授業で習字をやるので新聞を持ってきてというと、家で新聞をとっていないという子が圧倒的に多い。
今、新聞を講読している家庭は、二割に満たない地域もあると聞く。新聞離れは、若者に限らず社会全体にどんどん増え続けている。新聞を読まなくても、テレビやインターネットがあるとか、読む時間が無い、めんどうである、読まなくても困らないなど様々な理由があるだろう。
子どもの時から、新聞に慣れ親しんできた団塊世代のアナログ人間にとって、新聞も読まないで一日を過ごせるなんて、不安な気持ちになり、よく平気で暮らせるなとそれこそ信じられないことである。
 
私の子どものころは、活字を読むものといえば教科書と新聞くらいしかなかった。
北海道の山奥の電気も通らないへき地で育った私にとって、新聞は唯一の社会との接点であったし、何か読みたいという欲求を満たしてくれる素晴らしいものであった。
当時の新聞には、少年少女向けの連載小説があり、それが楽しみというか気になって学校が終わると、一目散に家に駆け込んで読んだ記憶もある。
田舎の学校には図書室というものもなく、高学年になったとき学校に初めて図書室が出来た。毎週2冊ずつ借りて三百冊程度の本を2年間で読み切ってしまった。
また、山奥の村にも有線放送というものも入り、夕方の子ども向けラジオ番組に夢中にもなることも出来た。その後電気も入り、テレビも中学生のころようやく見ることが出来た。

現在は溢れでる情報化の中に生きており、新聞よりもよりスピード感のあるものに取り付きやすくなっている。
国会前の脱原発デモに集結している多くの人々は、ツィッターとかメールとかで集まっているといわれている。しかし、原発報道に市民目線で誠実に報道している新聞もあり、この影響も大きいと思う。
東京新聞は脱原発国会前デモについて、最初から報道し、野田首相のお膝元の船橋の2500人以上のデモも写真入りで報道していた。脱原発の闘いが、きちんと正しく報道されることにより、その輪も大きな広がりを見せていると思う。

それにしても、最近の新聞・テレビ等大手マスメディアは、政府や東電の言ったことを無批判的に垂れ流すだけの御用機関になりさがつている。
批判精神を失った新聞は、「ペンは剣より強し」等という新聞精神の魂の欠片も無い唯の無駄紙と思う。

新聞は何でも読めば良いのではない。社説を比較してみたり、取捨選択して読むものである。新聞はその社の経営方針により、事実を多少歪めたり、目を懲らさないと見えないくらいに小さく扱ったりすることは当然のことである。
新聞は事実を正しく伝えている等と信じてはいけない。新聞とは、報道を意図的に偏向的に作為的にすることもあると思って間違いない。
でも、新聞は読まなければならない。社会の出来事を知らないままに過ごすことは、自分の生きる道を誤った方向に導かれてしまう事に成りかねない。
しかし、私達一人一人の考えが大きなまとまりになったとき、社会を変えることも出来るのである。
    
7・16脱原発100万人集会には、歴史を作り変えていく一人として、その生き証人として参加してみよう。


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