瞑想。「今の自分を観察する」=「今という瞬間を意識する」=「今、ここにいる自分に気付いていく」なんです。
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/b98200a3be59d076f8dcf80dca37a245
(ここから)
「ヴィパッサナー」
う~ん…
やっぱり伝わってないのかな…
「私が、知っているということを知っている」
「私が、感じているということを感じている」
「私は、理解していないということを理解している」
などのように、自分の置かれている状況、自分が感じていることを、外から客観的に捉える事を『メタ認知』と言い、
また、
ありのままの自分を観察することを『ヴィパッサナー』と言います。
それは、「何かをする」ということではなく、心身を「今」「ここ」に集中させ「“今ここ”に戻っている状態」のことです。
何をしていても構いません。
座禅を例に取ると、座りながら自分を観察して「今ここ」に戻る。普段忘れている、息を「吸う・吐く」などの行為をきちんと意識する。
座りっぱなしで足が痛くなっても、それを痛いと思うのではなく、痛い自分を観察する。
余計なことが頭に浮かんできたら、それを否定するのでも、追いかけるのでもなく、「余計なことを考えている、余計なことを考えている…」とそれだけを観察する。
というお話をさせていただき、 次いで『大切なのは、「やり方」ではなく、「あり方」』です。
と書いた傍から
「質問なのですが、ヴィパッサナー・メタ認知はどうすればできるのですか?」
と聞かれて…
僕はなんと答えれば良いのでしょう?
いえ、このコメントを残してくれた、まことさんを責めているわけではないのです。
それは多分素直な気持ちでしょうし、まことさんと同じ事を思っている方も少なからずおられるんだと思います。
ただ…。僕自身、そんなに難しい事を書いたつもりもないし、どちらかというと、かなりわかりやすく説明できているつもりでいたものですから、その反応に困惑しているんです。
まさに、「思い通りにならないことばかり」ですね。w
と、言うわけで、今日はもう少しヴィパッサナーについて書いてみたいと思います。(とはいえ、どうしてもお話する内容は、同じ事の繰り返しになってしまうのですが…)
「ヴィパッサナー」はパーリ語です。
Vi(ヴィ)が「ありのままに・客観的に」と言う意味で、Passanaa(パッサナー)が「(心の目で)観る・観察する」と言う意味です。
つまり、『今という瞬間の自分を感じる(心の目で観察する)』というニュアンス。
ですから、「ヴィパッサナー」と「メタ認知」というこの2つ、言葉は違えど、言っていることは同じです。
その言葉の意味するところは、『自分を観察する』ということです。
なんてことはない、ホントにそれだけの事なんですよ。いたってシンプルでしょ?
(だから、「どうすればできるんですか?」と聞かれても、「どうするもこうするも、自分で自分を観察してください。」としか答えようがないんです。)
では次に…
「ありのままに観る」ということは、必然的に、イコール「今を観る」ということなるのですが、これはわかってもらえますか?
過去に起こった事が、今もそのままということはありません。
物事は絶えず変化するから、1分前に起こったことを観察することもできません。
何かに記録したものを観察するのでは、「ありのまま」を観察しているとはいえませんよね?
(仮に、ビデオに撮った自分の姿を、モニターを通して観察しても、それは「ありのままの自分」を観察してるんじゃなくて、「モニターに映った自分」を観察しているに過ぎないんです。
まして、撮影時の自分と、観察時の自分とでは、すでに変化しています。)
未来に何が起こるかを予測するということも、その対象を観察しているとは言えません。
「こうであって欲しい」という希望的観測を交えることも、当然「ありのまま」とは言えません。
「ありのままを観察する」ということは、「今を見る」ことでしか実現出来ないわけですよ。めっさ当たり前の話だけど。
ですから、「ありのままを観察する」ということ自体が、「今に戻る」という状態に繋がるわけです。
でね、何かを観察していると、そこに「発見」が生まれるじゃないですか。
「お湯が沸騰している」という現象を観察していれば、「あ、水は熱すると蒸発するんだ。液体から気体へ変わっていくんだ。」ということに気付けるじゃないですか。
だから、それと同じことで、「自分」という現象を観察すれば、「あ、自分ってこうなんだ。」ってことに気付けるんです。
小学校の理科で習っていたことと同じわけですよ。やってることは。
ただ、小学校では「アリ」とか「葉っぱ」とかは散々観察してるわりには、「自分」ってものを観察してないんですよ。驚くことに。
そりゃ、「皮膚や毛の様子を顕微鏡で覗いてみよう」ってな事はしてましたけど、それはあくまで「皮膚」や「毛」を観察しただけであって、「自分」を観察したことになっていないですよね。
顕微鏡を覗いて「へー!毛ってこういう構造になってるんだー!」という気付きが起こるように、アリの巣を覗くことで、その生態を知ることが出来るように、自分を観察することで、必ず「へー!自分ってこういう仕組みになってるんだー!」という発見に出会えるんです。
だから、自分を知るために、自分を発見するために、「ありのままの自分を観察する」んです。
たんに、それをしましょう、というだけのことなんですよ。
「瞑想」っていうと、どこか神様に出会うための儀式とか、何かを念じたりとか思っちゃってるとこがあるかもしれないけど、全然そんな事じゃないんです。
精神論とか、思想とか、信仰とか、そういうことじゃないんですよ。むしろ、すっげー科学的です。
ただ、科学と違うのは、観察する対象が「物質ではない」ということぐらい。
顕微鏡で覗くことのできない、「心」や「心と体の繋がり」を観察するんです。
とにもかくにも、「偏見や思い込みに囚われることなく、注意深く観察する」というだけの話ですから、「テクニック」とか「コツ」とか、そういう事じゃないんです。
「ありのままに観る」というスタンス(あり方)があればいいだけ。
わかりますか?
「今の自分を観察する」=「今という瞬間を意識する」=「今、ここにいる自分に気付いていく」なんです。
自分の動作、行動、感情、それらに気付いているかどうか、それだけの話なんです。
それだけの話なのですが、実際にやってみればわかります。
不思議と、自分を観察するのは難しいです。
自分で自分を観察しようと思っている時に、「自我」が、自分を観察することを邪魔しに来るんです。
そこで初めて、「自分」と「自我」の違いが見えてくると思います。
ってとこでどうでしょう?
伝わってる?
(ここまで)
ありがとうございます。
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