自らの労働条件は自らの手で! 教え子を再び戦場に送るな!日教組・東京教組と共に闘おう!
NEWS 江戸川区教組
2024/5/7 No.2402 江戸川区教職員組合(江戸川区中央3-7-11-102江戸川区平和運動センター)
“教育の現状を出し合い、今年度の活動を考える”
江戸川区教組第35回定期大会を成功させましょう!
下記の日程で定期大会を開催します。
昨年度の報告、今年度の活動方針と予算、各分会の実情等を話し合う大切な大会です。
日々多忙とは思いますが、職場の子どもたちや教職員の状況、今後の課題などを出し合い、私たちにできることは何か、知恵を出し合っていきましょう。
その他、職場環境等でくすぶっている気持ち、教育のあり方で思うところ、江戸川区教育委員会に働きかけたいことなど、何でもかまいません。
様々な体験や考え、意見を出し合う中で、今年度1年間の活動を充実したものにしていきたいと考えています。
江戸川区教組第35回定期大会
◆日時:5月22日(水) 17:00~18:40
◆会場:会場:タワーホール船堀(都営新宿線船堀駅 徒歩1分) 403号室
※委任状は、交換便で16日(木)までに、書記長まで(宛先付き封筒を同封)
※終了後に歓送迎会も開く予定です。
江戸川区に来られた方、去られた方と交流を深めたいと考えています。
今年度も毎月、第1金曜日
分会代表者会義を開催します!
〇場所:タワーホール船堀
※会場や日程の詳細は、毎月のニュースで確認してください。
※職場のこと、教材のこと、子育てのことetc、気の置けない仲間と語り合いませんか。
何か良い糸口が見つかるかもしれません。

区内転入 組合員の紹介
ようこそ 江戸川区へ‼
・名前:Tさん
・転任校:N校
<今後の予定>
〇5月15日(水) 江戸川区教育委員会定例会 傍聴 場所:教育委員会 15:00~
〇5月18日(土) 東京教組 第48回定期大会 会場:日本教育会館 13:30~19:00
〇5月22日(水) 江戸川区教組 第35回定期大会 会場:タワーホール船堀403室 17:00~18:40
〇5月28日(火) 江戸川区教育委員会定例会 傍聴 場所:教育委員会 13:30~
〇6月04日(火) 江戸川区教育委員会定例会 傍聴 場所:教育委員会 13:30~
〇 6月07日(金) 分会代表者会議 会場タワーホール船堀405室 18:00~
江戸川区総合教育会議を傍聴して
4月23日(火)に第2回江戸川区総合教育会議が開かれることを区報で知りました。
傍聴に応募したところ、 当選し傍聴することができました。
会の内容は、区長提案の『江戸川区教育大綱(素案)の確認』でした。
教育 学び ともに生きる を真ん中に、
➀人とともに生きる ②社会とともに生きる ③教育とともに生きる
➃環境とともに生きる ⑤未来とともに生きるについて、
2100年を目指した学校に通う子どもだけでなく、すべての世代を対象にした共生ビジョンとのこと。
今後も江戸川区の教育のあり方に注視していきたいと思いました。
第95回メーデー中央大会に参加して
毎年、可能な限り参加しているメーデーですが、どんどん様変わりしていく様子に不安を感じました。
開催の10時半に間に合うよう会場に到着しましたが、待っていたのは会場前の長蛇の列。
入り口前は封鎖されていて、身体チェックを受けないと会場に入れないのです。
バックのチェックと警察による身体チェック😠😠😠
何だか腹が立ってきました。
「何だこれは!😠誰のための何のためのチェックなの⁉」😠😠😠
やっと会場に入れた時は、岸田文雄内閣総理大臣の話の最中でした。
大臣や知事が登壇している間、組合の旗は降ろさせられていました😠あり得ない!!!!
