にほんのひのまる
なだてあがい
かえらぬ
おらがむすこの ちであかい
ずいぶん前から、この詩を知っていたように思う。
日の丸を見ると、自然にこのフレーズが浮かんできた。
日の丸を背に、子どもたちがよびかけをしたり、歌ったりするときにも
戦争で子を死なせた母親の慚愧の思いが、痛ましく重なり合ったりもした。
ドキュメンタリー映画「無音の叫び声」で、この詩に出合った。
山形県上山市在住の木村迪夫さん。
丸山薫賞、現代詩人賞、日本農民文学賞など数々の賞を受賞し、TPP反対、反原発、反戦を訴える農民詩人。
ドキュメンタリー映画「無音の叫び声」の主人公である。
先のフレーズは、彼の詩の一節であることを知った。
祖母のうた
ふたりのこどもをくににあげ
のこりしかぞくはなきぐらし
よそのわかしゅうみるにつけ
うづのわかしゅういまごろは
さいのかわらでこいしつみ
おもいだしてはしゃすんをながめ
なぜかしゃすんはものいわぬ
いわぬはずじゃよ
やいじゃもの
じゅうさんかしらで
ごにんのこどもおかれ
なきなきくらすは
なつのせみ
にほんのひのまる
なだてあかい
かえらぬ
おらがむすこの ちであかい
おれのうたなの
うただときくな
なくになかれず
うたでなく
祖母は、はじめ皇国の母であった。
叔父が戦病死したとき、「天皇陛下のためだ、名誉の戦死だ」と自ら言い聞かせ、祖母は赤飯を炊いて祝った。
木村さんの父、文左エ門さんが戦死したとき、祖母は部屋にこもりきり、三日三晩、泣き続けた。
二人の息子を戦死させて、祖母は戦争の悲惨さ、残酷さを心に深く刻んだ。
その後、祖母はぴたりと泣くのをやめ、うたを唄いはじめた。
蚕飼いの仕事をしながら、即興のうたを唄った。
読み書きができない祖母は、文字に記すのではなく、御詠歌のメロディにのせて、
心の底から湧き出る国家への怨念をうたに託して唄いつづけた。
そして、それ以降、祖母が神棚に手を合わせることはなかった。
「祖母のうた」は、祖母のうたを木村さんが書きとったものだ。
祖母の心の内から発せられた無音の叫びである。
戦後、祖母・母とともに地をはうような暮らしの中から、木村さんは祖母の思いを引き継ぎ、15歳の時から60年以上、詩をつづり続け、16冊の詩集を出版している。
木村迪夫さんは、わたしたちの「戦争責任」を問うていう。
「暗く悲しい時代」を生み出したのは、日本軍国主義とその実権者たちの一方的な責任のゆえだけであったのか。
わたしたち国民(民衆といってもいい)の側には、まったく責任はなかったのか。(中略)
「満蒙開拓」も「王道楽土」も、他者の地をもって、己の楽園に置き換えようとする野望
が日本中はおろかせまい村の果てまで、マチの隅々まで拡がっていった。(中略)
このような、わたしたち民衆の「蔑視と思いあがりの思想」が、日本の軍国主義思想にはずみを加えさせ、日中戦争へと駆り立て「東亜共栄圏」という美名に彩られた東南アジアの植民地化へと突っ走っていく結果を招いてしまったのである。
<『遥かなる足あと 四十年たった戦没家族の手記』山形県遺族会>
「国民(民衆)にも責任はなかったのか」
木村さんの問いかけは、現在にも繋がっている。
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