自我の抵抗
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先日、福岡で開催した「阿雲の呼吸」にて阿部さんと一緒に、同じく「自我」をテーマにお話してきました。
その場でもちょっとお話したのですが、この「自我」というテーマは、実はとっても話しづらいものなんです。
自我は、日々自我自身を存続させることを何より大切にしています。
変な話なのですが、自我は自我自身を存続することができるなら「死んでも構わない(肉体を失っても構わない)」というぐらい、何より自我を必死に守ります。
なのですが、僕や阿部さんが最終的にお話したいことは、そんな自我の望みとは真逆にある「自我の消失」ということなんですね。
つまり、このお話の帰結となる部分は、自我にとって「一番聞きたくない内容」なんです。
だからこそ、そんな話が始まると、自我はもの凄く抵抗します。
◎聞いたフリだけしといて、大事な部分は聞き流してしまう。
◎「他の人には当てはまるかもしれないけど、私には該当しない」と他人事にしてしまう。
◎「そんな話はウソ・デタラメ・間違いだ!」と聞き入れる姿勢を持たない。
◎話させない。(話し手を消し去れ!)
自我というものの性質が明らかになればなるほど、自我にとって都合が悪くなってしまうので、それはそれは必死で抵抗します。
ありとあらゆる策を練って、話を聞かなかったことにしようとします。
そして実際に、「自我」を明らかに示そうとしたばかりに、殺されたり、殺されかけた人も少なくありません。
本人が伝えようとしていたこととはまったく違う解釈をされ、悪人に仕立て上げられていったマスターも数知れずです。
だからこそこの真実は、これまで世に広まることがありませんでした。
広げようとしても、広がったころには、自我の都合に合わせた解釈に成り下がり、大きく歪められたメッセージとなってしまいました。
それぐらいデリケートな内容なんです。
ですから、ここから先のお話を、この不特定多数が目にすることが出来る「ブログ」という媒体の中で、どういう風に書けばいいものなのか、正直とても迷っているんです。
そのことをそのまま書いていったとしたら、多分、書けば書くほど僕は嫌われ、読者が減っていくことでしょう。
(T▽T) ………
うん。それは避けたい(笑)。
ですので、ちょっとずつ、ちょっとずつ、抵抗なく聞いてもらえそうなところから書いていくことにします。
とはいえきっと、人によっては抵抗感のある話。
まぼろし
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精神世界を学んでいく中で、「自我を捨てる」だとか「自我を手放す」なんていう表現に出会うことがあります。
僕も、お話の流れ上、そういった言い方をすることがあります。
ですが、厳密にいうと、自我は捨てることも、手放すこともできません。
なぜなら、捨てたり手放したりする何かが実在しない「まぼろし」だからです。
「自我」は、存在しますが、実在していないのです。
このこと、上記の言葉だけだと、ちょっとわかりづらいと思いますので、あるものに例えてお話したいと思います。
「自我」は、テレビゲーム『SUPER MARIO BROS.(スーパーマリオブラザーズ)』に出てくる主人公、「マリオ」のようなものです。
「マリオ」と、その名前を聞くだけで、多くの方がパッとあの髭のおじさんを思い出せるように、マリオは皆さんの記憶の中に、確実に存在しています。
なんせ、「ゲーム史上、世界で最も知られているゲームキャラクター」として、ギネスブックにその名が記されるほどですからね。
でも、その「存在」はゲーム上に限っての話。あくまで架空の存在です。
マリオのコスプレをしたおじさんに会うことができるとしても、それはマリオと会ったことにはなりませんよね。
マリオがマリオとして、実在しているわけではないのです。
「マリオ」は、存在しますが、実在していません。
「自我は、存在するけど、実在しない」というのは、そういうニュアンスの意味です。
あのゲーム上でマリオが死んだとしても、マリオは実在しませんから、実際は何が死んだことにもなりません。
あのゲーム上でどれだけコインを得ようとも、実際は何も得たことにはなりません。
それと同じように、
自我を捨てたとしても、自我は実在しませんから、何を捨てたことにもなりません。
自我が死んだとしても、自我は実在しませんから、何が死んだことにもなりません。
自我が何かを得ようとも、実際は何も得たことにはなりません。
いま現在「自分」と思っている《自分》は架空の存在であり、本当は実在していないんです。
いわゆる「目覚め」と呼ばれる体験は、その《自分》というものが実在しないことを見抜く、そのことです。
それはまるで、「私はマリオだ」と思い込んでゲームをしていた人が、「あ、俺、マリオじゃない!プレイヤーじゃん!」と我に返るのと、同じようなものです。
想像してみてください。
もし自分が「プレイヤー」としての自覚を失い、「私はマリオである」とキャラクターとすっかり自己同一化した状態で『SUPER MARIO BROS.』をプレイしていたとしたら……。
多分、様々な障害を目の当たりにして戦々恐々。「Bダッシュ」すらできないと思います。
いや、マジで。
だって、ちょっとカメにぶつかったぐらいで死んじゃうぐらい貧弱なおじさんなんだもの(笑)。
あれほど驚異的なジャンプ力で、さらには素手や尻餅でレンガを崩せるぐらいなのにね。
……あ、すいません。横道にそれました。
キャラクター(自我)と自己同一化していると、ゲーム(架空の世界)が現実のように感じられ、それ故に目の前にある状況は緊迫したものになってしまいます。
しかし、プレイヤーとしての意識にシフトすることができたら……。
目の前にあるゲーム画面に何の変化がないとしても、きっと大きな安堵が訪れることでしょう。
そしてまた、プレイヤーとしての自覚をもって、それまでより軽快にゲームを楽しむ事ができます。
つまり、「自我を捨てよう」というメッセージは、自ら築き上げてきた「キャラクター(自分像)」との自己同一化をやめよう、というニュアンスのものです。
そこで捨てるのは「自分像(もしくは世界観)」という『イメージ』でしかありませんから、実質的には、何を失ったことにもなりません。
なので、本当は何も恐れることではないんです。
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ありがとうございます。
引き寄せの法則、宇宙の法則