今日は、労働者の労働者による労働者のためのメーデーの日なのに、実行委員会は、何故来賓の為に労働者のシンボルである旗を降ろさせるのか😠😠😠
しかも、来賓の話は、テレビのニュースでよく聞く通り一遍の内容で、実につまらないもので「帰れ!」コールが飛び交っていました。
身体チェックも来賓のためだったのかと思うと更に腹が立ちました。😠😠
だからといって、もう参加しないとは言いたくありません。
何故ならメーデーは、労働者の労働者による労働者のための大会なのですから。
実行委員会は、メーデーのあり方を再度考えて頂きたいと強く思った大会でした。
(参加者の声より)
憲法集会に参加して
5月3日は、憲法記念日。
東京臨海広域防災公園で、「武力で平和はつくれない!とりもどそう憲法いかす政治を2024憲法大集会」が開かれました。
今年で10回目の憲法を守る集会です。
岸田政権による敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有を盛り込んだ安保3文書改訂、それに伴う防衛費の大幅増額や自衛隊と在日米軍の連携強化、
武器輸出についても例外が積み重ねられている昨今です。
憲法が掲げる平和主義が揺らぎ、世の中がきな臭くなってくる中、今日は32000人が集会に参加したそうです。
江戸川区教組の組合員やOB・OGも多数参加しました。
集会には、三々五々、色々な所から集まり、公園は人、人、人…老若男女の人々でいっぱいでした。
「憲法を守ろう!」「平和を守ろう!」と、晴れやかな青空の下で、多くの人たちの思いが、声が、広がっていきました。

生活と権利を守るためにみんなで力を合わせましょう!
江戸川区教職員組合加入届
江戸川区教職員組合 執行委員長 様
私は江戸川区教職員組合に加入いたします。
( )学校分会 氏名( ) 印
Abeの政治哲学
・国民はバカである
・ものすごく怒っていても時間がたてば忘れる
・他にテーマを与えれば気がそれる
・うそでも繰り返し断定口調で叫べば信じてしまう
と言ったそうだが、国民の心理を突いている気がする。
デジタル相である河野がマイナカード取得者やマイナ保険証にポイントを付けて普及を急がせたのは、「何年前のことだったのだろうか」と記憶をたどるのに、確かに私は手間取っていた。
時間がたてば他の課題に気を取られて忘れてしまうものだ。
また、調べ直すことにした。

2023/6月に成立したマイナ法令は、24年12月8日までに現行の「健康保険証」の発行を廃止することを規定した。
23年12/12日岸田は紙の保険証を24年秋までに廃止し、「マイナ保険証」の利用率に関わらず一本化することを表明した。
マイナ保険証の利用率は23/12月で4.29%であり、24/3月でも5.47%に過ぎなかった。
24/1月時点でのマイナカード保有者は全人口の73.1%で9168万人。
うちマイナ保険証の登録者は77.9%で7143万人。
しかし、マイナ保険証の利用率は毎月4~5%程度である。
取得者が増えたのはポイントが貰えたからで、使わないのはトラブルが続出したからだ。
今は紙の保険証の方が持ち歩いても危険がないし、医療機関でも紙の方が見せるだけで済むし、カードリーダーに通すよりも安全で早く確実だからである。
河野デジ相は能登半島地震当初の1/4に、X(旧ツイッター)被災者に「スマホからマイナポータルにログインすれば、薬の情報を避難所で医師と共有できる」と投稿。
19日には「マイナカードはタンスに入れないで財布にいれて一緒に避難して」と呼びかけた。
しかし、26日には「Suicaスイカ」を配布し、被災者支援すると表明した。
地震では停電でカードリーダーは使えなく使えてもトラブル発生も予測され、マイナカードを持ってない人も多くいた。
政府はマイナカードを「災害避難の際に役立つ」と喧伝していたが、役に立たないことが判明した。
そこでJR東日本がデジタル庁にスイカ活用を提案した。
避難者の住所氏名・生年月日・連絡先を登録して、避難所を訪れるたびにカードリーダーで読み取り、各避難所の避難者数や物資の受け取りを把握。
JR東日本が無償提供したスイカは21000枚、カードリーダーは250台と云う。(2/8東京新聞)
「カードと一緒に避難して」など現地の実情に無知な河野の「あほバカさ」が見えたし、津波が迫っているときは「即逃げる、命が一番」でマイナカードではないこともはっきりした。
(つづく)
<マイナスカードいらないデラシネ>
5月5日のTBSテレビ「サンデーモーニング」を視聴した。
