「目覚め」、理解が、何かを得たことによって訪れたのではなく、何かが無くなったことによって訪れた
無くなった「何か」とは、「思考(自分独自の認識回路)」別名「自我」です。
「もっと あの世に聞いた、この世の仕組み」から
転載元:
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/c050588273bceda9adc46791555d01a9
(ここから)
今日は、数年ぶりのアハ!ピクチャーを使って、やわらかアタマ体操です。
では早速。
これな~んだ?
第一問
第二問
第三問
認識の違い
さて、久しぶりのアハ!ピクチャーはお楽しみいただけましたでしょうか。
「わからないよぅ」とお嘆きの皆さん、一応、コチラに答えをご用意いたしましたので、ギブアップの際はご参照くださいませ。
それにしてもこのアハ!ピクチャと、僕たちの「理解」や「認識」のメカニズムって面白いですよね。
目の前にある絵は何一つ変わっていないのに、「アハ!」っとなった途端にそこにある「何か」が見えてくる。
まったく同じものを見ているのに、ある人には捉えられて、ある人には捉えられない。
最初っからそうとしか見えない人もいるし、ちょっとしてから「これだ!」ってわかる人もいれば、「たぶん…、これかなぁ?」という人もいる。
「まったくわからねーよ!(ボビー・オロゴンチックに)」という人に、「○○が描かれているんですよ」と答えを教えてもなお、「え、そうなの?」ということもありえます。
「答え(情報)」を提示しても「答え(理解)」として機能しないという現象が起こります。
「理解」は、そのまま流通させることができません。
外側から何らかのカタチで伝えようとしても、それは「情報」というものに成り代わってしまいます。
「理解しろよ!」って大声を張り上げても、わからないものはわからない。
「理解したい!」って努力しても、わからないものはわからない。
でも、そういった「努力」などの要因が無くとも、不意に「あっ!」ってわかっちゃったり。
これはもう、「こういう原因において認識できました」とかいう因果を超えちゃってるんですね。
つまり、僕たちが日々経験している「理解」というものは、「する」のではなくて「起きる」という仕組みで働いているんです。
理解は、「する」ことも、「させる」ことも出来ない。「起きる」なんですね。
そして、いわゆる「目覚め」や「アセンション」、「さとり」等と呼ばれているものも、これと同じメカニズムで訪れます。
「さとり」をもっと身近な言葉に置き換えれば、やっぱり「理解」なんですね。
宗教でよく言われるところの『汝自身を知れ』という、究極のアハ問題に対しての「わかった!」なんです。
そしてまた、その体験後にある状況もまた「アハ!ピクチャ」と同じです。
目の前にあるものは、それまで目の前にあったものと、何一つ変わりがないんですね。
気づいていようが、気づいていまいが、目の前にあるものは全く同じ。
でも、その中に、「いままで捉えきれないでいた何か」をありありと見ることができるんです。
そのことを「神」という人もいますし「光り輝く生命エネルギー」なんて表現する人もいます。
そして、「どうしてこれが今まで見えなかったんだろう」という、不思議な気持ちにもなります。
「いままでだって、ずっと同じものを目にして生きていたのに」って。
そして、自分に何が起きたのかをより深く理解できていくと、「それが見えた要因」ではなく、「それが見えずにいた原因」がわかりだします。
その理解が、何かを得たことによって訪れたのではなく、何かが無くなったことによって訪れたということがわかります。
その無くなった「何か」とは、「思考(自分独自の認識回路)」です。
そのことを、別名「自我」と呼んでいるんですね。
(ここまで)
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ありがとうございます。
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