私は、大した活動もせずに、
ほぼフェードアウトのような状態で、
今の離教者の立場となっているため、
知人たちからは、
教会活動を「お休み」をしている人物とさえ、思われている節があります。
ブログ記事で書いているような内容を1度以上は口にして、
「もう教会には通いません」と、
教会員の方たちには話をするケースが多いのですが、
それでも雑談をしていると、
相手方の人は、摂理の話や教祖の話を違和感なく普通にしてきて、
「お子さんたちは2世だから、大事に育てないとね」と言ってきたりします。
因みに2世とは、信者夫婦の子どもという立場ですが、
教祖をメシアと受け入れなければ、
当然、教会の2世という概念はなくなり、ただの子どもという認識にしかなりません。
それなので私も、苦笑いしながら、聞いています。
私としては、自分のスタンスを表明して、
相手方がそれを受け入れようと受け入れまいと、
そのあたりは構わないと思っています。
厳密に言えば、
離教しても仕方ないと思われても、
離教したままではいけないから、説得をしなくては、と思われても、
どちらでも構わない、という意味です。
教会の活動や献金を強要されたり、
あるいは私や家族が地獄に落ちる、天運がなくなると、
諭されたり、脅されなければ、
勘違いされたままでも仕方ないと思っています。
なぜなら、私自身、
話をしている信者さんの気持ちや状態というのは、
ほとんどわからないからです。お互い様ということです。
そして感じることといえば、
やはり人の話を聞いて、理解する、ということは、
簡単ではないということを、ここら辺からも実感します。
さて、そんな状態の私ですが、
なぜ統一教会の信仰をもつようになったのか、と
改めて考えさせられる機会がありました。
それは、12月9日記事 に対しての、
ミッターマイヤーさんからのコメントからです。(青字)
1. 「創造原理」は想像力欠如
今のスピリチュアルの言葉で言えば、
ワンネスとでもなるんでしょうか?
ただonenessは、2つのものが1つになるのではなく、
創造主が自分を認識するために、他の存在を作り出した、
つまるところ、全ての存在が、根底では1つにつながっている、
という概念なので、
厳密には違うのかもしれません。
ただ今の私が書きたいことは、
厳密な概念ではなく、
個体として生きている我々が、根底ではつながっている存在であったことが分かり、
それを喜びとして感じられた、という感想になります。
そして、もっと掘り下げて書いていくならば、
「うん、うん、知ってる、聞いたことある、で、次はなんだろう?」という、
ひどく大雑把な理解で、終わりました。
今思えば、どんな話を聞いたところで、当時の私は、
「そうそう、そうだよね」と答えていたのではないかとさえ、思えてしまいます。
創造原理に対しての、私の感想は、当時の自分に忠実に思い出そうとしてみると、
ほぼこれだけしかなかったように思います。
「二性性相っていってもオスやメスのないアメーバetcはどうなるの?」
「オス・メス2つの性があるって当然でしょう。3つ以上の性があったら
複雑で繁殖なんてできないし、性がひとつだったら遺伝子が変わらないから
ほとんど進化・発展できないし、2つの性以外ありえないよな。」
なんていう感想を持ちました。~中略~創造原理の原理原則は、例外だらけで、とてもじゃないけど法則とはいえません