番組最後の「風をよむ」コーナーでは、アメリカを中心とした学生たち若者の反戦の動きを特集していた。
題して、「Z世代・・・若者からの反戦の声」
テレビ画面から写し取った画像を順番に掲げて紹介にかえる。

















この後に、各コメンテーターからのコメントがされた。
正確ではないかもしれないが、凡そこのような発言だった。
かいつまんで紹介する。
(田中優子)
・1960年代ベトナム反戦運動がアメリカから起こった。その後、フランス、ドイツ、イタリアに広がり、日本にもやって来た。
当時の日本の4年制大学への進学率が15%ほどの頃、全国の大学の80%が反戦運動に関わるという広がりを見せた。
東大や日大の学生たちは自分たちの身近な問題と合わせてベトナム反戦運動に立ち上がった。
この運動は実を結ぶことがなかったという見方もあるが、決してそうではない。
運動の過程で色々なことに気づいたことが重要だった。
今日においても軍拡って何だろう?対米関係についての問題等々、色々なことに気づき行動することは大変大切なことだ。
(古田大輔)
・Z世代と言われる人たちは人口比で世界では32%、日本では15%くらい。
台湾や韓国においてはZ世代が60%くらいの投票率で政治に大きな影響力を与えているが、日本では30%程度にすぎない。
SNSが大きな役割を果たしているが、TikTokの影響だけで動くのは課題が残る。
(三輪記子)
・若い時から声を上げることを意識したい。
私はしてこなかったので後悔している。
日本ではデモは暴力だという見方をされる向きもあるが、デモは暴力ではなく意見表明なのだ。
そして、デモは政治参加の一つの方法である。
日本ではそういうことに慣れていないようだ。
自分の人生を生きるため自分の意見を持つというのは大切なことである。
(松原耕二)
・台湾では若者たちがキャスティングボートを握った。
Z世代が突き付けているものは大人に対する問ではないか。
大人が社会を変えることをやり、それを若者たちが引き継ぐ・・・そうありたい。
一様に言えることは、世界のZ世代と言われる若者たちは今、世の中の情況をしっかり見つめている。
自分(たち)だけではない世界をしっかり認識しようと努めている。
その中において自分とのつながりを考えようとしている。
世界の現実(事実)を知ったからには、行動せずにはいられなくなる。
大人たちの先入観や偏見というものはなく、ある意味で純粋に真実を見ようとしているのではないだろうか。
アメリカやヨーロッパの若者に一歩も二歩も遅れをとっている日本の若者たちも、決してゼロではないことが確実に証明されつつある。
私たち日本の大人の責任も大である。
日本のZ世代の動きが鈍いのも、ある側面で大人たちの責任かもしれない。
例えば学校教育の果たしてきた(いる)責任こそ重大である。
自己主張すること、自己表現を一定のひな型にはめ込んで「教育」してきたことは否めない。
いや、自己主張そのものを軽く考えたり否定的にとらえたことさえあったのではないか・・・。
自己を確立させるためと称して、子どもたちの自然的欲求や思いに考えが及ばず、大人たちが考えた価値や方法を押し付けてこなかっただろうか・・・。
未だ、諦めるのは早い。
今の世界の若者たちとともに、日本の若者も必ず立ち上がることを信じよう。
大人はただ、自分たちができることをやるだけで良い。
<遥か昔のZ世代>
子どもの頃、私も例にもれず自動車や電車(といっても地元を走るのはSLや気動車)という乗り物に興味関心があった。
一度だけだが、危険な悪戯に参加したこともある。
いや、正確に言うと、先輩たちの悪戯を一緒になって見学したことがあった。
田んぼの中を一直線に延びる線路上を疾走する国鉄の気動車を眺めるのは楽しかった。
私たちが、田んぼより一段高くなっている線路を下から見上げるようにしていると、ブーンという警笛を鳴らして気動車は通り過ぎて行った。
きっと、運転士は悪ガキどもに不信感を抱き警告を発したに違いない。
蒸気機関車の時は、その迫力と言ったら半端ない凄さで身震いするほどだった。
ちょうど列車が短いトンネルを抜けてしばらく走った辺りに私たちは陣取っていた。
ポーッ!と鳴る機関車の警笛音は、その蒸気の白さと合わせて脳裏にしみ込んでいる。
先輩たちはこの線路のレール上に何やら載せてその場を離れ、列車が通り過ぎた後に再びやってきてその結果を見るのであった。
たまたま私が行った時は失敗に終わったようで、うまく「加工」できなかったようだが、鉄くぎを平らにした物や一円玉が大きく延ばされた物を見せてもらったことがある。
