苦悩は「架空の世界」わかっていれば、「苦しみ」はなくなり、「演じている」という自覚だけが残る。 | 地球の愛と光・本来の姿へ

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苦悩は「架空の世界」であることが、わかっていれば、「苦しみ」はなくなり、「演じている」という自覚だけが残ることになります。

転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/075cae1e69d22a4b9331f45e2592e7c6

(ここから)

「家なき子」

今日は、精神世界でよく語られる「なにもせずとも、本当は皆はじめから悟っている」というキーワードについてお話を進めたいと思います。


「なにもせずとも、皆はじめから悟っている」とか「元から救われている」などと言われても、「はじめから悟っているのなら、わざわざ目覚めようとする必要はないではないか」だとか「最初から悟っているなら、いま目の前にある苦悩や不安はなんなのか。なぜ私は苦しみから逃れられないのか。」という、じれったい疑問が残ったままの方も多いのではないでしょうか。

結局のところ、目覚めを目指せばいいのか、目指していること自体がエゴの策略なのか。

そんな何とも煮え切らないパラドックスに、色々なマスターが色々なアプローチをしているわけですが…



(  ̄▽ ̄)ノ 『本日は、そんな話題を「家なき子」をベースに御説明します。』

( ̄д ̄; ) 「久々に登場したかと思えば、いつもの如く唐突な比喩をもちだしますね。」


(  ̄Д ̄) 『いいじゃん。だってわかりやすいんだもん。』

( ̄д ̄; ) 「それにしても、家なき子かよ…なんなのよ、その微妙な古さ。」


(  ̄Д ̄) 『いいからいいから。さ、説明を進めて。』





若い世代の皆様はピンとこないかもしれませんが…いまから15年前のこと。

野島伸司さん脚本、安達祐実さん(当時13歳)主演で、「家なき子」というテレビドラマが放映されました。

酒乱の父(内藤剛志)と病弱な母(田中好子)を両親にもつ不遇な家庭環境に生きる少女、相沢すず(安達祐実)の苦悩を描いた、ドロドロの悲劇。

劇中の名セリフ「同情するなら金をくれ」が新語・流行語大賞に選ばれるほどのブームとなりました。

父に暴行され、家を失い、学校では虐められ、犯罪に手を染め…と、それはそれは悲惨な人生を辿る悲劇のヒロイン、相沢すず。


この物語を、エックハルト・トールさんが言うところの「自己同一化がもたらす機能不全」と合わせて考えてみます。


もし、この役を演じていた安達祐実さんが、演技に没頭するあまり、本来の自分をすっかり忘れ、自分の事を「相沢すず」だと思っていたら、大変な事が起こります。

「安達祐実」であるはずの自分が「相沢すず」として生きているのですから、そこに「機能不全」が起こります。

ドラマの舞台設定を「現実」だと勘違いしていたら、その思考や行動は、自分の中にある「すず」という人物設定を通して行われることになるので、「すずの苦悩」を「自分の苦悩」として感じ、苦しむことになります。

このとき、仮に自分を「相沢すず(自我・架空のキャラクター)」だと勘違いしているとしても、本当は「なにもせずとも、はじめから安達祐実(真我)」です。


そんな状況から、「ああ!私は相沢すずじゃない!安達祐実だったんだ!」と、本来の自分を思い出せば、例え同じ舞台に立っているとしても、その苦悩は「架空の物語上で描かれている世界」であることが明確にわかっているので、「苦しみ」はなくなり、「苦しんでいるすずを演じている」という自覚だけが残ることになります。

それと同時に「家なき子」という狭い世界から抜け出て、「ああ!わたしが演じられるのは相沢すずだけじゃない!この役も一時的なもの。過ぎ去っていく運命。わたしはこの先、“ガラスの仮面”の北島マヤにだって、“ゴーストハンター早紀”の安部早紀にだって、“大奥”の和宮にだって、“アンパンマン”のドーリィにだってなれるのよ!」と、広大な世界と自由を見出します。

「安達祐実であることを忘れ、相沢すずとして苦しんでいる姿」と「相沢すずを演じ、苦しみを表現する安達祐実」は、傍から見れば同じように見えてしまいますが、本人の意識は全くの別物です。

「家なき子」の撮影中は、ドラマの中での「苦しみ」は相変わらず「苦しみ」のままですが、その性質は、自分が安達祐実であることを思いだした以前・以後ではまったく違うモノです。


この様な例えでお話すると、とても馬鹿馬鹿しく見えるかもしれませんが、悲しいかな、そんな馬鹿馬鹿しさに気づかずにいるのが人間です。


自分の経歴や肩書き、生活環境、人間関係など、自分を取り巻く環境や要素によって「自分」という人物設定を築き上げ、本当の自分を忘れてその役を演じています。

ある人は「母」を、ある人は「社長」を、ある人は「学生」を演じ、脚本のない、完全アドリブの舞台に立っています。


「自分」と「役柄」を切り分け、何も演じていない素の自分を思い出すことが「目覚め」と言われるものです。

目覚めや悟りと言われる経験を通して見つけるものは「聖人君子となった自分」ではなく、「素の自分」です。

「目覚め」に対して、何か特定のイメージを持ち、そのイメージに向けて自分を高めていく努力を行っているのだとしたら、それはエゴの策略に嵌っています。

そのイメージは「素の自分」ではなく、「エゴが望む次の役」だからです。

そうではなく、自分が今どんな役を演じているのかを見抜き、日常的に行っている自己演出・セルフプロデュースに気付き、それを踏まえて役を降りることを目指しているのであれば、それは目覚めのプロセスとなりえます。




(  ̄Д ̄) 『相沢すずが新たな役柄を思い描くのではなく、相沢すずという役から離れ、安達祐実に帰って行く試みが、「瞑想」といわれるものです。』


なんだろう、この例え… (-公-;)

(ここまで)

ありがとうございます
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森林の中の光の撮影です。

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