君主と教会の各権力者の権謀術数渦巻くルネサンス後期イタリアで、フィレンツェ市の書記官を務めたマキャヴェッリが隠棲時に書き上げ、ジュリアーノ=デ=メディチに献呈した書である。
なお、ジュリアーノの兄であるジョヴァンニは教皇レオ10世となる人で、僕自身高校の世界史の授業で習ったくらいに歴史上有名な教皇だ。ついに商人の一家が教皇を出した、ということで話題になった人物である。前教皇が着工し、建設中のまま引き継ぐことになったサン=ピエトロ大聖堂の建設費を得るために、免罪符を発行した教皇と言えば誰もがピンと来るに違いない。コシモ=ド=メディチと一緒に習った気がする。
話がそれたが、とにかくこの『君主論』の意図するところは、ジュリアーノに立派な君主になってもらい、イタリアを救ってほしいということである。そのために、過去現在の君主を取り上げ、君主はどのようにあるべきか、を説いている。人間性悪説を仮定し(ただし、ある程度、義理人情に影響されるとしている)、統治の仕方を場合分けして論理的に分析している。物事の成り行きを神様のせいにすることをせず、運命の半分は神様が決めているが、もう半分は自身で決められると考えているあたりがルネサンスの雰囲気を醸している。君主の行動が時代の雰囲気に合致しているかどうかで結果は変わると言っている点は、時代の雰囲気という曖昧なものを引き合いに出して逃げているとも言えなくもない。だが、時代の雰囲気は市民全体の感情のあらわれだ。「神の思し召し」としていない点は、教会が力を持っていた時代であることを考えれば、やはり斬新なんだろうなあ。
よい統治の例として、法によって国を治めていたフランスの国王と、類稀な権謀術数でのし上がったチェザレ=ボルジアを挙げている。
また話がそれるけど、両者がどんな感じかを。



当時のフランソワ1世のフランスは高校世界史でも大きく取り上げられるのであまり言うことはない。
後者のチェザレ=ボルジアは、教皇アレクサンドル6世の私生児である。アレクサンドル6世は好色だったらしく(教皇なのにエロエロ)、数多くの私生児を作ってしまった。私生児とは言え、自分の子供であるから、それぞれの子を諸侯にしたり王様にしたりとあれこれ世話を焼いたようだ。チェザレ=ボルジアは中でも一番優秀な子で、アレクサンドル6世は彼をヴァレンシア大司教、そして枢機卿にした(枢機卿は大司教の中から教皇によって選ばれる、ヒエラルキの中で教皇に次ぐNo2の地位。一人ではなく何人もいる)。そして、私生児の中で一番かわいがっていたホアンに家督を継がせた。一番出来のよい子供には教会権力を与え教皇である自分の近くに置き、一番かわいい子には世俗権力を与えて活躍の機会を与えたのである。
だが、あくまでチェザレは私生児。規定により私生児は教皇にはなれない。どんなに頑張っても枢機卿より上にはいけないのだ。歯がゆい思いをしていただろうその時、弟であるホアンは出来が悪く、軍を与えられているのに機会を生かそうとしない平凡な一諸侯だった。これには兄チェザレ=ボルジアは当然ながらガマンできない。
そこで彼は枢機卿を辞め、単身世俗に戻って諸侯に仲間入りし、イタリアの王を目指すのである。最初は兵がいなかったけれど、父の威光を最大限利用し、他の諸侯から軍をレンタルして名を上げた後、自前の軍隊を作り、群雄割拠状態のイタリアのヘゲモニー獲得へ乗り出したのだった。攻め方、統治の仕方は残酷さで知られ、後にホアンも暗殺してしまう。残虐非道この上ないとされ、しかし君主としての実力は一級で、イタリア統一はいいところまで行ったらしい。結局は後ろ盾であった父アレクサンデル6世の死去とともに、政敵の枢機卿が次期教皇になって、チェザレ憎しとゴソゴソ悪巧みする中、病気に倒れ、対策が取れずに破滅してしまうが、その残酷性で有名になって劇も作られ、今にまで語り継がれている。なお、イタリア語チェザレCesareは英語でシーザーCesar(Chaesar)、つまりガイウス=ユリウス=カエサルの「カエサル」がキリスト教社会で男性個人名として使われるようになったものだ。もしチェザレ=ボルジアがイタリアを統一できたなら、カエサルと重ねられたんだろうなあと思いを馳せるところである。



