自分が関わるまでは地域の町会・自治会なんて意識もしないで生きてきた。
それは特に必要と感じなかったからである。


そういえば、時代は遡ること50数年前にも「自治会」を考えることがあった。
高校を出たばかりのノンポリの若者にとって、大学というのは今までとは全く違った別世界だった。

ちょうど高校3年の頃だっただろうか、「10.8羽田闘争」があった。
あったと言うのは、自分は参加していないばかりか闘いの意味も詳しくは知らなかった。
ただ、ベトナムにおける戦争に反対する学生たちが警察機動隊と衝突した事件だとは分かっていたと思う。
何故、羽田だったのか、それは当時の佐藤首相が南ベトナムに向けて羽田から飛び立とうとするのに反対する闘いだったというのも何となくテレビのニュース等で知っていた。

そして、大学受験を目前にしていた1月、今度は佐世保で「原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争」があったのだ。
このころ、「反日共系全学連」とか「三派全学連」という言葉も耳に入って来た。
デモ行進する学生たちの姿がカッコ良くて、いつも心の中で応援していたものだ。
しかし、通学の途中で仲間たちとこの「たたかい」を巡って論争する中で、私とは反対にこれを批判する友だちもいた。

このころから一気に政治や社会問題に関心を持つようになったと記憶している。
ある時、父親に「反日共系全学連って、何?」って質問したことがあるが、答えは、ただ「共産党系ではない全学連だよ」だった。
当時の私は、恥ずかしながら全学連はもとより共産党系とか反共産党系とか、何が違うのかさっぱり分からなかったのである。
それに、何故、政治家ではない学生なのに共産党なのかも分からず、その辺りも知りたくてさらに聞こうとしたら、父があまり良い顔をせず相手にしてくれなかった。
後で母に聞いて分かったことだが、当時盛んだった新左翼の学生運動に私が関わることを危惧していたという。
だったら、はっきりと自分の考えを息子に伝えれば良さそうなものだが、三派全学連に限りなくシンパシーを持つように見える私をあまり刺激したくはなかったのだと思う。

さて、まだまだ脇道にそれた話をしているわけだが、そうこうしている内に通学途中に論議していた仲間たちとも分かれてそれぞれが大学に進学したり就職していった。

私が進学した大学でも、キャンパス内には立て看板が沢山立ち並び先輩たちがしきりにサークル等へ勧誘していた。
その中でも私の目を引いたのは「全学連」という旗だった。私は「これだ!」と思い先輩たちの話を聞くことにした。
チラシには沢山の政治課題が書かれていた。もちろん、私が関心を持つベトナム反戦の記事もあった。
私の素朴な質問にも丁寧に答えてくれた。
その中で私が理解したものはおよそ以下の通りだった。

・自分は入学したことにより自動的に学部の自治会に加入すること。
・全学連とは全日本学生自治会総連合の略称で、自治会に入った自分は全学連の一員となる。
・全学連を名乗る団体はいくつもあるが、我々こそが正真正銘の全学連であり、全国の大多数の学生が加入している。
・関心があるならより深く理解するために機関誌『祖国と学問のために』を購読してほしい。

私は羽田や佐世保での闘いにも参加しているのかも尋ねたが、「もちろん参加しているが、一部マスコミが報じている暴力的な方法ではなく民主主義に基づいた整然とした闘いをしている」と答えていた。
私がもう少し深く学習していれば、上記のような理解には行き着かなかったと思うが、初心なプチブル青年はまんまと彼らの餌食になり例の機関誌を4年間分購読予約をしてしまったのである。

当時の私には大きな出費であった。
貧乏学生である自分を認識していなかった自分が本当に情けない・・・。


このことを後悔し、新たな自分に向かったのは間もなくであった。
自治会主催の「新歓バスハイク」「歌声集会」等々に参加して新しい友達、とりわけ女子学生と親しくなって大学へ通うのが楽しくなって来た頃であった。
キャンパス内で自治会のリーダーが演説するのをじっくり聞いていたら、しきりに自分たちを批判する党派(この時にセクトという文言を初めて認識)を暴力学生と称して自分たちの正当性を論じているのであった。
かつてカッコイイと思った反日共系全学連の行動や考え方を徹底的に批判し、自らこそが正当な全学連であり闘いに勝利をもたらすというような話であった。

そればかりではない、学生を誘うのは闘いの現地へではなく歌やダンスの催しが中心であった。
女の子もたくさん集まるからと最初のころは何度か参加していたが、私の地元付近の三里塚空港反対運動を「暴力闘争反対!」として全否定する演説にはウンザリしてしまった。

そして、夏休みに入る頃には完全に『祖国と学問のために』の胡散臭さが鼻につき、受け取りも拒否することにした。
本当にもったいないことをした! 後悔先に立たずであった。

いくら初心で既成知識がなかった自分も学んだようだ。
まず、学内の他のセクトのビラや演説から、新聞や雑誌や週刊誌から、そして、加入したサークルの先輩から・・・。
それらから受ける印象は今迄の全学連とは全く異なる新鮮なものだった。
そして、何より自分の感性にピッタリな考え方であった。


その後の経過の詳細は省くが、結果として私は同じような考え方を持つクラスの仲間たちと有志グループを作って学習会を行なったり学外の集会へ参加するようになった。
クラスだけでは物足りなくなり学年を越えて有志連合を組織するまでに至るのであった。
類は友を呼ぶとはよく言ったもので、私たちは学部の自治会はもちろんのこと、学内の諸セクトにも関わらない集団であった。
「ノンセクトラジカル」とマスコミには称されるようになるが、当初から縛りがなく入るも出るも主張も自由な集まりであった。


さて、脇道をずいぶん歩いてしまったが、私が思い立ったのは今現在において自分が関わるっている地域の自治会の在り方はいかにあるべきかという事案である。

(つづく)



<我は行く>