寺山修司さんのこと | ナレーションから社会が見える

寺山修司さんのこと

54日は命日です。


実は寺山さんの仕事の事はほとんど知りません。

「書を捨てよ街へ出よう」も文庫本で読み始めましたが、よくわからなくて捨てました。

そんな寺山さんには可愛がってもらいました。

自分でそう思っているだけで、寺山さんは迷惑だったかもしれませんが。


私にとって寺山修司さんは、ただの競馬好きなにーちゃんでした。

函館競馬場でエリモジョージの勝った函館記念のあと、騎乗した福永洋一のコースどりの良さを滔々と語ってくれました。

競馬はこういう風に見るんだという事を教えてくれました。

パドックでも一頭一頭、見方を教えてくれました。

東京競馬場ではいつも同じ所に座っていました。

出張のついでに訪ねていくと、ニヤっと笑ってお尻を少しずらして座る場所を作ってくれました。


渋谷ジャン・ジャンや浅川マキを教えてくれたのも寺山さんでした。

当時の私はまだお酒も飲めない田舎の若者だったので、知らない世界で名前だけは聞いた事のある都会の人の前でビクビクしていました。

文学も演劇も、前衛的なものには全く興味が無かったので、話もちんぷんかんぷんでした。

今でも当時の芸術はさっぱりわかりませんが。

私は浅川マキより麻丘めぐみでした。


40年前の日本ダービの日、いつも寺山さんが座っていた場所に行ってみても、やっぱり寺山さんはいませんでした。

京都競馬場でミスターシービーが三冠を達成したあと、フジテレビで競馬中継の司会をしていた鈴木淑子さんと、寺山さんに菊花賞を見せたかったねと、しみじみ話したのも40年前です。


47歳。

いかにも早すぎます。