『君主論』と言うと、すぐマキャベリズム、目的のためには手段を選ばぬ権謀術数と批判されることが多いと聞く。でも僕はこれを読んで、批判する気にはなれなかった。なるほどー、と納得することの方が多いのだ。
たとえば、ローマ帝国を参考にしたのは明らかである次のような主張、すなわち「武力なしに外交はうまくいかない」という主張や「武力を持つ者が武力を持たない者に屈服することはない」と言う主張を聞いてどう思うだろうか。今の日本が北朝鮮に対して強く出られないこと、中国のガス田開発に強く出られないことを考えてみる。もし、自衛隊が軍隊と同じ水準で自由に行動できたなら、中国とロシアに協力してもらわないと効果が上がらない経済制裁なんかよりよっぽど良い対応策が取れるはずだ。
他にも、征服した地域が、征服前、法によって平和裏に統治されていたか、それとも専制君主に支配されていたかで、対応を変えるべきだとし、それぞれについてどうすればよいかまで踏み込んだ提案をしている。これもローマ帝国の「分割して統治せよ」を参考にしているのだろう。君主自身が、世襲の君主か、それとも新しく君主になったかでも場合分けし、とにかく起こりうるあらゆるケースそれぞれについて、君主が取るべき理想の方策を述べている。
マキャヴェッリを冷血人だと思っている人は、最終章である第26章を読むことをお勧めしたい。「ヘブライ人以上に奴隷化され、ペルシア人以上に屈従し、アテナイ人以上にばらばらにされ、指導者も秩序もなく、打ちのめされ、略奪され、罵倒され、踏みにじられ、あらゆる破滅を耐え忍んでいる」イタリアだが、過去の英雄モーゼやキュロス、テセウスの有能ぶりを認知するためにはヘブライ人、ペルシア人、アテナイ人は抑圧されて弾圧されている必要があったことを考えれば、イタリア人の有能ぶりを知るには今が絶好のチャンスだとして、イタリアを救う英雄の出現を渇望している。マキャヴェッリはイタリアを心底愛していたのである。極限状態にあるイタリアを救うためには、並はずれて優れた君主が必要だと感じた。そして当時の権謀術数渦巻くイタリアでは、(人文主義ではなく、現在の意味においての)ヒューマニズムにあふれた君主は役に立たなかったのである。

君主ならずとも、企業で部下を持つようになったら役立つかもしれないなあ、と思うような人心掌握に関する情報も多い。一度読んだだけじゃ分からないし記憶にもそう残らない。ふかーい一冊だと思った。そのうち何度か読み直そうと思う。

都営地下鉄大江戸線に乗る際、ドラえもんのCGでポリオ撲滅を宣言する公共広告機構の広告を見た。

ドラえもん、それはやはり今の日本人、特に工学の第一線を担う人々にとって科学と技術の象徴なのだろう。22世紀の日本。理論は抜きにして、夢あふれる道具を次々に出現させる4次元ポケット。そして、人間の感情を理解し、人間と同じように考え、人間と同じ精神的弱さと強さを兼ね備えたロボット、ドラえもん。科学と技術を修めようとする者、特にロボットを作りたいと思う者をインスパイヤせずにはいられない存在だ。


思えば、日本には常に、ドラえもんのような、科学と技術の象徴が存在していた。今の定年間近の工学関係者は、手塚治の「アトム」のようなロボットを作ることを夢見ていたし、今の第一線を担う人々は「ドラえもん」のような、人間と意思疎通の可能なロボットを作ろうとして人工知能の研究に邁進している。これから先を担う僕らの世代にとっての象徴はまちがいなく「ガンダム」である。


