私は、大した活動もせずに、

ほぼフェードアウトのような状態で、

今の離教者の立場となっているため、

知人たちからは、

教会活動を「お休み」をしている人物とさえ、思われている節があります。


ブログ記事で書いているような内容を1度以上は口にして、

「もう教会には通いません」と、

教会員の方たちには話をするケースが多いのですが、

それでも雑談をしていると、

相手方の人は、摂理の話や教祖の話を違和感なく普通にしてきて、

「お子さんたちは2世だから、大事に育てないとね」と言ってきたりします。


因みに2世とは、信者夫婦の子どもという立場ですが、

教祖をメシアと受け入れなければ、

当然、教会の2世という概念はなくなり、ただの子どもという認識にしかなりません。


それなので私も、苦笑いしながら、聞いています。


私としては、自分のスタンスを表明して、

相手方がそれを受け入れようと受け入れまいと、

そのあたりは構わないと思っています。

厳密に言えば、

離教しても仕方ないと思われても、

離教したままではいけないから、説得をしなくては、と思われても、

どちらでも構わない、という意味です。


教会の活動や献金を強要されたり、

あるいは私や家族が地獄に落ちる、天運がなくなると、

諭されたり、脅されなければ、

勘違いされたままでも仕方ないと思っています。


なぜなら、私自身、

話をしている信者さんの気持ちや状態というのは、

ほとんどわからないからです。お互い様ということです。


そして感じることといえば、

やはり人の話を聞いて、理解する、ということは、

簡単ではないということを、ここら辺からも実感します。




さて、そんな状態の私ですが、

なぜ統一教会の信仰をもつようになったのか、と

改めて考えさせられる機会がありました。


それは、12月9日記事 に対しての、

ミッターマイヤーさんからのコメントからです。(青字)


1. 「創造原理」は想像力欠如

25年ぐらい前にビデオセンターで創造原理を聞いた時、
「二性性相っていってもオスやメスのないアメーバetcはどうなるの?」
「オス・メス2つの性があるって当然でしょう。3つ以上の性があったら
複雑で繁殖なんてできないし、性がひとつだったら遺伝子が変わらないから
ほとんど進化・発展できないし、2つの性以外ありえないよな。」
なんていう感想を持ちました。~中略~創造原理の原理原則は、例外だらけで、とてもじゃないけど法則とはいえません


もともと教理に対して疑問をもって、今の立場になったわけではなく、
教理で語られていない余白の部分を埋めたいと願っていたことが、
今の立場へと、私を導きました。

コメントを読んでいて、
「はて?私は、では、原理講論の何を理解して、
信者になったのだろう?」と、素朴な疑問をもちました。


過去の記事と重複しますが、
自然界がペアシステムになっていないことは自明です。
しかし当時は、疑問にも思いませんでした。


神を正として、それより分立して、再び合性一体化する作用、
「正分合作用」という理論を聞き、
当時、孤独感が強まっていた私は、
人間は1人ではないのだと、嬉しく思ったことを思い出しました。


今のスピリチュアルの言葉で言えば、

ワンネスとでもなるんでしょうか?

ただonenessは、2つのものが1つになるのではなく、

創造主が自分を認識するために、他の存在を作り出した、

つまるところ、全ての存在が、根底では1つにつながっている、

という概念なので、

厳密には違うのかもしれません。


ただ今の私が書きたいことは、

厳密な概念ではなく、

個体として生きている我々が、根底ではつながっている存在であったことが分かり、

それを喜びとして感じられた、という感想になります。


そして、もっと掘り下げて書いていくならば、

「うん、うん、知ってる、聞いたことある、で、次はなんだろう?」という、

ひどく大雑把な理解で、終わりました。


今思えば、どんな話を聞いたところで、当時の私は、

「そうそう、そうだよね」と答えていたのではないかとさえ、思えてしまいます。


創造原理に対しての、私の感想は、当時の自分に忠実に思い出そうとしてみると、

ほぼこれだけしかなかったように思います。













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