石などの明らかに運転士から見えるような物は絶対置くことはなかったようだ。
「路傍の石」という物語があるが、その中で主人公の吾一が度胸試しに川に架かる鉄橋の枕木にぶら下がるという場面がある。
結果的には直前で列車は止まり、吾一は気を失ってしまうとう話だったが、私たちも鉄道にはワクワク感と怖さを併せ持っていたように思う。
その後、私は同年代の仲間たちと試みようと決めていたのだが、どいうわけか、学校で「線路の上に物を置くようなことは絶対にやってはならぬ。もし、それが原因で脱線でもしたらどうなる? これは犯罪で警察に捕まる」という講話を聴くことになった。
もしかしたら、私たち以外の場所でも同じ行為を重ねていた悪ガキどもがいたのかもしれない。
お陰で私は犯罪者にはならずに済んだが、五寸釘を平べったく加工することもできず、果たして本当にそうなるのかも確かめることなく過ぎてしまった。
私は鉄道に対してある種の畏敬の念を持っているのであるが、それは少なからずあの当時の体験が影響しているのだと思う。
(つづく)
<すばる>
自分が子どもだったころ、近所の道は「遊び場」だった。
家の前がアスファルト舗装になったのは小学校に入学するかしないかのことだから、あっちこっち未舗装の道も多かった。
断わっておくが、子どものころに住んでいたのはれっきとした東京都内、それも「区内」なのだが。
1960年ころの東京都世田谷区の西部の、道路状況はそんなものだった。
家の前や近所には畑が広がり、畑の中の道や、雑木林の中の獣道のようなところは、格好の遊び場だった。
家と家の間の路地なんかも、かくれんぼや缶蹴りにはうってつけだった。
さて、以前勤務していた学校で、新年度のPTA便りに載せる記事のためにアンケートがあった。
子どものころどんな場所で遊んでいたか?というような質問だったと思う。
この質問に、自分が小学校高学年の頃の思い出を書いた。
そのころ、子どもたちの間で「ローラースケート」が流行っていた。(ローラーゲームとかありましたね)
今どきの車輪がストレートに並んでいるものではなく、四輪車の様に配置されて、運動靴に装着するタイプのものだ。
車輪が鉄製から合成樹脂のものに代わって、少し騒音が提言されたものを、お小遣いをためて買ったのだと思う。
さて、ローラースケートで遊ぶには、舗装された道路であって、かつ自動車が来ないことが、必要条件だ。
そんな都合のいい場所があるか?というと、あったのだ。
それは、まだ建設途中で供用されていない「環状八号線」だった。
今どきの建設現場の様に、フェンスや策で囲まれ「立ち入り禁止」になっていなかったから、子どもにとってうってつけの場所だった。
放課後になると、そこでスケートに夢中になっていた。
少し先には、甲州街道をオーバーする陸橋部もあって、そこはゲレンデのようなものだから、カチャカチャと登って行っては、スラロームをしながら下って行った。
坂を下りながら風を感じるのは爽快だった。
という思い出を回答したら「道路で遊ぶというのは危険なので掲載できません」と、PTAの広報員会から書き直しを、指示されてしまった。
ちゃんと読めば何も危険なことはないはずだとは思ったが、おとなしく別の話を書いたが、それは、思い出せない。
-K.H-
幼い頃の道にまつわる話はまだまだ沢山あるが、もう一つだけ紹介するとしたら「道普請」のことだ。
今でも地域によってはこの地域協働活動とも言うべき「道普請」はあるようだが、私の子どもの頃は頻繁に行われていたのを記憶している。
現代においてはこうした活動には、申請することによって何がしかの便宜を図る自治体もあると聞くが、少なくともあの時代の我が集落にはなかったと思う。
何故、そう考えるかと言うと、その活動に参加できない家庭は「出不足金」として労働力の代わりに金銭を拠出する制度になっていたからだ。
私の家は大家族なので主に祖父が出ていたが、母の実家は当時では珍しいサラリーマン一家だったので毎回「出不足金」を支払っていた。
私はその「道普請」に興味があり、よく作業を見学したことがあるが、道端に延びた雑木を切ったり草を刈ったり、道路の凸凹をシャベルで修復したりしていた。
この活動のためなのか、集落の何ヶ所かに砂や砂利を小山にして保管してある場所があった。
普段は農作業に勤しむ農家の人たちが、この日ばかりはいつもの鍬や鎌やリアカーを使って手際良く作業している様子は見ていて面白かった。
ほとんどが男の人たちだったが、中には病気がちな夫に代わって頑張る女性の姿もあったのを覚えている。
こうした活動が年に何回か行われていたが、やはり農閑期だったように思う。
