年度末とはよく言ったもので、役所も会社もそして学校も3月は締めくくりの時だ。
1年の終わりであるとともに、学校では毎年のように学び舎を巣立っていく子どもたちがいる。
その儀式が卒業式。
日本の学校では、この儀式を最も重要なものとして厳粛さを装って行う習慣がある。
この儀式さえ完璧に行えれば、子どもたちも教員たちも全て良しとされるような雰囲気さえ持つ。
「立派だった!」「感動的だった!」・・・
そんな言葉が発せられることを、どこかで誰かが期待している。
小学校6ヵ年、中学校・高校3ヵ年乃至4ヵ年の課程を修了するのが卒業である。
だから、式に参加しなくても卒業はできる。
そういえば、私は大学の卒業式は参加しなかったな・・・。
それなのに、たった一日限りのそれも1~2時間程度にすぎない卒業式が、小学校なら6年間の学習を超えて殊更注目されるのは何故なんだ。
区切りとかけじめというものは必要だろうし、それなりに過去のことを思い出したり雰囲気に陶酔して感極まることもあるだろう。
例えそうであっても、それまでの学業の日々を超えて重要なものではない。
年齢が低くなるほどそうであるが、子ども本人より親を始めとした大人(保護者・来賓・教員)こそが感動したり何かと事大主義的になるのであろう。
卒業式以外にも学校が行事に力を入れ、保護者たちもそれを予定調和的に待ち望んでる構図こそ日本の学校教育のダメさ加減を象徴している。
子どもが日々学ぶということの重要性は誰しもが否定しないはずなのに、たった数時間の行事に接して学校や子どもを語るとは何と傲慢なことではないだろうか。
「子どもの権利条約」を引っ張り出すまでもないが、権利行使の主体として子どもが尊重されなければならない(教育の主人公は子ども本人である。)、つまり、子どもが自らの意思で生きることを周りの大人たちはサポートするのが役目である。
大人のために子どもが存在するのではない。
大人を喜ばせたり満足させるために子どもが行事をやるのではないのだ。
前置きばかりが長すぎた。
言いたいことは卒業式の理不尽さのことだった。
式の冒頭に「国歌斉唱」というものが今、日本中の学校でやらされている。
これほど自由を奪われた教育活動は他にはない。
かつては「君が代」は歌わない学校も少なくなかったし、だからといって無理やり歌わせられることもなかった。
しかし、80年代後半から90年代にかけて徐々に教育行政側が攻勢を強めてきた。
そして、1999年には野党や労働組合等の強い反対を押さえこんで、政府(自民・公明・自由党)は「国旗は日章旗、国歌は君が代とする」という法律を定めてしまったのである。
さらに東京都では、2003年に悪名高き「10.23通達」によって日の丸・君が代を強制してきた。
このあと、従わない教員を次々に処分していったのだ。
日の丸・君が代の歴史やそれが学校教育へ導入されてきた経緯等はこの際省くが、要は何故もこれほど執拗に学校へ押し付けてくるのかということだ。
組合では「日の丸・君が代の強制反対!」というスローガンを掲げているためか、権力側やそれに同調する人々は、「日教組を倒せ」とか「あいつは左翼だ」とかいう決まり文句やレッテル張りで反対する現場の教員たちを罵る。
イデオロギーを教育に持ち込むなと言っていたのは、自分たちではなかったのか!?
まじめに教育を考え実践している教員に対して、まさにイデオロギー的に攻撃しているのは権力サイドの方であるのは皮肉なことである。
私たちは日教組組合員だから反対しているわけではない。
まして左翼だからではない。
もっとも、右翼の方たちから見れば相対的に左翼になるのは必然的なので致し方ないが・・・。
子どもの学ぶ場において、自由が奪われ強制的に外圧が加わることを無自覚でいることはできない。
日々の教育活動の中で、子どもたちの前に強面で立ちふさがる教員が認められないのと同様に、最後の授業とも言うべき卒業式で子どもや教員の心に楔を打つようなことはやめてもらいたい。
子どもたちが卒業前の社会科で学んだ憲法や民主主義というものはどういうものなのか、君が代を強制するような人々には考えてもらいたい。
歌っても歌わなくてもよいではないか!
私は他の人にも歌ってほしくはないが、歌いたい人の自由は保障したい。
学びを教える学校って本来そういう所ではないだろうか。
いずれにしても、穏やかな雰囲気の中で最後の授業が終わることを私は心の底から願っている。
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