に影響を与えてくれた恩師との出会いが僕を変えていった。

親父は、とても真面目な人格で昭和初期の男を地で行く
強くて、心の優しい人であった。

草木が好きで、ビールを片手に庭の手入れをよくしていたのを覚えている。
動物も大好きで僕が幼いころから犬や鳥を飼っていた。


まだ若く生意気だった僕をとがめる事もなく
自由に生きる事を許してくれた・・・そんな親父であった。

25歳で結婚をして、孫を抱かせる事は出来たが、
そのわずか9か月後に、突然この世から去ってしまった。

何の親孝行も出来ないまま・・・
自由に生きてきた事を、はじめて悔んだりもした。

親父 60歳、僕が28歳の出来事である。




あれからずいぶんと時を重ねて、気が付けば42歳。
8年前に待望の娘を授かり、現在は2児の父親である。

日々のささやかな幸せを感じながら、
目まぐるしく進化する社会の中で生きている。

「良い意味での妥協・・・」「社会との調和・・・」「家族のため・・・」
生き抜く為の知恵と引き換えに、少しだけ置き去りになってしまった

あの頃の「WILD HEART」


僕が、金沢大学附属病院を選択した最大の理由は
渡邊教授率いる、「TEAM WATANABE」が示す医療に対する
「情熱と信念」を強く感じる事が出来たからである。

もちろんダ・ヴィンチでの手術でリスクを下げたいという願いもあった。

患者の体の負担を軽減するための術式の研究や、新しい技術開発等に
全身全霊で向かっていく姿に、大きな感銘を受けたのだ。

この病院に息づく「情熱と信念」は多くの障害を乗り越えて
静かに、そして穏やかに浸透してゆく。

退院してゆく人々の笑顔が、全ての真実を物語っている・・・・


そして、置き去りのままになっていた

僕の「WILD HEART」をも呼び覚ましてくれた・・・・・



渡邊剛教授をはじめ、「TEAM WATANABE」の皆様に
僧帽弁副組織の摘出手術を行っていただき
こうして家族の待つ家に帰る事が出来ました。

繋ぎとめて頂いた、この命を大切に守り
少しだけ置き去りになっていた「情熱と信念」を感じながら、
ゆっくりと前に進んで行きます。

「静かに、そして穏やかに・・・・」


2013年 7月  WILD HEART