そして、作業が終わるとちょっとした宴会のような事もやっていたようだ。
おそらく、その費用は出不足金で賄われたものと考えるが、はっきり聞いたことはない。
しかし、その道は町道(公道)であり役所が維持管理すべきなのだが、地域(部落と称していた)の自主的活動で維持されていたのは、当時の農村では珍しくなかったのかもしれない。
私たちは、「道普請」できれいになった道を駆け足や自転車で走るのも気分が変わって楽しかった思い出がある。
(つづく)
<すばる>
学生だった頃はあまり勉強しなかったので、今になって不勉強を反省することが多い。
とはいえ、学び直しをしてみると、かつては気にもならなかったことが気になってくる。
そんなことを一つ述べてみたい。
世界史を学ぶと初期の文明の発展は、人間の使っていた道具とその素材が関係していると教わる。
石器時代(打製石器~磨製石器)から青銅器時代、そして鉄器時代へと変わり、鉄は今でも重要な素材であり続けている。
さてここで、打製石器や磨製石器は、どう作ったのかイメージすることはたやすい。
地域によっては、実際に作って、二つの違いを知ることも可能だろう。
ところが、青銅器~鉄器となるとそうはいかなくなる。
そもそも、なぜ青銅器が先で鉄器が後なのか?また、青銅は、銅と錫の合金だが、これは偶然に合金になったのだろうか?そ
れとも、それぞれ単体の銅と錫を作っていたが、合金にしたほうが、より固い金属になることを発見して青銅が生まれたのか?
そして次に世界を席巻することになる鉄器だが、いわゆる鉄の原料の鉄鉱石が含んでいるのは「酸化鉄」なので、これを鉄にするには「還元(=酸素を奪うこと)」が必要になる。なので、還元による製鉄法が確立される前人類は、隕鉄(隕石に含まれる鉄)が利用されていたという。
日本の近代史で、幕末のエピックとして「韮山反射炉」がある。自分がかつて勤務していた杉並区は伊豆の弓ヶ浜に宿泊施設があったので、移動教室の時の見学場所に入っていたのだが、今一つぴんと来なかった。
反射炉と溶鉱炉の違いが分かっていなかったのだ。
こうしたことを授業で扱うのは時間的な制約があって難しいだろうが、資料集や教科書のコラムのようなところで説明を入れてもらえると、理解が深まるのではなかろうか?
世界史の世界にも「科学の知識」が必要だと思う。
全く別の話だが、日本史の「征夷大将軍」のところで、「東夷、西戎、北狄、南蛮」という中国の思想を紹介しておくことも必要だと思う。
余談の断の余談だが、カレー南蛮やかも南蛮の「南蛮」は、南蛮とは無関係らしい。
共通する愚材の「葱」が大坂で栽培されていたので「なんば(難波)」がなまったものらしい。
(チコちゃんではないが、諸説あります!)
-K.H-
私は道路や鉄道に、幼い頃から興味関心が強かった気がする。
田舎で生まれ育った私の家の前は今でこそ舗装されているが、子どもの頃は砂利道と言うより砂道であった。
その道は、北から南にかけて緩い傾斜の坂道の終点の様な位置にあり、雨が降る度に上から流れて来る砂が堆積したのだ。
私たちは、そこで砂遊びをしたり相撲をしたり、陸上競技会ごっこで走り幅跳びや三段跳びをして楽しんでいた。
ローマオリンピックから東京オリンピックに続く頃だったように思う。
当時は車など滅多に通ることはなく、時々馬車がやって来るのどかな田舎道だった。
道の両側は生垣があり、その幅は3メートルにも満たないものだった。
因みにその道路が緩いカーブを描く場所に木製の黒塗り電柱があり、電気工事をする際に切り落とされた銅線を拾い集めるのも楽しかった。
こうした工事は結構あちこちで行われ、私たちはその場所を求めて銅線拾いに歩き回ったこともある。
集めたものは鉄屑屋さんが買ってくれた。
時代はちょうど日本経済の高度成長に拍車が掛かり始まった頃で、電気の需要も急速に高まりつつあったのかもしれない。
それを象徴するかの様に車の往来も次第に増えてきて、子どもたちの遊び場所だった道路も失われていったのである。
もっとも、その頃には遊んでいた私たちも中学・高校生になり、後輩たちの遊びも別のものに変わっていったようだ。
(つづく)
<すばる>
岸田政権は、自分たちの悪事はそっちのけで今の国会で次々と悪法を成立させようとしている。
その一つが「共同親権導入を柱とする民法改正案」だ。
現在は、離婚に際して父母のどちらかが親権を持つことになっている。
そこに、離婚した後でも、父母共に親権が持てるようにするという改正だ。
与党は急いで成立をさせたいようだし、衆議院では立憲民主党も賛成に回っている。
だからと言って、拙速に「共同親権」を導入していいのだろうか?