ガンダムのカッコよさは、見た者にしか分からない。僕はアキバにはまだ足を踏み入れていないし、オタクでもないけれど、ガンダムが好きだ。大好きだ。奨学生のときにGガンダムでしびれてしまった一人である。もちろんコロコロコミックではなくコミックボンボンを愛読し、プラモデル作りに励んだ。

そんな僕は、現実を見据えて、せめて人用のビームサーベルができたらなあと思っていたりいなかったりするものの、その話はさておいて、言いたいことは次のようなことだ。

すなわち、今の高校生たちにとっては、何か工学の夢を与えてくれるものはあるのか、ということだ。

ガンダムはガンダムWの頃が全盛だったと思っている。以降、XとかターンAとかシードとか、イマイチぱっとしない。(Xは見たが、その後の奴はもちろん見ていない。卒業した。)

そんななか、ポケットモンスターとか、ムシキングとか、どうも興味が生物系にむいていってしまっているんじゃないかと危惧している。僕は後輩に言いたい。お前ら、もっと鉄を好きになれ。鉄を。


そういうわけで、なんかこのごろDNAいじらずともRNAに介入して形質変えれちゃうぜ、みたいなアツい技術の開発とともに非常に盛り上がっている生物分野であるが、工学をおろそかにしちゃいかんと思っているのである。僕も薬学に進む身であり、工学のことについてあまり物を言える立場ではないのだが、やっぱ人間、基本は鉄だと思う。工学は農学薬学医学理学他もろもろに、実験装置というすさまじい武器を提供してくれているわけでもあり、工学が廃れちゃ他の分野も連鎖的に廃れること必定なのである。

ということで、いまどきの小学生中学生高校生には、一度ガンダムWを見て、カブトムシの代わりにはんだごてを買ってもらい、自分で回路作ってなさい、と言いたいのである。僕ですらはんだごて持っているんだから、工学に進む人はみんな、使用するもの、保存するもの、飾るもの、と3本くらい持っててください。以上!

合宿に行く、と書き残したまま、合宿後もずるずるとサボってしまい、10日も過ぎてしまった今日は10月2日。

その間もカウンターが回りに回っていたことを鑑みるに、見てくれている人のため、そしてなにより記録を残そうとしてブログはじめた自分のため、これはもうちょっと頑張らにゃならんなーと思った次第です。

夏休みも終わる。気を引き締めて、これからはガンガン書いていきたいと思っています。

今日から合宿。25日まで。ケータイからもブログ更新できるけど、絶対そんな体力ないだろうなあ。今日のアフターのビリヤードで、俺は酒を6杯飲まねばならないことになった。N刈さんとかImaさんみたいに20杯以上飲まねばならないのに比べれば、はるかにマシなわけだけど。

先輩たちはきっとパラパラパラ・・・・・・とコールを振りつつ一気に飲むのだろう。僕にそんな芸当ができるはずもないわけで。うーん。

1年前、授業でウェブサイト立ち上げたんだけど、今回はそのサイトのコンテンツの中から、分かりにくかったところをちょっと訂正して復刻させてみたい。1年前も、やっぱり主張してました。

前のサイトはgoogle検索みたいなロボット型検索エンジンをはじくように設定してあるものの、人名をそのまま書いてあるんで、リンク張るのはどうかなーってことでコンテンツをおいおい移すことにした次第。だって、もったいないし。では、以下がその主張。



