首都東京の保育事情をめぐってにわかに動き始めた。
というか、メディアがこぞって取り上げ始めた。

「待機児童」という言葉が定着してしまった感があるが、よく考えるとおかしな話である。
小学校入学を控えた子どもたちで、定員を超えているので無認可の学校や「認定」学校に行かざるをえないという話は聞いたことがない。
義務教育という憲法の縛りがあるからだろうか。

同じ人間の子どもなのに、学齢に達しない場合は放置されたままでよいのか。

夫婦共稼ぎで子育てをした人なら誰でもわかることだが、小学校に入る前の期間がどれだけ大変なことか……。
日本社会が核家族化して既に半世紀近くなるが、未だに「待機児童」なる言葉が残存するとは情けない。

「子育て」という事柄一つだけで、日本社会の現状をかなりの程度俯瞰できるが、ごくごく大雑把に言ってしまえば、人間観・社会観の貧困性に基づくものと言える。

それほど単純なものではないという反論はこの際無視して言うならば、保育園を建てる土地や人件費確保はオリンピック招致・運営にかける諸経費の一部だけを使えばすむことである。
原発再稼動のための予算を回しても良い。
米軍への思いやり予算を回しても良い。
富裕税の課税率を80年代頃に戻せば、あっという間に解決できる。
お金の面からは、ざっと考えただけでも簡単に確保できるではないか!

「少子化」対策という国策は何を考え何を実施しているのか!
本気で子どもを増やそうとは考えていないのだろう。
本気で人間を尊重しようとは思ってないのは確かだ。

それにしても許せないのは東京都知事だ。
区当局に訴える子どもの親たちに、彼は「国に文句を言った方がいい」とたしなめた。

彼は、国の設置基準の縛りが自治体の創意ある取り組みを妨害しているという認識なのだ。
そもそも設置基準は、戦後間もない頃の最低限の基準なのだ。
保育スペース一つとっても、それ以下は子どもにとって危険な生存空間になってしまうのだ。
むしろ、設置基準は子どもにとってより良い形に改善されなくてはならないのだ。

「スマート保育園」などというのは緊急避難的な措置であって、絶対に固定化を許してはならないし、猪瀬都知事のように行政の怠慢をすり替えて手続き論にしたり親の切実感を軽く考えることを許してはならない。
彼がどんな反論をしようと、オリンピックの開催地を決めるための調査をしに来た人たちに、テニスをして見せる時間があったら、自分が親たちに言っていた「国の役所」にでも赴いて要請でもしてくればよいのに……。

少なくとも史上稀に見る大量得票を獲得したからには、オリンピックにかける熱意の半分でも「待機児童」解消に傾けてくれてもよさそうなものだ。

国にしても同様である。
アベノミクスで順調に経済が回復していると考えるならば、まずは未来を背負う目の前の子どもたちの現状をこそ改善すべきである。

子どもを育てることは、今、この国にとっての緊急課題なのだ。

原発事故による子どもたちの生存危機も含めて……。




〈すばる〉