早くも新学期が始まった。
2009年度から、江戸川区は夏休み最後の一週間をカットして二学期の開始を早めている。
子どもにとっては楽しく貴重な夏休みを減らされたわけだ。
当時 、教育委員会は翌年度から始まる新教育課程では学習内容が増えるから、その授業時間を確保するための措置だということを述べていた。
たしか2010年度からは、夏休み短縮に加えて土曜授業も実施されるようになった。
この理由も、授業時間確保というものであった。
それまで実施していたサタデェープロジェクトなる任意参加の土曜スクールは廃止された。
これはこれで、現場の教員を指導者とする問題のある事業であったが、参加は自由であったので子どもにとってはまだ自由の余地はあった。
こうして、制度的に学校の年間授業(登校)日数が増えていったのである。
当局の宣伝文句も当初の授業時間数確保から、次第に「学力向上」という大義名文を言うようになってきた。
これさえ言っておけば、日本の教育は何をやっても許されてしまう風潮があるのは困ったものだ。
学校現場の現実を知ると、ただ単に登校日を増やせば学力が上がるなんてことは絶対にあり得ないことが分かるのだが…。
それまでは、夏休みの最後の一週間で、様々な意味で貴重な時期であった。
やり残した宿題を必死でやり切る時期であったり、お盆休みを取れなかった親が最後に家族サービスする期間だったかもしれない。
今年はここ数日猛暑から遠ざかっているが、まだまだ夏の暑さが残る時期である。
せっかく登校しても、水泳以外は身の入った授業ができない。
暑くて学校で勉強なぞできないから「夏休み」があると、子ども時代から勝手に思っている私であるが、実際そうであるらしい。
南北に長い日本列島では地域により夏休みも時期が異なるようだ。
近年、江戸川区でも学校に冷房設備が完備されたが、設定温度を28度に義務付けられたりして40人近い子どもが入った教室を十分に冷やすことは容易ではない。
人数といえば、学力向上には授業時間を増やすよりクラスの人数を減らす方が効果があり先決問題ではないだろうか。
子どもにとって、夏休みこそ自主的に活動できる有効な期間である。
この長い自由時間に浸って思い思いの夏を過ごしてきた子どもたちが、その生活にも飽きてきた頃に新学期が始まることの意味は大きい。
長期間離れていた子どもどうしや教員との再会は新鮮で、また気持ちを新たに学校生活を始めることができるのである。
これは、かつて子どもだった自分が、そして、かつて若い教員だった自分が身をもって体験してきた事実である。
決して夏休みを短縮して良くなったことなどなにもない。
「早く学校が始まってくれればお昼の心配もしなくてよいし、何より家でダラダラされているより学校へ行けば少しは勉強もするだろう…」
と、親の中には短縮を歓迎する声もあるだろう。
しかし、それはあくまでも親の考え。
子どもの立場に立てば、これを支持する者は少ないであろう。
多くの代償を払ってやっと確保した授業時数も、○○集会等々の行事によって安易に消費されてしまうのである。
新教育課程(多くの問題を孕んだ)実施にともない学校は「スリム化」されなければならないはずであるが、区当局自身をはじめ多くの学校は相変わらず行事を削減しようとはしていない。
それを深く認識することなく、教員たちは「忙しい!忙しい!」と夜遅くまで学校にいる。
「私たちがこんなに苦労しているのに、子どもたちは・・・・」と、不満の矛先を子どもに向けることになったら最悪である。
夏休みの短縮措置こそ、「子ども」や「学力」に名を借りた教育行政の貧困さを物語るものであると断言する。
ちなみに、「学力世界一」と言われるフィンランドの夏休みは6月中旬から2ヶ月半もあるという。
何でも学校でと考える前に、各家庭や地域で子どもたちが有意義に過ごすことが可能になるよう金と知恵を使って欲しいものである。
<やったるで>