観念が変わらなければ現実は変わらないんだ。社会のせいにできることなんか何があるだろう。 | 地球の愛と光・本来の姿へ

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観念が変わらなければ現実は変わらないんだ。社会のせいにできることなんか何があるだろう。

転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/36c604a666a046cb54b881b36f893978

(ここから)

「宇宙立この世学院.8」


本日のエントリは長文となります。(とはいえ、そのほとんどは「引用」なのですが。)

でも、とても大切な内容ですので、「じっくり」時間をかけてご覧いただきたく。。。

<(_ _ )>





 多くの人は、社会というものが、何かそのようなものとして存在していると漠然と思っている。

でも、考えるということは、漠然と思うことではなくて、正確に知ることだ。さあ、「社会」というものを、その正確な形で思い浮かべてみよう。

いや、社会というのではあまりにも漠然としているというのなら、学校でもいい。

小さな社会としての「学校」というものを、正確な形で思い浮かべてみてごらん。

これが学校ですと、明確に示してみてごらん。

 君はまず、学校の校舎を思うかもしれない。でも、それは学校の“校舎”なのであって、それが学校なのではないね。

次に君は、学校にいる人々、いく人かの先生とたくさんの生徒を思うかもしれない。でも、それは学校にいる“人々”なのであって、それが学校なのでもない。

あるいは、学校の授業の風景や、規則の数々のことを思うだろうか。でもそれも、学校の授業や規則ではあっても、それが学校そのものというわけではない。

じゃあ、これが学校だと言える何かを、目に見える形として示すことはできるだろうか。

 できないね、すごくおかしなことだけど、「学校」なんてものを、目で見たことのある人はいないんだ。

なのに人は、それが何か目に見える物のように、自分の外に、自分より先に、存在しているように思い、事実そのようにして毎日を生きている。

「社会」というものもこれと同じなんだ。いや、「学校へ行く」とは言えても、「社会へ行く」とは言えないのだから、人が漠然と「社会」と言う時の曖昧さはそれ以上だ。「社会」なんて、いったいどこにどのように存在しているのだろう。

 (中略)

 で、「社会」というのは、明らかにひとつの「観念」であって、決して物のように自分の外に存在している何かじゃない。

だって、何かを思ったり考えたりしているのは自分でしかないのだから、どうしてそれが「自分の外」に存在しているはずがあるだろう。

「社会」は、観念として、自分や皆の「内に」存在しているものなんだ。いや、「内・外」という言い方は、「自分」を考えるとあり得ないということも先にわかったね。

物のように外に存在しているかのように思われる「社会」、社会という現実は、皆が内で思っているその観念の、外への現われだ。観念が現実を作っているのであって、決してその逆じゃないんだ。

 このことに気がつくことはすごく大事なことで、うまくこれに気がつくことができると、すべてがそんなふうにできあがっているということもわかるはずだ。

「社会」なんてものを目で見た人はいないのに、人はそれが何か自分より先に、存在するものだと思っている。

思い込んでいるんだ。それが自分や皆でそう思っているだけの観念だということを忘れて、考えることをしていないから、思い込むことになるんだね。

でも、自分の外に存在しているかのように思われる社会というものを、それならよく見てごらん。

その社会に存在しているのは、やっぱり同じように思い込んでいる人々がいるばかりじゃないか。

その人々の集まりのことを、「社会」と呼んでいるだけじゃないか。

 「ない」のに「ある」と思い込まれたものは、当然あることになる。

自分の外に物のようにある社会は、当然自分に対立してあると思われることになる。

社会は個人を規制するわずらわしいもの、個人主義のあの彼の捉え方だ。

その極端なのが、わかるね、自分に都合が悪いことはすべて、「社会が悪い」「社会のせいだ」というあの態度だ。

でも、社会が自分の外にあると思っているのは、他でもないその人だ。

自分でそう思い込んでいるだけなのに、じゃあその人はいったい何を責め、誰が悪いと言っていることになるのだろう。

 社会を変えようとするよりも先に、自分が変わるべきなんだとわかるね。

何でもすぐ他人のせいにするその態度を変えるべきなんだ。

だって、すべての人が他人のせいにし合っている社会が、よい社会であるわけがないじゃないか。

社会は、それぞれの人の内の観念以外のものではないのだから、それぞれの人がよくなる以外に、社会をよくする方法なんてあるわけがないんだ。

現実を作っているのは観念だ。観念が変わらなければ現実は変わらないんだ。社会のせいにできることなんか何があるだろう。


※以上、「14歳からの哲学」(池田晶子著)より抜粋。



巷でまことしやかに囁かれている「アセンション(次元上昇)」という言葉。

僕は、この言葉の指す意味は、この「宇宙立この世学院高等学校のレベルアップ(偏差値向上)」だと思っている。

どうだろう。聞きなれない「アセンション」や、何を指しているのか分からない「次元」という言葉よりは、よほど捉えやすいと思うのだが。


この「学校(この世)のレベルアップ(偏差値向上)」という比喩と、先にご紹介した内容を組み合わせて考えてみて欲しい。


「学校」は、物質として存在しない観念的な存在。

では、その実像を持たない「学校」のレベルを上げるということは、どういう意味だろう。

校舎を新しく、より大規模に、よりキレイに磨き上げることだろうか。

いや、それでは単に建物がレベルアップしただけであって、「学校」がレベルアップした、と言うことにはならない。

それを証拠に、世の中のあらゆる学校を見渡しても、「校舎の大きさ・新しさ」と「学力・偏差値」が比例しているわけではない。

どんなに環境を整えても、どんなに立派な校舎を用意しても、そこで学ぼうという意欲そのものがなければ、そんな環境など、何の役にも立ちはしない。


では、教員のレベルを上げるということだろうか。

これも違う。だって、そもそもここの生徒達は教員の話に耳を傾けるどころか、その存在すら確認できてないのだから。

(ましてや、自分達を超える、そんな存在などいるわけがない、と思い込んでいる人間の数のほうが、圧倒的に多いのだから。)教員を入れ替えたところで、何も変わりはしない。

教師はひたすら、生徒達が自分達の話に耳を傾けてくれることを、辛抱強く待つしかない。


学校のレベルを上げる方法、それは、環境ではなく、生徒達自身の「学力・偏差値」を向上させる以外、術はない。

誰かや何かに頼るのではなく、生徒達(私達)自身が変わらなければ、何も変わらない。

無論、勉強そのものを始めてもいない私達の学力が、ある日突然、何か得体のしれない力によって向上するなどということもないだろう。

学力を向上させるには、当然、それなりの努力が伴うからだ。

今、私達がしなければならないのは、勉強のスタートラインに立つことだ。

「学力」以前に、少なくとも「学ぼうとする力」を持たなければ、この学校を卒業したとしても、就職先も、進学先もありゃしない。


「マーフィーの法則だ」「引き寄せの法則だ」と浮かれて、「新たな教科書・教材」を引き寄せるのは、そろそろ、やめにしないか。


引き寄せるべきは、「教科書・教材」ではなく、その先にある「学力」だ。

(ここまで)

ありがとうございます
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森林の中の光の撮影です。


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