私の認識は間違っているのかもしれない、歪んでいるのかもしれない」その可能性を認めたとき、初めて「気づきの扉」が開きます。
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
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(ここから)
「現実」
『そして今年は、その気づきを迎え入れる為の具体的な方法もお話したいと思っています』
前エントリにて、上記の様な事を書いてしまい、「本当に大丈夫?」となっている<低次の自分>こと黒斎です。こんばんは。
さて、唐突ではありますが、今日は「現実」というものを改めて考えてみたいと思います。
僕たちは日常生活を送っている中で、「いや、現実的に考えてさ…」なんて言葉を言ったり聞いたりしていますが、この「現実的に考えて」の「現実」って、一体なんですかね。
辞書では以下の通りでした。
*****
げん-じつ【現実】
いま目の前に事実として現れている事柄や状態。「夢と……」「……を直視する」「……に起きてしまった事故」
*****
「理想」の対義語や、「真実」と同じような感じで使われていることが多いように思います。
僕たちは皆、いま目の前に事実として現れている事柄や状態を「現実」と捉えて生活しています。
なのですが、あなたが「いま目の前に事実として現れている事柄や状態」は、本当に「現実」でしょうか。
実は、僕たちが普段「事実」や「現実」と捉えているもののほとんどは、個人的なフィルター(僕たち一人ひとりがこれまで生きてきた中で形成された、個人的な知識や思考回路)を通して歪められた世界「マトリックス」でしかありません。
僕たちは「現実、現実」と軽々しく口にしますが、実はこれっぽっちも現実をありのままに捉える事は出来ていません。
その可能性を認めて世界を見つめ直すと、徐々に世界の見え方が変わっていきます。
このこと、この調子のまま書いていくと、なんだかワケがわからない説明になってしまいそうなので、竹彩さんの「じゆうちょう」からあるネタをお借りして、ものっすごくユルい感じに変換してお話してみたいと思います。
こないだね、竹彩さんの「じゆうちょう」を何気に開いて見たら、こんなものを発見したんですよ。
ドン!
…お嬢さん、ドライモンて。
藤子不二雄の名作も、カラッカラに干からびそうになってるじゃないですか。
そこでね、突っ込んでみたんですよ。
( ̄д ̄;) 「竹彩、おまえ、カタカナの『エ』と『イ』を間違えて覚えているぞ(他にもツッコミどころはあるけれど)」
と。
そしたらね、竹彩さんは、
川*≧д≦)ノ 「間違ってないもん!ちゃんと習ったもん!」
と、全力で反発するんですね。
で、つづけて
川*≧д≦)ノ 「ドライモンはドライモンでしょ!」
と。
(;゜ Д゜) ……あ、書き間違いじゃなくて、そこから間違ってたんですね。
で、「もしや」と思って、こんな質問をしてみたんです。
( ̄д ̄;) 「なぁ竹彩、これ、なんて言うか知ってる?」
と、ここを指差して聞いてみたんですね。
そうしたら、自信満々でこう答えました。
川*≧▽≦)ノ 「ご機嫌ポケット!」
(;゜ Д゜) やっぱり違ってた!
竹彩さんにとっては、「ドラえもんの四次元ポケット」ではなく、「ドライモンのご機嫌ポケット」だったわけです。
でも、それは彼女の中では、「間違い」ではないんですね。ましてや「問題」でもない。
「間違いである」という認識すらなく、それが彼女の「事実」「現実」としてそこにあったわけです。
で、さらに。
今度は雲さんから僕にツッコミが入ります。
(  ̄Д ̄) 『思い込みってのは、いろんな所に潜んでるよな。竹彩同様、お前もまた自分の思い込みで、いままさに目の前にある事実を歪んで捉えてしまっていたんだから』
( ̄д ̄ ) 「え? 僕も?」
(  ̄Д ̄) 『だってそうだろ。竹彩は「ドラえもん」を「ドライモン」と覚えていたということを前にして、お前は竹彩が「エとイを間違えて覚えている」と勝手に勘違いしていたんだから』
Σ( ̄д ̄;) 「あ…」
(  ̄Д ̄) 『思考は、いつだって事実に自分独自のストーリーを書き加える。
そして、そうやって自分で事実に脚色していることにも気づかぬまま、その脚色を加えられたストーリーを「現実(事実・真実)」だと信じて疑わない。
そこに明らかな間違いがあったとしても、それは「現実」として認識されている。
これはこういう意味だ、とか、これはきっとこういう価値だ、とか、そういう思い込みがあるかぎり、ありのままを捉える事はできないと、何度も話しているじゃないか』
自分の思い込みに気づくのって、ホントに難しいですよね。
だって、「そうだっ」て、心底思い込んでるんだから。
自分の認識が間違ってるだなんて、疑ってもいないから。
自分の認識したいように、認識しようとしてしまうから。
知らないことも、自分の知識の範囲で知ろうとしてしまうから。
と、いうことで。
あなたの目の前にある現実は、本当に「真実」ですか?
あなたが認識している世界は、本当に「リアルな世界」ですか?
あなたが思っている「自分」は、本当に「あなたが思っているような自分」ですか?
あなたが思っている「あの人」は、本当に「あなたが思っているようなあの人」ですか?
あなたが思っている「あの価値」は、本当に「あなたが思っているような価値」ですか?
あなたが思っている「あの出来事の意味」は、本当に「あなたが思っているようなあの出来事の意味」ですか?
「もしかしたら、私の認識は間違っているのかもしれない、歪んでいるのかもしれない」
その可能性を認めたとき、初めて「気づきの扉」が開きます。
しかし、その可能性を認めることは、とても屈辱的なことです。
だからこそ多くの人は、あらゆる思い込みや決めつけを手放したがりません。
「私はこういう人間である」「あいつはああいうヤツなんだ」「これはこういうことなんだ」「こういう現実が目の前にあるのだから、私は怒りを持って当然なんだ」「こんなことが起きたのだから、私は悲しんで当たり前なんだ」
そうやって、それがどんなに自分を苦しめるものであろうと、嫌な気分にさせるものであろうと、握り締め続けてしまいます。
でも、自分の認識を疑うという屈辱をあえて選択し、「気づきの扉」の向こうに出れば、そこには「ドライモンのご機嫌ポケット」が待っています。(←無理やりなオチの付け方ですが何か?)
(ここまで)
ありがとうございます
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