こんにちは
2月に入り、寒さが戻ってきた数日です。
先日、友人の話を聞きながら、気づいたことがありました。
その友人は、長年子ども向けの太鼓教室を、積極的に続けていて、
最近、地域のイベントで太鼓を演奏し、
その後に撮った子どもたちの写真の話でした。
その写真の中で、以前は下を向いてばかりいた(と見ていた)子どもたちが、
顔を上げてピースをしながら笑っているのを見て
校長先生や他の先生、大人たちが一緒に喜び合った、と話してくれました。
その話を聞いた瞬間、私は意図せず胸が苦しくなり、
ああ、私はずっと自分の人生で、
大人の期待、誰かの望まれる形に自分を合わせようと頑張り続け、
それが自分を窮屈にさせ、心に葛藤を起こしてきたんだ、と気づかされました。
私たちは無意識のうちに、
自分に対して、同様に他の人に対しても、
これが望ましい姿だ、これがあるべき姿だ、と決めて(思い込んで)
そうあるべきでない状態(問題だと判断して)を見ると、
「このままではいけない。どうにか変えないと。」
自分自身や相手の人を、𠮟咤激励したり、指導をしたりして、
問題解決に向けて、頑張ることが当たり前になります。
こんな風に考えている時、私たちの思考は、コインの裏表の様に
「こうなってほしい」という考えと同時に「ああならないように」と願っています。
そうすると、気づかない内に、
「ああならないように」という考えの方に意識が向けやすくなって、
気づけば、人生の目標が、
ありのままの自分をのびのびと生きることよりも、
こうあるべきだという形を何とか整えるために、上がったっり下がったりと揺らしながら、葛藤の中を奮闘することになります。
改めて、私自身も長い間、それが当たり前だと思い込んで、
自分の外の判断基準で、何かをするにつけ、
「ちゃんとやれているか」「自分はこれでいいのかどうか」、、と考え、
その評価自体が、あたかも自分の存在価値に直結する、と思い込んでいたこと、
自分のその思い込み自体が、自分自身を窮屈にしていたことに気づきました。
今・この瞬間、
笑って見えようが、しかめっ面をしていようが、
私という存在は、澄み渡る空と同じ、何も欠けていない満ちた存在です。
(私たちの思考では、到底理解の範囲をこえていますが)
自分の思考や判断・解釈を手放して、
うつむく自分も、はしゃぐ自分も、荒れ模様の自分でも
「そうなんだね」と優しく受け入れ、
心の眼・耳で、ありのままの自分を喜びで受け入れていきたいと思っています。
それは同時に、目の前の誰に対しても、
同じように、心の眼・耳を使って、
ありのままのその人を喜びで受け入れ、心で繋がっていく事でもあります。
太鼓の話を聞かせてくれた友人も、心を磨く仲間です。
そのお仲間とも、私の気づきを伝えて、心のキャッチボールができました。
こうやってありのままの自分、誰かを受け入れる心の訓練を、
今年はさらに決意して続けていきます。