いくつか問題点を挙げてみたい。
一つ目は、父母の意見が異なった場合(例えば母親は単独親権を求めるが、父親が共同親権を主張した場合)にどうするのかということだ。
改正案では離婚の審理を担当する家庭裁判所が判断をすることになるらしい。
先日のサンデーモーニングでもコメンテーターが指摘していたが、果たして家庭裁判所が双方に納得できるような判断をできるのか?
納得のためには十分な父母双方の意見聴取や調査が必要になると予測できるが、家裁の人的資源はそれに対応できるか?
家裁スタッフのオーバーワークにつながらないか?ということだ。
二つ目は、DVなどが原因の場合共同親権が、当事者に不利益をもたらすことにならないかだ。
数は多くないが自分が学校勤務の時代、転校生について配慮が必要というケースがあった。
つまり、管理職から「〇〇さんについて、そちらの学校に在籍していますか?という問い合わせがあっても回答しない」という指示があったのだ。
理由はわかると思う。
在籍校が分かることによって親子の住所がわかってしまい、その結果ストーカー行為や連れ戻しなどのリスクが高まってしまうので、それを防止しなくてはならないということだ。
共同親権を盾に情報を引き出そうとする親がいたらどうするのかとても心配になる。
そもそも、日本では離婚によって母子家庭になる率は高い。
そして母子家庭が困窮しているケースも多い。
「共同親権導入」の前に「養育費の未払い」を防止することが大切ではないのか。
「共同親権導入」の前に国がやることはほかにもあるだろう。
さらに与党議員の言い分を聞いていて気になるのは「子どもは両親がいてこそ幸せだ」という固定観念にとらわれていないかと思う。
幸せは人それぞれで、国家が「こうあるべきだ」「これが子どもの幸せというものだ」と決めつけるものではないはずだ。
あと一つ、「子どもの権利条約」には、子どもの「意見表明権」が定められているが、それとの関連はどうなっているか?
もし議論さえされていないのであれば、大きな間違いだと思う。
-K.H-
先日(4月13日)の東京新聞のコラム「筆洗」に、朝鮮民話の「ネギをうえた人」という話が紹介されていた。
ネギを食べなかった頃、人はほかの人が牛に見えてしまうので、牛だと思って人を食べていた。
ネギを食べると人が人に見えるようになる。
そこで、、、、。という、ちょっとブラックな民話だ。
おお!懐かしいと思った。
というのも、この話を読んだのは高校のたしか2年生の時だったからだ。
今から50年ほど前のことになるな、と考えるとちょっとびっくりする。

高校生が普通だったら読まないであろう、この朝鮮民話集(金素雲編・岩波少年文庫)を紹介し、読むように勧めたのは当時通っていた都立高校の世界史担当の教師だった鈴木先生だ。
この先生は、いわゆる大学受験用の世界史の授業は全く行わなかった。
アフリカ史(ヨーロッパ諸国の植民地になる前、どんな歴史や文化があったか?)や、近代に、日本の植民地となってしまった朝鮮史を取り上げて授業をしていた。
授業後に生徒たちのグループが輪番制で、授業の感想などをまとめて発行する「週刊世界史」というガリ版刷りの新聞も作るように求められた。
自分が、植民地とか搾取とかといったことに興味を持つようになったのは、この先生の影響かもしれない。
さらに「ものを教えるというのも面白そうだな」と考えて、その後の進路を決めた要因の一つでもある。
自分の思い出はさておき、人が人を食べてしまう、というのは現在にも当てはまるのではないだろうか?
ぜひ多くの人に(もちろん子どもたちにも)この本を読んでもらいたいものだ。
-K.H-