案の定、数分もしないうちにそれはやってきた。そして再び思考を支配されていく。透明な血管に脈々と流れる透明な血液。それはよく見てみると内側というよりは、表面に存在しているようだった。アリの行進に似ている。一つ一つの細胞に小さな管がありその中をアリがせっせと進んでいくのだ。恐る恐るながらもそっと手を伸ばす。だけどもその血管に触ることは出来なかった。表面に見えるのは何かの錯覚だろうか。軽く爪で引っ掻いてみると、それは机の上に垂れた水滴のように分裂していった。いったいこの血管の様なものは何なのか、そしてどこへ繋がっているのか。自分の体であり、自分の体ではないような不思議な感覚だった。その血管のようなものに取り憑かれてさえいるように全感覚をそこへ集中させていく。どのくらいの時間、そうしていたのだろうか。私は遠くにチャイムの音を聞きトイレを出る。また「私」が来たのだろうか。今度はゆっくりと玄関へ向かった。そして覗き穴を覗く事なく返事をした。
「はい。」
自慢ではないがこういった不思議な出来事に対する順応性は高い方だ。ただ単に鈍感なだけと言われればそうかもしれない。
ところが相手は「私」ではなかった。
「こんにちは、隣に越してきた片栗です。」
私と同じくらいの年齢だろうか、男の声だった。私は何のためらいもなくドアを開けた。 
「隣に越してきた片栗です。つまらないものですがこれを。」
男が差し出したのは5つセットのBOXのティシュだった。そしてその上にちょこんと何かが座っていた。よく見てみるとヒョロヒョロっとしたパスタのような体にマッチ棒の様な顔がついている。これは彼にも見えているのだろうか。聞きたくなったが、仮にもし見えてなかったとしたら私は変な人だと思われるに違いない。喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。そして何もなかったようにティシュを受け取りドアを閉めた。
さて、この生き物はなんだろう。

「今ドアを開けてはダメ。貴方にはまだ早いわ。」
いったいどう事だろう。私はドッペルゲンガーにまつわる話を思い出した。確か自分にそっくりな人を三人見ると死ぬと言う都市伝説的な話。「私」はそれだけ言うと帰っていった。暫くは緊張と恐怖から震えが治らなかった。それでも話の真意を冷静に考えようとしたが、空腹には勝てなかった。キッチンへ戻り、フライパンのままパスタを食べた。食べ終わると洗い物を済ませソファーに寝転んだ。不思議な事に空腹が満たされると、さっきの「私」に対する恐怖が薄れていた。それと同時に太ももが気になった。なんであの時、あんなに太ももが見たかったのだろう。私はソファーに座りなおすと、自分の太ももをじっと見つめた。だけども、そこにあったのは何の変哲もない普通の太ももだった。当たり前だ。太ももは太もも以外の何でもない。そう思っていたら再び腹痛に襲われた。全てを放棄しトイレへ駆け込む。まただ。私は痛みを我慢しながら、太ももが見たくて見たくて見たくて仕方がなくなっている事に気付いた。もうそれは普通の太ももではなかった。いや、普通ではあるのだが、血管や細胞が顕微鏡で覗いたかのようにはっきりと見える。そしてそこには聞いたこともない透明な血液が流れていたのだ。思わずその透明な血液に触れてみたくなった。恐る恐る手を伸ばす。それを止めるかの様にポケットに入っていた電話が音を立てた。画面を見てみると非通知だった。普段なら非通知は絶対にでないのだが、何故かでなくてはいけない、そう思い通話ボタンに指を伸ばした。
「もしもし。」
だが電話越しの誰かは何も答えない。
「もしもし。」
何度声をかけても返事らしい音はしなかった。諦めて電話を切ろうと指を動かした瞬間、何やら声が聞こえてきた。
「…してはダメ。」
「もしもし。」
「まだドアを開けてはいけない。」
私の声だった。
「どちら様ですか。」
思わずそう質問していた。二度目ともなると最初程の動揺はなかった。
「私はあなた。あなたは私よ。」
言い回しなど細かい部分を除き、予想通りの返事が帰ってきた。やはり私なのだ。
「私はなぜ私の家や電話番号を知っているの。」
「何を言ってるの。私はあなたであなたは私よ、当然じゃないの。」
言われてみればそうだったが、私の中では相手が私だと言う事をまだ飲み込めていないのだ。見た目や声は確かに私なのだが、似ている人はいくらでもいる。そして恐らく彼女は私のソックリさんなのだと。これ以上正体について質問したところで結果は見えていた。それよりはもっと大事な事を聞かなくてはならない。
「何のドアを開けないようにすればいいの。」
さっきはドア越しだった為、玄関のドアの事を言っているのかと思っていたが、どうやらそうではなさそうだった。
「それは答えられないわ。でもとにかくドアを開けてはダメ。そのことはわすれないでね。」
そう答えると彼女は何の前触れもなく電話を切った。酷い話だ。ドアを開けるなと言っておきながら何のドアかは教えられないと。私は恐怖よりも苛立ちを覚えていた。
そしていつの間にか腹痛は治まっていた。だけどもこのままトイレにいることにした。またすぐ原因不明の腹痛がやってくるかもしれない。


腹痛から解放されトイレを出ると玄関ではチャイムが鳴っていた。しかも一度や二度ではなく休む間もないくらいに連打されている。居留守を使ってると勘違いでもされたのだろうか。そんなはずはない。なぜなら私は今、旅に出ている事になっている。親交のある人はもちろん私の周りの人はそう思っているはずだった。だから荷物が届くという事もない。そもそも私の家を知っている人は数名しかいないのだ。私は気づかれないよう静かに覗き穴から向こう側の様子をうかがった。
そこには、私が立っていた。
そこにいるのは分かっているのよと言わんばかりの私が、私の家の玄関でチャイムを鳴らしているのだ。
驚きのあまり私は呆然と立ちつくすしかなかった。頭が真っ白になるとはよく言ったもので、言葉の通り真っ白になっていた。いったい何が起きているのだろうか。考えても考えても考えても一向に答えは霧の中だった。だけどもこのまま立っていても、ドアの向こう側の私は諦めてくれそうもなかった。こんな時、小説だったらどうするだろう。逃げ出すにもここは3階でベランダからの脱出は不可能だし、ベランダは隣と繋がっていないから助けを求めることもできない。かと言って警察に助けを求めるのも気がひける。なぜなら相手が私だからだ。
ひとまず私は見なかったことにして返事をしてみた。学生時代、演劇部だったからこの位の演技なら朝飯前だった。