
4月下旬、東京タワー特設会場で山本作兵衛の記録画展を見にいった。
どの記録画も正確・緻密に描かれ、見る者に衝撃と共感を与えてくれる。
山本作兵衛については、講談社発行の「炭鉱に生きる」を、ユネスコ「世界記憶遺産」に登録された2011年夏に購入したが、絵はザーッと見たものの文章は素通りで殆んど読んでいなかった。
作兵衛は明治25年(1892)福岡県で生まれ、8才から炭鉱の坑内で働き炭鉱が閉山になるまで50余年筑豊のヤマに生きて来た。
明治・大正・昭和のヤマの姿をありのままに書き残した記録画は、1000枚近くになるという。
今回の展示作品は、およそ60点ほど。
本で見るのとは違い、作兵衛の息遣い・生々しさ・憶いが伝わってきた。
また、高さ3m幅2mほどの大壁画も3~4枚展示してあった。
大壁画は模写した記録画の寄せ集めであった。
これは作兵衛の作品に出会い思想的な影響を受けて、後に太平洋戦争時に描かれた戦争画の究明にも関わった菊畑茂久馬という画家が、1970年に若い画学生を集めて模写させて、一年後に高さ3m、横18mの巨大壁画にして完成させたという。
菊畑氏は、この壁画を持って作兵衛と一緒に旅に出て絵の紹介をすることになる。
画学生達の模写とはいえ、なかなかの迫力ある味わい深い作品であった。
イラストレーターの南伸坊は学生の時、菊畑氏の授業を受けて、この模写絵を熱心に描いた一人である。
今回記録画展を見たことで、あらためて「炭鉱に生きる」を再読することにした。
副題として、地の底の人生記録とあるこの本は、とても衝撃的なものだった。
絵の中に解説文が書かれており、炭鉱に生きる労働者たちの生々しい日常が克明に描かれているからだ。
炭鉱夫の坑内・郊外労働や施設・管理だけでなく、炭鉱を訪れる旅芸人や商人、ケンカや脱走した坑夫の見せしめとしての制裁の様子など生々しく描かれている。
衝撃的だったのは、女性も女坑夫として坑内に入り、半裸姿で働く姿であった。
明治の頃は手掘りが主で、ツルハシで石炭を掘る坑夫は「先山」といい、掘られた石炭を運ぶ「後山」と呼ばれる女坑夫の一組で作業をしていたという。
夫と妻・父と娘・兄と妹など血縁の組み合わせだったが、他人同士の組み合わせもあったそうだ。
作兵衛も18才で「先山」になり、他人の「後山」と組むようになったという。
人の妻もいれば、人の娘もいたという。
ある娘と半年間も一緒に組んだが、「自分の妻にもせぬに女には絶対手をかけぬ」と心に誓い、色恋にはしなかったそうだ。
男女のもちつもたれつの連携で成り立っていた明治・大正の炭鉱も、昭和六年の法令で女子の入坑は禁止になる。
女子は暗闇の労働から解放されたものの、稼ぎ場所を奪われ家計の苦しみは深刻となったという。
この本には、米価が高騰した大正七年(1918)の米騒動のことも書かれている。
北海道から九州まで347ヶ所に米騒動が起きて、70万人がこれに参加。
7700名を起訴し、2名を死刑。
この責任をとって寺内内閣は辞職とある。
その時の賃金は、一日働いて米二升分がやっとで、筑豊炭鉱でも賃金引き上げで、ダイナマイトを爆発させる騒動が起きる。
軍隊の一個師団がきて700名もの坑夫達に突撃攻撃して、多くの坑夫を検挙し作兵衛の兄も有罪にされたという。
その後、賃金もそれなりに増額したが、生殺与奪を握る会社幹部に「騒動の責任は無いのか」と、強い不信感や憤りを作兵衛は持つことになる。
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