昨日12/8と、おととい12/7のブログには、
人間には本能の力が強く働いているのではないか、と書きました。
そして、結びとして、
“どうしてそのような生活に支障が出て、困った性癖が人間にはあるのでしょうか。
人間が堕落して、原罪をもち、堕落性本性を身に付けてしまったからなのでしょうか。”
と、書いたのですが、
正直に書きますと、
その先に何を書こうとしていたのか、
全く思い出せなくなりました m(_ _ )m→ヤバイですね(汗)
なので、続きのような、続きではないような、話を展開せざるを得なくなりました。
*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆
さかなクンという、魚類学者がいます。
タレントとして、TVでもお馴染みの方ですね。
サカナの種類や生態にとても詳しい方で、正にその道を極めていっているような方ですが、
その方の書いた、エッセイについてです。
中学時代にイジメに遭っていた部活の仲間がいたので、
さかなクンが、釣りに何度か誘ったそうです。
魚の種類でも、狭い水槽において何匹も飼うと、イジメを起こすものがあるそうですが、
広い海という環境下では、そうならない、ということです。
(参考↓“いじめられている君へ”より)
http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.html
さかなクンは、魚の生態から学び、
自分の部活仲間を、校外の遊びへと誘ったわけです。
つまり、魚の世界でもイジメがあるわけですね。
私も飼っていた金魚たちが、イジメらしきことをしているのを見たことが
何度もありました。
友人からもそんな話を聞いたことがあります。
統一教会での教理では、
人間以外の生き物は、堕落をしておらず、
創造本然の姿であるとされています。
堕落をしていない魚の世界でもイジメがある、ということは、
本然の世界においてもイジメがあるということになります。
もっとも魚の世界だけではなく、他の生物でもこのような現象は珍しいことではないでしょう。
イジメだけではありません。
鳥の一種であるカッコウは、
他の鳥の巣に卵を産みつけ、そこの親たちに抱卵をさせます。
その後、カッコウのヒナが孵ると、
ヒナは、エサをより多く得ようと、巣内の、自分以外のヒナや卵を巣の外へ捨てます。
また、
過去の記事で触れた生物の著書、
「オス・メス 性の不思議」(長谷川真理子著)の中で、
具体的な繁殖についても触れられていましたが、
結構いろいろな方法があるものです。
ある淡水魚(バラタナゴ)の一種は、
メスが貝の中に、産卵管を差し込んで産卵をし、
オスはその後、付近に放精します。
以下、本文より抜粋(青字)
この場面をよく見ているとこの二匹の後ろのほうに、何かこそこそ隠れているやつがいることがあります。
そいつは、雌が貝の中に産卵し、さて雄がその上に放精しようとするその瞬間に、雄の死角から急速に接近してきて、その雄が放精する前にそこに放精してしまいます。
つまり、これがスニーカーの雄だったのです。
スニーカーとは、運動靴のスニーカーと同じく、「こそこそする者」の意味です。
このバラタナゴの雄のように、スニーカー戦略をとる雄は、正規のなわばりを持ったり、正規の求愛をしたり、正直に闘ったりすることをしません。
正直に求愛したり、正規のなわばりを持ったりしている雄が、やっと雌を連れてきて繁殖行動が始まるその瞬間に、うしろの方からさっと現れて受精をしてしまうのです。
なんと小ずるい奴ではありませんか?
~中略~
昔は、動物行動学でスニーカーなどというものはまともに取り上げられませんでした。
「自然」がこんな汚い手を使うとは誰も思っていなかったのです。
しかし、個体ごとに置かれている条件が違えば、たとえ同種の雄であっても、異なる戦略をとるものがあるのは当然のことでしょう。
スニーカー戦略をとるのは、バラタナゴだけではないということです。
※以下の文章は、
統一教会の教理、原理講論に対してのみ書いています。
他の哲学、宗教などの思想に対して書いているものではなく、
まとまらない感もありますが、今現在の私の考えに過ぎません。
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自然が、ヒトの生きていくお手本であるならば、
これらの、「いじめ」「巣の略奪、子育てを他者に任せる」「スニーカー戦略」も、
人間のお手本となるはずです。
それとも、「やってはいけない」反面教師のような教材となるのでしょうか?
アザラシは、ハーレムを作ります。
強いオス1匹とメスたちの群れです。
人間でもそういうケースはままあります。
経済力や能力のある男性に対して、妻や妻の立場に値する人が何人もいる、というケースです。
あるTVでは、
何人もいる妻たちや子どもたちが、親しげに「大家族」を形成しているのを見たことがあります。
おしどり夫婦と言われる、おしどりも
生涯が一対のペアではないそうです。
そして、
性なしで繁殖をしていく、無性生物(細菌、イソギンチャク、ヒトデ・・・・)の存在もあります。
無性生物に関しては、
コピーという形式で増えていくものたちで、
私のブログのプロフィールの写真にある、多肉植物も、
ポロリと落ちた葉?だけを、そのまま土の上に置いておくと、
そこから何と、新しい多肉植物が生まれてきます。
ここら辺は、全ての存在がペアシステムである、という教理に対して、
「??」と思うところです。
反面教師の存在として
これらの生態<イジメ、巣の略奪、出し抜く行為、1対の夫婦ではないことなど>を
創造していたとすれば、
神が、
ヒトを造る前の段階で、
既に、堕落の可能性を予見されていた、ということになります。
(<>内の生物の生態は、教理の中では、創造本性には入らないと思います、
なぜなら教会員や人々が真似して行った場合、罰則を受けるケースや非難を受けるケースがほとんどでしょう)
すると人類の堕落とは、
十分に、創造の計画の範疇に入っていた、ということにはならないでしょうか。
そして被造世界をみて、造り手がどんな存在かが分かるというのであれば、
神の性稟(せいひん)の中に、
それらの生態<イジメ、巣の略奪、出し抜く行為、1対の夫婦ではないことなど>が含まれたことも言及した上での、
理論を提示した方が、教理の信憑性が出てくるでしょう。
長谷川真理子さんの著書の言葉、
「自然」がこんな汚い手を使うとは、思わず、あるいは思いたくなくて、
教えに組み込んでいなかったのでは、
完全無欠の教理が、片手落ちとなってしまいます。
少し前に教会の責任者と会った私は、
「このこと(原理の内容)が真実であり、
(この内容だけで)天国ができたらいいんですけどね(*゚.゚)ゞ」
と、本心から言いましたが、
責任者は、自信満々に、
「ええ、できますとも!」と、お返事をしてくれました。
私の気持ちから、
これだけで天国ができたら、本当に良いのだけど、という思いがぬぐえないのは、
これらの、まだまだ知らない膨大な世界が存在をしている、
めまいのするような感覚があるからです。
こうした生物の生態は、
社会が未発達で、文化がないから、そうなのだ、
だからこそ、完成した人間が、これらの生物を主管すべきだ、と
考える傾向もあるとは思いますが、
管理することによって、
生物の生態は、そのあるがままの状態であることに、
変わりはないでしょう。
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