現実としか思えない夢を見たことは? その夢が覚めなかったら君は夢と現実を区別できるか? | 地球の愛と光・本来の姿へ

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現実としか思えない夢を見たことは? その夢が覚めなかったら君は夢と現実を区別できるか?



転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/3c412e7db570509195ee8f50390f1cc2

(ここから)

「現実」

さて、今日はちょっとややこしいお話をしますので、注意して読んでみてください。


僕がはじめてプレイした家庭用ビデオゲーム機は、エポック社の「カセットビジョン Jr.」でした。

ソフトは、「きこりの与作」とか「アストロコマンド」とか。

どうだ、若い世代にはわからないだろう!(笑)


リンク先の動画を見てもらえれば一目瞭然なんだけど、当時のゲームの性能は、今とは全然比べものになりません。

描画はもの凄い大きなドットで構成された、超シンボリックな世界(画面解像度:54×62ピクセル)だし、描画色もたった8色。

音響面でも表現の幅は狭く、SEはあるものの、BGMがありません。


それでも当時は、このゲームを前にして大興奮でした。

夢中で画面にかじりつき、キャラクターの動きに合わせて、自分の体を揺らしていました。


そして間もなく第3世代の「ファミコン」が登場し、その性能の高さに愕然としました。

カセットビジョンの能力を遥かに超えた、細かなビットマップで描かれた世界の中で、色彩豊かなキャラクターたちが画面の中で走り回ります。


その数年後。

PCエンジンやスーパーファミコン、ネオジオなど第4世代に続き、プレイステーション、セガサターン、NINTENDO64などといった第5世代が次々と登場。

販売パッケージは、ROMカセットから光ディスクへと変わり、さらにデータ容量は大きくなり、クオリティの高いゲームが生み出されました。

「ポリゴン」などといった新しい描画スタイルも登場し、ゲーム世界は平面から、奥行きを感じられる世界となり、よりリアリティを高めていきます。


それからさらにゲームのクオリティはグイグイと向上し、いまや凄いことになっています。

描画レベルは実写と見間違えるほどのリアリティ。中には3D対応の立体映像も。

オンラインで繋がって、見知らぬ誰かとゲーム世界で出会うことだって可能です。

Xbox Kinectなら、コントローラーも必要なく、自分の体の動きや声にあわせて、そのまま画面のキャラクターが動きます。


携帯できる小型ゲーム機も、いまや裸眼3Dの第8世代。

なつかしの「ゲーム&ウォッチ」の液晶から、3DSに至るまでわずか30年ちょっとです。

で、いまやそんなゲームの世界にいる彼女と、熱海に温泉旅行に出かけたり、グアムで結婚式あげちゃったり。(笑)


人間が作り出した仮想現実ですら、僅か数十年でもうこのレベルです。

じゃあ、この先技術がドンドン向上していったら?

ゲーム業界だけではなく、世界中のありとあらゆる技術を「仮想現実」の創造に集約していったら?

そのリアリティが、よりとんでもないレベルになっていくことは、容易に想像できると思います。


では、究極的に、神の力を持ってゲームを作りだしたらどうなるのか。

それが、いままさに僕たちの目の前にある「現象界」であり、日々体感しているこの「現実」です。


さてここで、今一度この「現実」というものを熟考してみましょう。

「現実」とは、一体なんでしょうか。


辞書をひいてみれば、そこにはこうあります。


げん-じつ【現実】
いま目の前に事実として現れている事柄や状態。


じゃあ、その「事実」って、何でしょう。


じ-じつ【事実】
実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。本当のこと。


「現実」を調べれば「事実として現れている事柄や状態」って言われて、「事実」を調べれば「現実に存在する事柄」って言われて。

なんだかわからないまま、堂々巡り(笑)。


でもまぁ、この二つをまとめてみると、ニュアンス的にはこんな感じでしょうか。


『いま目の前に起こっている、本当の事柄や状態』


これが「現実」の意味だとして。

その「目の前に起こっている、事柄や状態」を「その事柄や状態」として認識・解釈しているのは、誰でしょう。

そして、それを「本当の事」と認定できる基準は、どこに、どのように存在しているのでしょう。

ここが、問題なんです。



『現実とは何だ?明確な区別など出来ない。五感で知覚できるものが現実というなら、それは脳による電気信号の解釈に過ぎない』

『現実としか思えない夢を見たことは? その夢が覚めなかったら君は夢と現実を区別できるか?』

(モーフィアス:「マトリックス」より)』




結局、その「現実」を認識しているのは「私」という主体であり、また、それを「本当の事」として認定を下すのもやっぱり「私」なんです。

「現実」の意味や価値を作り出しているのは、「私」。


でも、純粋な意味での「現実」や「事実」は、本当は「こうである」と定義することができません。

目の前にある事物に「これはこういうモノである・こういう意味である・こういう価値である」という定義付けが行われている時点で、「その人の(もしくは第三者の)観念」(解釈の制限)が通されているからです。


Aさんがある出来事を「これはこういうモノである・こういう意味である・こういう価値である」と定義して「これは現実、実際に起こった本当の事」と話しても、Bさんにとっては、まるで違うモノに感じられる可能性があります。

たとえば、「誰かの死」。

ある人にとって「悲しい出来事」という現実として目の前にあっても、別な人にとっては「悲しみを伴わない出来事」であることは、よくあることです。

仮に、誰かが殺害されたとして。

それがアナタの家族であった場合と、見知らぬ誰かであった場合では、まったく違う解釈になると思います。


もしかしたら「いや、そんな事はない。それが誰であっても、私は悲しい」と言う方もいらっしゃるかもしれません。

でも、そうだとしたら、ちょっと考えてみて欲しいのです。

なぜ「死が悲しい」のでしょうか。

いえ、僕はいま「死を悲しむべきではない」いう話をしているのではありません。


「死=悲しい」というそのアイデアは、どこからきたものでしょうか。

あなたのオリジナル?

それとも、既にあった誰かのアイデアを引き継いだもの?

ある特定の出来事によって、「悲しい」という感情を引き出す(もしくは結び付ける)結果になったのは、いつからでしょう?


もっと言えば、「死」いうそのアイデアは、どこからきたものでしょうか。

あなたのオリジナル?

それとも、既にあった誰かのアイデアを引き継いだもの?


多分、あなたのオリジナルではなく、既にあったアイデアを、いつの間にか引き継いでいたのだと思います。


そのアイデアは、多くの人が採用しているため、辞書にこう書かれています。

し【死】
生命がなくなること。


では、その「なくなる」と言われる「生命」とは、一体何なのでしょう?

その「生命」という何かが、なくなる瞬間を目撃した人はいるでしょうか?

勿論、「動きが失われていく身体」や「動きが停止した身体」を目撃することはできます。

しかし、そこに「生命」を目撃したことは無いはずです。


「そんなこと言われたって、そもそも生命は目に見えるようなものじゃないから」


では、その目に見えるようなものじゃない「生命」の実在性を、どのように認識しているのでしょう?

そしてそれが「なくなるもの」としているのは、明確な根拠のあるものでしょうか。

それとも、「現在採用しているアイデア」でしょうか。


さらに、「死」だけではなく、あなたが「現実」とみなしているあらゆることは、どのように認識しているのでしょう?

それらは、五感による電気信号以外のカタチとして、その実在性を示せるものでしょうか。

それとも、「現在採用しているアイデアの集積」でしょうか。


(ここまで)

ありがとうございます
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