色って、みんなにとって同じものなのだろうか。僕が思うに、おそらく答は否だ。僕にとって緑色に見えているものが、他の人にとって緑色―その人にとっての緑色ではなく、僕にとっての緑色―に見えるかどうかは怪しい。
つまりは色は相対的なものなんじゃないか、ってことだ。色というものは光の波長によって定義されるが、ある色は、一人一人に対して、てんでばらばらの色に見えるのではなかろうか。他人の見ている世界は自分の見ている世界とは違う色彩を持っているのではなかろうか。
気をつけなければならないのは、言葉の上では問題が生じないということだ。例えば、僕にとって赤く見え、ある人には(僕にとっての色で)青く見えているもの(A)があるとしよう。僕はAを赤いと言う。だが当然、ある人もそれを赤いと言うに違いない。なぜならば、ある人にとっては、僕にとっての青色が赤色なのである。逆も当然成り立つ。彼にとっての黄色が僕には茶色に見えていることがあってもなんら不思議ではない。
問題が生じない理由は、誰もが子供の頃、色の名前を「他人から教えてもらった」からであると思う。「色の名前」というのはあくまで、「色について齟齬を生じさせないための共通認識」であるように思える。みんな、ある色についてそれぞれ見えている色は違うのだけど、それを赤なら赤と言うことに決めたのである。そうすることでたしかに問題は起きなくなったけれど、他方、人は自分が他人と違う色彩をもった世界を生きているかもしれないということを、考えたりしなくなったのではなかろうか。
自分は自分だけに特有の色の世界を生きている。そう考えてみると、身の回りの何気ない場所、地域、ひいては世界が、今までとは少し違って見えはしないだろうか。逆に、今までとは少し違う気持ちでそれらを見ることができはしないだろうか。身の回りの世界に新鮮味を感じ、それらに興味関心を持つこと、それは科学者にとっては発見・発明の種だろうし、科学者ではない人にとっては、もちろん科学者にとっても、Quality of Lifeを向上させる大きなきっかけになるだろうと思っている。


今思うと、なんか微妙な感じな主張だ。


絶対的な色が存在する、という考え方は実にニュートン的な考え方だ。万有引力の法則を発見した彼は、慣性系間でのガリレイ変換に対してニュートン力学法則が不変であるということを見た。つまり、慣性系と慣性系の間で、ニュートン力学に関しては完全に相対性が成り立っていたのである。すべての慣性空間は相対的であるということだ。(電磁気学においてはガイレイ不変性が崩れる。アインシュタインはマクスウェルの方程式が正しいとしてニュートン力学を修正した形になる。)

それなのに、熱心な神学者でもあった彼は、絶対時間、絶対座標というものが宇宙に存在すると主張した。神様しか知りえない時間(絶対時間)と座標(絶対座標)が存在していて、人間の知りうる時間と座標は、絶対時間と絶対座標に対する相対的なものとして存在すると主張したのだ。だから、ニュートン力学では、同一時刻の物体AとB(同一時刻という考えがそもそもニュートン的である)の時間を表す変数は常に等しくtで表され、t1とかt2といったように区別されることはない。宇宙は絶対的に静止しているエーテルによって満ちている、という主張は、波であると考えられていた光が何を媒介にして伝わるのかを説明すると同時に、絶対静止系の存在を主張するものだった。

それに反論したのがアインシュタインである。彼は、人間がどんなに頑張っても知ることが出来ない絶対時間や絶対座標は、たとえ存在するにしても人間には知りえない以上、考える必要がない!無いものと同じである!無いものについてあれこれ考えるのは意味が無い!と主張した。明文化はしていないが、彼の考え方、そして理論はそういうものだ。光量子仮説でも、あくまで目の前に起こる現象を説明するため、それまでの通念とは180度異なる仮説を立てた。とにかく、現実に起こっていることを基本に据えているのである。理論は実験結果を説明できるように修正されていくものである、という非常に現実的な考え方だ。そんなアインシュタインも老いた後は既成概念に捕らわれ、量子論をついに認めることが出来ずに世を去るが。


このような経緯を踏まえた上で、僕は色も相対的なんじゃね?と思って書いたのだった。

でも、同じであることが証明できないのと同時に、違うことも証明できない。なにしろ実験ができないから。僕が誰かになることは不可能だ。それなら、アインシュタインに言わせれば、考える必要ないよー、ってことになるのかもしれない。相対性を追求したアインシュタインにならって、色の相対性を考えたのに、結局アインシュタイン的な発想で否定されてしまうんだから皮肉なようにも見える。



みなさんの意見も聞いてみたい。どう思いますか?自由に思ったことをコメントで書いてみてください。

インタラクションがブログの特徴だと思っています。

何が正しいとか、そういうことは言えないから、思いつくままよろしく。